10月19日 「地上で罪を赦す権威」(マルコの福音書2章1-12節)
- 木村太
- 10月19日
- 読了時間: 8分
■はじめに
私たちは時々、祈りの中で戸惑うことがあります。例えば、こんな風にです。「こんなちっぽけなことを神様に祈っていいのだろうか」「こんなことを祈るのは神様に申し訳ない」「いくら神様に祈ってもどうにもならないかもしれない」
神のことをいつも気にかけるのは私たちにとって大事なことです。けれども、私たちが神のご性質や能力あるいはお気持ちを限定してしまうのは、人の分を超えています。今日は「中風の人のいやし」を通して、イエスの権威とあわれみについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスはご自分を疑いなく信じて頼る者に罪の赦しを宣言する(2:1-5)
まず1-4節をお読みします。
2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
前回見ましたように、イエスはツァラアトの人をいやしました。そのあと、イエスはガリラヤ宣教の拠点であるカペナウムに来て、ある家に入りました。この家は以前、姑(しゅうと)の熱病を治したシモン・ペテロの家ではないかと言われています。人々はイエスがこの家にいることを知って家に詰めかけ、家は体が入る隙間もないほどでした。ガリラヤ地方を巡りながら多くのいやしを行ったことで、イエスは今や最も注目される人となっていました。
そこに、4人に担がれた中風の人が来ました。「中風の人」とは体の一部分が麻痺した人であり、脳卒中の後遺症ではないかと言われています。現代医学をもってしても脳による麻痺を完治するのは困難なのですから、ましてこの時代は治る見込みはありません。さらに、「彼が寝ていた寝床」は「貧しい人が使っているわらぶとん」を意味しますから、この人は医者にかかることもできなかったのでしょう。中風の人は一生寝たままであり、回復の希望はまったくない状況にありました。
ところが、中風の人は4人に担がれてこの家に来ました。おそらく、「人にはありえない力をイエスは持っている」このことを本人や友人が知ったのでしょう。ここで驚くことに、戸口は人でびっちりなので、友人たちは屋根に穴をあ開けて、上からイエスのところに中風の人を釣り降ろしました。この有様から「何とかして助けたい」という4人の気持ちと、「この方なら必ず治してくださる」という5名の確信が見て取れます。彼らの行動に対してイエスはこう言いました。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
彼らの行為は、イエスの話を聞いている人たちにとって、とんでもない迷惑となります。けれども、イエスは彼らを制止したり、咎めたりしませんでした。それどころか、イエスは彼らにご自身への信仰を認めて、「子よ。あなたの罪は赦された。」と言いました。中風を治して欲しいのに、「罪は赦された」とは、ちぐはぐな感じを受けます。しかし、それで良いのです。というのも、当時のユダヤ人は病の原因が罪であると信じていたからです。罪があるから神によるわざわいがあり、そのわざわいが病気や事故、災害として現れるのです。
つまり、罪が赦されれば病はなおると信じていたのです。中風の人は回復の見込みのない病によって、罪の重さに苦しみ、さらに周囲から罪人として扱われる苦しみを負っていました。ですから、イエスは「子よ」と彼をいつくしみ、罪の赦しを宣言したのです。
5節のことばから信仰に関して2つのことが言えます。一つは信仰とは何かです。3-4節から信仰とはこう言えます。「イエスがこの状況を必ず変えてくださると信じ、100%イエスに頼り、イエスに委ねる。そして、具体的な行動を起こす。」重要なのは信仰には行動が伴うということです。もう一つは信仰と罪の赦しの順序です。イエスは中風の人と4名の信仰を見て、罪の赦しを宣言しました。信仰があって罪が赦されるのです。「罪が赦されたから、あるいは助けられたからイエスを信じる」ではありません。「イエスへの信頼から行動を起こす」これが、イエスが認めている信仰であり、神が私たちに求めていることです。
Ⅱ.イエスは罪の赦しを宣言した後で、赦された証拠を示す(2:6-12)
ところで、イエスが罪の赦しを宣言したのは、単に中風の人をいやすためではありません。もう一つ理由があります。結論から言うと、罪を赦す権威がご自分にあることを人々に知らせるためです。6-7節を読みます。
2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
律法学者は律法を解釈し、生活への適用を民衆に教え、指導していました。いわば、律法の専門家です。彼らは「座っていた」とあるように、今最も注目されているイエスが何を語り、何をするのかをじっくり見たくて座っていたのです。ここで彼らはイエスのことばに「神を冒瀆する」という恐るべき律法違反を見つけました。
なぜなら「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」とあるように、罪を赦すことができるのは神だけの特権です。だから、「あなたの罪は赦されました」と言うのは「私は神である」と宣言したのと同じなのです。それゆえ律法学者たちは「イエスは神を冒涜している」と見なしました。しかもこのことは、律法で定められているように「石打による死刑」に相当します。
ここでイエスは「神を冒涜している」という彼らの心の中を見抜いて、こう答えました。9節を読みます。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
イエスは「私は神と同じように罪を赦す権威を持っている」と答えないで、律法学者たちに質問を投げかけました。「あなたの罪は赦された」と宣言するのは、今申しましたように「私は神だ」と宣言するのと同じですから、自分のいのちを失うことにつながります。一方、「起きて、寝床をたたんで歩け」は「中風が完治したこと」の宣言であり、これは預言者でもできることです。ユダヤ人がよく知っているエリヤやエリシャは人知の及ばない奇蹟をなしているからです。その上、もしこの宣言通りにならなくても、死刑にはなりません。ですので、「起きて、寝床をたたんで歩け」と宣言する方がはるかに容易なのです。けれどもイエスは難しい方を宣言しました。その理由が10節です。
2:10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
イエスがこの世に来られた目的の一つが「私は神と同じ権威を持っている」ということを人々に知らせるためでした。それでイエスはご自分のいのちをかけてでも、ご自分を頼る者を神の権威を用いていやすのです。ただし、「あなたの罪は赦された」と宣言しただけでは、本当に罪が赦されたかどうかわかりません。そのためイエスは中風の人にこう命じました。11-12節を読みます。
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。
中風の人はイエスが命じたとおりに、すぐさま寝床を担いで皆の前から出て行きました。つまり、誰の目から見ても中風が完治したのです。そしてこの事実が「神と同じようにイエスは罪を赦す権威を持っている」という動かぬ証拠となりました。それで、家の中にいるたくさんの人々はイエスに驚き、イエスを通して神を崇めたのです。
イエスは「あなたの罪は赦された」と中風の人に宣言し、その後で、起きて歩くという罪の赦しの結果を人々に示しました。ご自身が罪を赦す神の権威を持っていることを明らかにするためには、この順序が大切だったのです。そして、ここから宗教指導者との対立が始まり、十字架への道に踏み込んで行くのです。イエスはご自分の危険を顧みることなく、「人を救う」という神から与えられた使命を全うするのです。
■おわりに
イエスは罪の赦しを宣言し、それを目に見える形で証明しました。このことは、死からのよみがえりにつながっています。イエスは信仰とよみがえりについて、こう宣言しています。
ヨハネの福音書11:25-26「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。
イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。」と語った後、十字架で死んで三日目に死からよみがえりました。現代でも説明できない、死からのよみがえりを目に見える形で証したのです。それにより、「イエスを信じる者は罪が赦されて永遠のいのちを持つ」このことが真実であると私たちは知るのです。加えて、イエスは身の危険を顧みず罪を赦す権威で中風の人を治しました。それと同じように、イエスは自らのいのちを犠牲にして私たちの罪を赦し、滅びから救ってくださいました。ここにイエスのあわれみがあります。




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