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1月4日「幸いな人」(詩篇1篇)
■はじめに 詩篇の第1篇は、150ある詩篇全体の要約あるいは導入と言われています。というのも、詩篇全体が「神に従えば祝福を、背けば呪いを」という神の約束に基づいていて、詩篇1篇にはその約束が明確かつ簡潔に記されているからです。言い換えれば、第1篇がほかの詩の理解を助けてくれると言えます。今日は1年の始まりに当たって、私たちの生き方について聖書に聞きましょう。 ■本論 Ⅰ.主の定める幸いな人(1:1-3) (1)幸いな人は一切の悪から離れている 「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。(1節)」 「幸いなことよ」150ある詩篇がこのことばから始まります。感情を込めた言い方をするならば「幸いだ/なんて幸せなんだろう」となるでしょう。詩人はまず「こういう人が幸いだ」と宣言します。それで詩人はどんな人が幸いなのかを明らかにします。 1節には幸いな人のふるまい、特に悪に対するふるまいを説明しています。幸いな人は悪者の悪い企み(はかりごと)に誘惑されても退け、自分から悪の道に踏み込みません。そし
1月4日
12月28日「岩なる主に祈る」(詩篇28篇)
■はじめに 私たちは困ったときやつらいときに「神様助けてください/何とかしてください」と祈ります。その時、「神にとって不可能なことは一つもない(ルカ1:37)」と疑いなく祈っているでしょうか。私たちは抱えている問題がとてつもなく大きい状況では、「祈ったって何にもならない」と神の力を小さく見てしまう信仰の弱さがあります。そこで、今日は、詩篇28篇から、私たちの平安がどこから来るのかを聖書に聞きます。 ■本論 Ⅰ.詩人は嘆きによって素直に自分の気持ちを主に訴える(28:1-2) この詩篇の著者ダビデは主を岩にたとえて、耳を閉ざさないで、沈黙しないでくださいと嘆願しています(1節)。「耳を閉ざさない、沈黙しない」とは、訴えのことばを主が確かに聞いて、確かに応じてくださる様を言います。さらに、「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき(2節)」とあるように、聖所の奥すなわち主の臨在される至聖所に向かって手を差し伸ばしています。まさに「この祈りが神に届いて欲しい」という強い思いを言葉と動作に出しているのです。 またダビデは「私が穴に下る者ど
2025年12月28日
12月21日 クリスマス礼拝 「救い主のしるし」(ルカの福音書2章8-20節)
■はじめに ユダヤ人イエスが神の子救い主であることを完全に明らかにした「しるし」は十字架での死とよみがえりです。なぜなら「死人が3日目によみがえる」という、この世では絶対にあり得ないことが「わたしを信じる者は死んでも生きる」というイエスのことばを確かなものにしているからです。しかし、それよりもずっと前にイエスが救い主だとわかった人がいます。それが最初にイエスを見つけた羊飼いたちです。今朝はイエスの誕生における羊飼いの出来事から、私たちのために救い主が確かに生まれたことを見てゆきましょう。 ■本論 Ⅰ.主の使いは怯える羊飼いに「あなたがたの救い主の誕生」という喜びを伝えた(2:8-11) イエスがお生まれになった時、羊飼いたちにあることが起きました(8-9節)。羊飼いはその名の通り、家畜の羊を世話する職業の人たちです。彼らは夕方になると羊を囲いに入れて、一晩中交代で羊の群を見張りました(8節)。夜になると狼のような野獣や羊泥棒が出るからです。 この当時、戒律と呼ばれる古くからのしきたりによって、羊飼いたちは人々から見下されていました。
2025年12月21日
12月14日 「あなたの信仰があなたを救う」(マルコの福音書10章46-52節)
■はじめに 日本では「人に何かを求めるのは恥だ」という思想があります。さらに最近では「自己責任」という言葉が浸透し、人に頼ったり助けてもらうことに抵抗感を持つ人が多くなっています。ところが、聖書には神からの祝福を勝ち取るまで、しつこく神に迫った人がいます。例えば、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ」といって、神と格闘し続けました(創世記32:24-29)。また、ツロの女はイエスに「テーブルから落ちるパンくずでもいいからください」と願い続けて、娘のいやしを得ました(マルコ7:24-30)。試練にあるときだけではなく、常日頃から神の恵みを求めるのは、決して恥ではありません。 そこで今日は、イエスにあわれみを求め続けた盲人の姿から、信仰の本質について聖書に聞きます。 ■本論 Ⅰ.バルティマイはなりふり構わずイエスを求め続けた(10:46-48) エリコはエルサレムから東に約25kmのところにある町です。町の道ばたにはバルティマイという盲人が座って物乞いをしていました(46節)。バルティマイとは「ティマイの息子」の意味ですが、「汚れの子」とも訳
2025年12月14日
12月7日 「イエスの誠実」(マルコの福音書7章24-37節)
■はじめに ある本に「イエスは新しい宗教の創造者ではない。ユダヤ教の偉大な改革者だ。」と書いてありました。この本の通り、イエスはユダヤ人たちの宗教を廃止するために福音を伝えていたのではありません。イエスの時代、ユダヤ人はしきたりばかりを重んじて、「神を愛し、隣人を愛する」といった律法の本質を無視し、ゆがんだ信仰となっていました。それで、イエスはイザヤのようなかつての預言者と同じく、ゆがんだ信仰を正すためにユダヤ人に奇蹟をなしながら福音を伝えたのです。今日は、イエスの宣教には優先順位があるが、あわれみには制限がないことを、ご一緒に見てゆきましょう。 ■本論 Ⅰ.イエスは神の計画に従い宣教の優先順位を守るが、救いを求める者を見捨てはしない(7:24-30) イエスはゲンサレの地からツロに向かいました(24節)。ツロはガリラヤ湖の北西約50kmに位置し、地中海に面した町です。また、この町はイスラエルが北と南に別れた時には、すでにイスラエル民族ではない異邦人の土地となっていました。イエスの時代、ユダヤ人は異邦人を神の民ではない汚れた者として扱い、
2025年12月7日
11月23日 「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコの福音書5章35-43節)
■はじめに 信仰を持っていても神やキリストを信じられなくなる、いわゆる信仰の危機があります。例えば、つらい出来事が次々やって来たときに「信じていたのにどうしてこうなるの」と神に失望したり、「信じたって何にもならないと」信じるのを止めたい誘惑に駆られます。これは私たちだけではありません。ヘブル人への手紙を見ると、キリストを信じたゆえの迫害が収まらないために、読者はキリストに疑いや失望を感じ信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいました。それで、著者はそのような状況にあるクリスチャンを励まし、信仰にとどまらせようとしました。信仰の危機は誰にでもありうることなのです。今日はヤイロの出来事の後半から「信仰にとって何が大事なのか」を見てゆきます。 ■本論 Ⅰ.将来の保証がない中でもイエスを信じ続ける(5:35-37) 本論に入る前に、これまでの経緯を簡単に振り返ります。会堂司ヤイロは、死に瀕している娘を助けるために、群集をかき分けてイエスの前に出てひれ伏し、助けてくれるように嘆願しました。彼は「イエスが手を置くだけで治る」というイエスの力を信じて
2025年11月23日
11月2日 「信仰が救う」(マルコの福音書5章21-34節)
■はじめに サッカーや野球といった団体スポーツでは「仲間を信じて戦いました」というコメントをよく耳にします。広辞苑によると「信ずる(じる)」は「正しいとして疑わない」「まちがいないものと認め、頼りにする」という意味があり、信頼や信用と言い換えることもできます。ですので、「信じる」には心の思いだけではなく、それを源とする「ふるまい」も含まれていることがわかります。今日は、イエスがどんなことを信仰と呼んでいるのかをみことばに聞きます。 ■本論 Ⅰ.ヤイロはイエスの不思議な力を信じて、娘の救いをイエスに頼った(5:21-24) イエスと弟子たち一行はゲラサの土地から、ガリラヤ湖の向こう岸に再び渡ります(21節)。おそらくゲラサに来る前の場所カペナウムだと思われます。一行が着くと、身動きがとれないほど、たくさんの人が集まってきました。ゲラサでは出ていくように願われましたが、ユダヤ人の土地ではこれまでの活動によって、イエスを頼る人が増え続けていたのです。 そこに一人の男がイエスの前に出てきました。その男はヤイロという会堂司でした(22節)。会
2025年11月2日
10月26日 「イエスはあらゆるものの上に立つ」(マルコの福音書5章1-20節)
■はじめに 聖書には悪霊が人にわざわいをもたらしたり、人に悪を誘惑する出来事がいくつもあります。ヨブに降りかかった災難や、荒野でのイエスへの誘惑、イスカリオテ・ユダの裏切りはよく知られています。あるいは悪霊に憑りつかれた人もいます。例えば、サウル王やアハブ王に仕える偽預言者は悪い霊によって言動がコントロールされました。日本でも憑依とか狐憑きのように悪い霊の働きを表す言葉があります。私たちは目に見えない聖霊の存在とその働きを信じていますけれども、それと同じように悪霊の存在とその働きも認めています。今日は、悪霊の追い出しという出来事をとおして、目に見えないものに対するイエスの権威について聖書に聞きます。 ■本論 Ⅰ.イエスは大勢の悪霊を追い出し、人を苦しみから開放する(5:1-13) ガリラヤ湖でイエスは、弟子たちの前で嵐を鎮めるというわざを成し、自然をも支配できることを彼らに示しました。その後、イエス一行はカペナウムの対岸にあるゲラサ人(ゲルゲサ、ガダラとも言う)の土地に入りました(1節)。後ほど出て来るように、この土地では食料として豚を飼
2025年10月26日
10月19日 「地上で罪を赦す権威」(マルコの福音書2章1-12節)
■ はじめに 私たちは時々、祈りの中で戸惑うことがあります。例えば、こんな風にです。「こんなちっぽけなことを神様に祈っていいのだろうか」「こんなことを祈るのは神様に申し訳ない」「いくら神様に祈ってもどうにもならないかもしれない」 神のことをいつも気にかけるのは私たちにとって大事なことです。けれども、私たちが神のご性質や能力あるいはお気持ちを限定してしまうのは、人の分を超えています。今日は「中風の人のいやし」を通して、イエスの権威とあわれみについて聖書に聞きます。 ■本論 Ⅰ.イエスはご自分を疑いなく信じて頼る者に罪の赦しを宣言する(2:1-5) まず1-4節をお読みします。 2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。 2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。 2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。 2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかった
2025年10月19日
10月12日 「イエスのあわれみ」(マルコの福音書1章40-45節)
■はじめに 神がモーセに与えた律法には「汚れ」の規定があります。例えば、死体との接触やツァラアト、体からの漏出物などがあり、汚れた人や物に触れると汚れがうつるとされています。そのため、汚れた人はイスラエルの民の交わりから隔離されなければなりませんでした。ただし、一定期間の...
2025年10月12日
10月5日 召天者記念礼拝「天での生活」(ヨハネの福音書14章1-3節、ヨハネの黙示録21章1-5節他)
■はじめに 私たちの教会では毎年秋に召天者記念礼拝を執り行い、礼拝の後に教会の墓地で墓前礼拝を行っています。これらの礼拝は、天に召された方々のいのちを神に委ねるとともに、地上に残されたご家族の慰めを祈り、天の御国での再会を期待するものです。そのため、礼拝では天の御国や永遠...
2025年10月5日
8月10日「神とともに生きる」(詩篇18篇1-3節)
■はじめに 一人旅は他の人に気を使わなくていいので自分の思い通りに動けます。しかし、治安の悪い土地を旅するときや、秘境に行くためには現地に詳しいガイドが必要です。それと同じように、私たちの人生も先のわからない毎日を一人旅しているようなものです。ただし、神が一緒にいてくださ...
2025年8月10日
6月22日「神を恐れる者への約束」(マラキ書3章13節~4章6節)
■はじめに 映画やドラマのテーマに勧善懲悪(かんぜんちょうあく)というのがあります。これは善を喜び勧め、悪を憎んで懲らしめることを言います。不思議なことに勧善懲悪はいつの時代でもどの国でも人気があります。おそらく「善を喜び悪を憎む」という神のご性質が神によって造られた私た...
2025年6月22日
6月15日「私たちは苦難を乗り越えられる」(ローマ人への手紙8章26-30節)
■はじめに コリント人への手紙第二を見ると、パウロは異邦人に福音を伝える中で、とてつもない苦しみを受けました。使徒の働きで記されているように、投獄、むち打ち、石打といった制裁に加えて、「盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難」のように様々な苦難に何度も会いました。...
2025年6月15日
6月8日「イエスの証人となる」(使徒の働き1章1-8節)
■はじめに 今日はペンテコステです。イエスの弟子たちに聖霊が下ったのは、イエスのよみがえりから数えて50日目でした。「50番目」をギリシャ語では「ペンテコステ」と呼ぶので、聖霊が下った(降臨)日を「ペンテコステ」という記念日にしました。聖書によれば聖霊は助け主とも呼ばれ、...
2025年6月8日
5月18日「ペテロの告白と失敗」(マルコの福音書8章27-33節)
■はじめに 4つの福音書を見ると、イエスの12弟子の内、最もエピソードが多いのはダントツでペテロです。ペテロにまつわる出来事を読むと、彼の性格がわかります。いくつか挙げると、「水の上を歩きなさい」と言われて従った素直さ、「あなたはキリストです」と告白した率直さ、そして「イ...
2025年5月18日
4月20日イースター礼拝「イエスのよみがえりがもたらす益」(マルコの福音書16章1-8節他)
■はじめに 新約聖書マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書にはイエスの人生が記録されています。ただし、4つの福音書全部が同じ出来事を取り扱っている訳ではありません。例えば、イエスの誕生はマタイとルカだけです。その一方、十字架での死とよみがえりはすべての福音書で扱われています...
2025年4月20日
4月13日受難礼拝「しもべは私たちの罪を担った」(イザヤ書53章1-12節)
■はじめに ユダヤ人イエスは私たちと同じように人間の女性であるマリアから産まれました。ただし、受胎は私たちとまったく違い、聖霊によって受胎しました。これが、「イエスが神の子であり、まったく罪がない人」の根拠です。けれどもイエスは重罪人として十字架刑で死にました。神は「従え...
2025年4月13日
3月30日「新しい人を着る」(コロサイ人への手紙3章12-17節)
■はじめに イエス・キリストは宗教指導者ニコデモに「神の国に入るためには新生(新しく生まれること)が必要だ」と教えました。それは、キリストを救い主と信じた者がキリストと結びついて、内面がまったく新しくなることを言います。具体的に言うなら、罪に囚われていた歩みから神に囚われ...
2025年3月30日
3月16日「へりくだって神とともに歩む」(ミカ書6章1-8節)
■はじめに キリストを救い主と信じて永遠の滅びから永遠の命に救われた者は全員、神のために生きています。神のためとは「神の存在と神の恵みを世の中に知らせる」あるいは「神の喜びとなるように」といったことです。ところが一生懸命のあまり、私たちは神のためと言いながら、自分のために...
2025年3月2日
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