2月23日「耕地を開拓せよ」(ホセア書10章)
- 木村太
- 2020年2月23日
- 読了時間: 8分
更新日:2020年3月1日
私は1歳から小学5年の終わりまで、深川市の水田地域に住んでいました。水が温む頃、田んぼに水を引き、その後、代掻きといって専用の農機具で土を砕き、かき混ぜて田んぼの表面をなめらかにします。稲を刈り取った後の土は堅くひび割れていて、その上に雪が積もり春を迎えるからです。代掻き後の田んぼはぬるっとした泥の感触で、こうなってから苗が植えられます。これと同じように、私たちの心に主のことばを植えるには、それにふさわしい土壌が必要です。今日は北王国イスラエルに対する主の思いを通して、主への背きと従順がどのように形作られるのかを見てゆきます。
Ⅰ.北王国イスラエルは主によって繁栄したのに、偶像を崇めて他国に頼ったため恐ろしい罰を受ける(10:1-8)
9章から「こうあって欲しい」という主の思いとそれに背を向け続けた北王国イスラエルの姿が書かれています。主の怒りに加えて失望や無念さが伝わってくる内容です。
主は神の民イスラエルを豊かに実ったぶどうのように見ていました(1節)。主にとって彼らは喜びであり期待の民だったのです。ただしイスラエルは繁栄するにつれ、祭壇や石の柱を増やしました。「石の柱」は「高き所」と呼ばれるバアル礼拝を象徴する建物です。ですから彼らは主ではない神々いわゆる偶像を崇めたのです。本来、イスラエルは繁栄の感謝を唯一真の神、主にささげて主の栄光を周囲に明らかにする民でした。しかし、彼らは繁栄の感謝とこれからの期待を豊穣の神バアルにささげ、どんどんとその深みに入ってゆきました。イスラエルは神の民と自負しながら主以外の神々を崇めたので、主は「彼らの心は偽り」と断言し、彼らが偶像を礼拝できないようにするのです(2節)。
ここで主は王を責めます。なぜなら政治・宗教の指導者が祭壇や石の柱を建てて、民衆を偶像崇拝に導いたからです。3-4節「王がいても、私たちに何ができるだろうか。彼らは無駄口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。」とあります。律法によれば王は主に従い誠実でなければなりません。しかし、北王国の王たちは民との契約を守らないので、人々は「王は私たちに何もしない」と不満を言います。主は王のさばき、すなわち王の正義は畑の畝に生える毒麦のようだと言います。これは、王は政を正義として行っているけれども、それは良い麦イスラエルを覆ってしまう悪でしかない、と皮肉っているのです。
さらに主は王の愚策を明らかにします(5-6節)。「ベテ・アベンの子牛」はベテルにある金の子牛を指していて、北王国イスラエルはこれを神として崇めていました。ところが王は自分の国を助けてもらうための貢ぎ物として、その子牛をアッシリアへ持って行きました。神として作ったのに貢ぎ物にしてしまったのです。一方、神として崇めていた金の子牛が失われるのですから、これは神がいなくなったことに等しいのです。それで民衆も子牛に仕えていた祭司も喪に服すごとく嘆き悲しむのです。でももっと嘆き悲しむ事態が彼らを待ち受けています。なぜなら北王国イスラエルが平和と安心を偶像やアッシリアのような他国に求めたので、主がイスラエルを罰するからです(7-8節)。
イスラエルは貢ぎ物でアッシリアをコントロールしようと企みましたが、結局アッシリアのいいようにされ、偶像礼拝の場所は破壊され、首都サマリアは陥落し王や指導者は「水の面の木片」のように翻弄されます。貢ぎ物で平和や安心を得ようとしたのに、現実は恥、不安、恐怖、苦痛を得たのです。さらに8節「彼らは山々に向かって「私たちをおおえ」と言い、丘に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言う。」とあります。「山や丘が自分たちに崩れて殺して欲しい」と訴えるほど、アッシリアの攻撃は激しくむごいのです。それほどまでに主は北王国イスラエルの背きに怒っているのです。
キリストは世の終わりについて8節後半のことばを用い、世の終わりがいかに悲惨なのかを教えています(ルカ23:30)。私たちは平和や安心、喜び、満足を得るために才能や腕力のような自分の力に頼り、ときには他の人に頼ってしまいます。本来はすべてを治めておられる主に頼るべきですが、罪の性質故になかなかそう行かないのが現実です。しかし、忘れてならないのは、主に聞き従わない歩みの先に「山や丘が自分に倒れてくれ」と叫ぶような恐ろしい罰があることです。一方で、キリストを救い主と信じた者はその罰を免れて天の御国に入ります。北王国イスラエルの姿は、主に背いた末にある恐ろしい罰を私たちに教えています。
Ⅱ.主は関係回復の方法を農耕にたとえて示したが、イスラエルが聞かなかったために滅びに定める(10:9-15)
ここで主はイスラエルに対するご自身の思いを語ります(9-12節)。9節「ギブアの日」とはイスラエル王国ができる以前に起きた凄惨な殺戮を指し、そして「二つの不義」はこの出来事と現在の背きを指します。つまり、主は遠い昔からイスラエルの民が何一つ変わっていないことを指摘し、その懲らしめとしてアッシリアといった周辺国を攻撃に導くのです(10節)。
こんな北王国イスラエルの姿を見て、主は彼らのあるべき姿を語ります(11節)。エフライムはイスラエルの代名詞ですので、主は北王国イスラエルを雌の子牛にたとえています。子牛にとって「麦打ち場で踏む」作業は耕すことよりも楽であり、また餌を食べながら作業できます。つまり、神の民として従順な生き方は楽であり、喜びに満ちているのです。これが主と神の民との本来のあり方なのです。ところが、イスラエルの民が主に背き続けたので、主は彼らに苦痛を与えます。エフライム、ユダ、ヤコブはすべて神の民イスラエル民族を指しています。主は彼らにくびきをつけてその上に乗り、まぐわで耕地を耕させます。まぐわは鉄製の刃が付いた農機具で、これを引くことで土を砕いてならします。子牛にとっては「麦打ち場で踏む」作業よりもはるかに重労働であり、しかも作業中は草のような餌をはむこともできません。事実、イスラエルの民が約束の地カナンに定住するまで、主は様々な妨げを取り除き、必要なものを与えました。しかし、定住後は彼らはあらゆることを自分たちですることになります。罪を犯す前のアダムとエバの生き方もこれと同じです。
しかし主は困難な歩みだとしても祝福に満ちる道があることを教えます(12節)。「種を蒔く/実を刈り入れる/耕地を開拓する/雨が降る」のように、主は祝福の道を農耕にたとえています。
①正義の種を蒔く:正義とは神の善しとすることであり、「神のことばに従って生きる」と言えます。
②誠実の実を刈り入れる:誠実とは神が与えた使命を全うすることです。一人一人に特別な使命がありますが、全員に与えられているのは神と人を愛することです。
この二つをまとめるならば、主への完全な信頼と従順となるでしょう。そして、人が「主への完全な信頼と従順」となるために、「耕地を開拓(耕す)」するのです。耕地が豊かな実りを生むためには、まず種を蒔くために耕さなければなりません。収穫の後や休んでいる耕地の土は堅いため、まず耕して柔らかくする必要があります。つまり「正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れる」ためには、心を柔らかにして主のみこころ、言い換えれば主のことばを素直に受け入れる状態にするのです。リビングバイブルでは「堅くなった心を耕せ。」と訳されています。自分の考えにこだわり主の思いや指示を拒む頑なな心では正義も誠実も実現できません。頑なな心を砕いて、「あなたを信じ従います」という心にするのです。
そして主を求める時、堅くなった心が耕やされます。「主を求める」とは気持ちの上で、知識の上で、意志の上で「私には主が必要です」となることです。「私が生きていく上で、あらゆるところで主が必要です。」となった時、人はこだわりを捨てて主のことばを受け入れられます。
この歩みの上に、主は正義の雨を降らせます。天の御国は正義の満ちているところですから、正義の雨が降るとは、天の御国のごとくこの地上に秩序、平和、平安、喜びが満ちてゆきます。イスラエルの民が心を柔らかにして主に信頼し従順に歩む時、神の国がイスラエルの民から広がります。これが主がイスラエルに望んでいる本来の姿なのです。そのために主は律法を与え、信仰の指導者を与え、王を与え、預言者を与え、驚くべきわざを成してきたのです。
主の思いに対してホセアは北王国イスラエルの有り様を語ります(13節)。イスラエルは主の思いと全く反対の歩みをしています。最も深刻なのは「自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだから」とあるように、主ではなく自分たちの能力や考えに頼り、バアルのような他の神々あるいはアッシリアのような他の国々に頼ったことです。主に信頼しなければ、心に主を受け入れられないので正義も誠実もできません。まさに彼らの心はかちかちに堅くなった耕地そのものなのです。それゆえ、主から正義の雨が降らないので、イスラエルには混乱、争い、不安、恐怖という主の罰が満ちて行くのです。その様子が14-15節に描かれています。「要塞はみな打ち滅ぼされる/母親は子どもたちのそばで八つ裂きにされる/夜明けには、イスラエルの王は全く滅ぼされる」とあるように、北王国イスラエルはアッシリアによって徹底的に圧倒的にやられ、しかも残虐に殺されます。主以外に頼ったけれども、それは何の役にも立たないばかりか、結末は恐ろしい滅びなのです。もし、イスラエルが自分たちに向けられた主の思いを受け取ったならば、こうならなかったでしょう。
12節のことばは現代の私たちにも当てはまることばです。なぜなら、心を頑なにしたまま生きた先には永遠の滅びという恐ろしい罰があるからです。主はすべての人が永遠の滅びを免れて、天の御国で永遠に平安と喜びを味わえるように、我が子イエス・キリストを犠牲にしました。ですからまず私たちは「私にはあなたが必要です」と主を求めるのです。そして、キリストを救い主と信じることで、キリストと結びつき心が耕されて柔らかくなります。信仰を持つ前と後の生き方を比べれば、「堅くなった心が耕された」のがわかると思います。キリストを信じた私たちはすでに「正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れる」ように変えられています。だから、秩序、平和、平安、喜びといった主の正義を受け取れるのです。
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