■はじめに
9/29道新のコラムが現代の日本を「今だけ、金だけ、自分だけ」と表現し、殺伐とした社会になっていると評していました。言葉を付け加えるなら「今だけ良ければよい、金だけあればよい、自分だけ良ければよい」というのが今の社会にまん延しているのです。ただし、これらはいつまでも続かないから人はいつも追い求めて生きるしかありません。そして、そうならない現実に失望したり、自暴自棄になることがあります。今日は、私たちクリスチャンはどんな人生を目指すのかということを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.神は私たちが責められるところのない者になることを望み、そのために働いてくださる(5:23-24)
パウロは主の日すなわち主イエスの来臨に対して必要な勧告を書き終え、手紙の締めくくりに入ります。
パウロの焦点は現在ではなく主の日であり、これは彼の手紙すべてに共通しています(23節)。すでに語っているように、信者は信仰ゆえの苦難を避けられません。けれども、信者が熱心になるのは「苦難をどう乗り切るか」ではなく、イエスが再臨したときに「よくやった忠実なしもべだ」と神からほめられることなのです。神を愛する者のゴールと言えるでしょう。
パウロは「平和の神」すなわちすべてをご支配する方が、信者を完全に聖なるものにするようにと祈っています。「一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち(4:4)」と言っているように、聖さを保つのはあくまでも自分の意志です。しかし、内面を変えるのは神の力なのです。なぜなら人の奥底には神に背を向けたい心があり、それは自分ではどうにもできないからです。もし、自分自身の意志で聖くなれるとしたら、イエスは「助け主を与える(ヨハネ14:16)」と約束しないだろうし、パウロも「信者はキリストと一つになっている(ローマ6:5)」と言わないでしょう。「聖なるものになる」いわゆる聖化は信者と神の共同作業なのです。
23節後半「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、...」は「完全に聖なるもの」を具体的に説明しています。「霊、たましい、からだ(肉体)」は「人間を構成している3つのものそれぞれ」を言っているのではなく、全人格を強調しています。よく使う言葉だと「全身全霊」となるでしょうか。そして、「来臨のときに、責められるところのないもの」とあるように、イエスが再びこの世に来られたとき「信者としてふさわしく生きてきたかどうか」がチェックされます。違う言い方をするならば「ささげられたイエスのいのちを無意味にして来なかったかどうか」が問われるのです。神はご自身の子イエスを犠牲にして信者を滅びから救ってくださいました。それで、信者は罪に縛られていた人生から解放され、神に従う者に変えられました。それなのに罪に留まるのは、イエスのいのちを無駄にしていることになるから責められるのです。
しかも「保たれていますように」とパウロは祈っています。パウロはここまで何度もテサロニケ信者の信仰を喜びほめています(1:3,3:7-9,4:1,4:9,5:11)。しかし、「保たれていますように」と祈るのは、それほど聖さを保つのは難しいからです。迫害や弾圧といった信仰ゆえの苦難、あるいは神以外に頼りたい気持ち、こういった信仰から引き離す力を侮ってはなりません。
ただし「責められるかどうか」をビクビクすることもありません。パウロは「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24節)」と確信を口にします。今申しましたように、神が信者を召した、すなわち救いに招いたのは良い者とするためであり、悪をなさせるためではありません(エペソ2:10)。だから、神を信頼して神に従って生きれば「主イエス・キリストの来臨のときに、責められる」ことはないのです。
日本では「聖くなる」といえば「みそぎや払いの儀式、修行、功徳を積む」のように、自らの行いによります。さらに、それにかけた時間や量が多ければ多いほど効果があると期待します。しかし、私たちはそうではありません。私たちは、罪の誘惑を避けながら、どこまでも神を信頼して神に従います。そして、そのとき神が私たちをますます聖い者、ますます神を信頼し従う者に変えるのです。
Ⅱ.信者同志において聖い生き方が試される(5:25-28)
手紙の締めくくりに当たり、パウロはまず個々人で目指すべきことを語りました。それに続いて今度は信者同志のあり方について命じます。
あの偉大な使徒パウロでさえも祈りを必要としています(25節)。それほど、福音を伝える働きは過酷なのでしょう。パウロ自身が語っているように、神は聖霊やみことばを通して目に見えない形で信者を助けます(5:19)。と同時に、イエスが人として神の愛をこの世に示したように、信者は目に見える形で神の愛、すなわち大切にしていることを伝えます。それが祈りです。互いに祈り合うことによって互いに神の愛を実感できるのです。
このことをパウロは教会に用います(26-27節)。この当時から中東では習慣として、出会いと別れの際に頬や額、髪、手、足に口づけをし、親愛や敬意を互いに現していました(26節)。「聖なる口づけ」とあるように、パウロは単なる習慣ではなく信者としてするように命じています。つまり、「私にとってあなたは大事な神の家族です」という神の愛を互いに現すのです。しかも、「すべての兄弟たちに」とあるように、自分と合う人・気に入った人だけにするのではありません。自分の気持ちを優先するのではなく、「この人も神が愛している人」と受け入れることが重要です。
さらに、教会のすべての兄弟に手紙を読んで聞かせるように、パウロは強く命じています(27節)。パウロはテサロニケでの活動を中断せざるを得ませんでした。だから信者すべてに彼らを喜ぶ自分の気持ちを伝えたいのです。と同時に、手紙の内容をすべての信者が聞いて理解し、実践して欲しいのです。なぜならすべての信者が苦難に会うから、すべての信者が互いに励まし高め合う必要があるからです。
先ほど、「聖いものを目指す」こととして罪の誘惑を避けながら、どこまでも神を信頼して神に従うこと、と言いました。25-27節はまさにそれが信者同志において試されることがらです。「自分さえよければ」のように、他者を思いやれない気持ちが前面に出てしまったら、これらはとうていできません。私たちはイエスを信じイエスと一つになっていても、いまだ頑なさがあるから誰に対しても親愛を現わしたり、親切を実践するのは難しいのが現実です。しかし、「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24節)」とパウロが励ますように、私たちが神の愛を実践するとき神が働いてくださるのです。すぐに結果がでるかどうか私たちにはわかりません。けれども、信者同志が互いに大事にすることによって、自らに平安と互いの間に平和がもたらされるのです。
■おわりに
テサロニケの信者と同じように、私たちも福音を聞き、神の力によってイエスを救い主キリストと信じる者に変えられました。ただし、テサロニケの信者と同じように、信仰の人生には信仰による苦難があります。けれども、私たちはそれまでの人生では決して手に入れられないものを神から与えられました。それが、天の御国という救いの望み、そしてイエスとともに生きる平安です。
このことは、罪に縛られた私たちが絶対に受けられないものです。しかし、神は我が子イエスを犠牲にすることで天の御国とこの世での平安を私たちに与えてくださいます。これが恵みです。パウロはこう祈ります。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(5:28)」私たちは主イエス・キリストのいのちによって、そして主イエス・キリストを通して神の恵みが注がれています。この事実にしっかりと立つとき、私たちは聖いものを目指して歩めるのです。
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