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12月28日「岩なる主に祈る」(詩篇28篇)

  • 木村太
  • 2025年12月28日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 私たちは困ったときやつらいときに「神様助けてください/何とかしてください」と祈ります。その時、「神にとって不可能なことは一つもない(ルカ1:37)」と疑いなく祈っているでしょうか。私たちは抱えている問題がとてつもなく大きい状況では、「祈ったって何にもならない」と神の力を小さく見てしまう信仰の弱さがあります。そこで、今日は、詩篇28篇から、私たちの平安がどこから来るのかを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.詩人は嘆きによって素直に自分の気持ちを主に訴える(28:1-2)

 この詩篇の著者ダビデは主を岩にたとえて、耳を閉ざさないで、沈黙しないでくださいと嘆願しています(1節)。「耳を閉ざさない、沈黙しない」とは、訴えのことばを主が確かに聞いて、確かに応じてくださる様を言います。さらに、「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき(2節)」とあるように、聖所の奥すなわち主の臨在される至聖所に向かって手を差し伸ばしています。まさに「この祈りが神に届いて欲しい」という強い思いを言葉と動作に出しているのです。

 

 またダビデは「私が穴に下る者どもと同じにされないように。(1節)」と口にしています。「穴に下る」は墓に入ることのたとえですから、死人のように扱わないでくださいと訴えているのです。イスラエルの民にとって死は神との断絶であり絶望を意味します。つまりダビデは、「私を死人のように放っておかないでください。生きている私の訴えを何とかして聞いてほしい。」と嘆いているのです。

 

 詩篇の詩人も私たちも安心しているときや喜んでいるときには、まず主への感謝や賛美から祈りを始めます。しかし、感謝のことばもほめたたえることばもなく、いきなり訴えがあるのですから、いかに緊急で危機的な状況にあるのかがわかります。このダビデのように、私たちも「何とかして欲しい/ここから抜け出させて欲しい」というときには、祈りの最初から嘆いていいのです。「主よ感謝します/あなたをほめたたえます」といった取り繕いとか形式はなくても、後ろめたさを感じなくてよいのです。

 

 イエスもゲツセマネの園では「父よ、ほめたたえます」と祈り始めませんでした。これから受ける十字架を前にして、悲しみもだえながら「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」とひれ伏して祈りました。使徒ペテロもこう言っています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」自分の心をそのまま注ぎ出す祈りを父なる神は聞いてくださっています。

 

Ⅱ.詩人は主を信頼して今の状況からの脱出を訴える(28:3-5)

 さて、ダビデが主に嘆く理由が3-4節にあります。ダビデはこれまで主に生き方を求め、主に従い、平和を築いて来ました。けれども今は危機的状況にあります。それでダビデは「従えば祝福を、背けばのろいを」という約束からすれば、「まるで主は自分を悪者として扱っているのではないか」と思っているのです。それゆえ「どうか悪者や不法を行う者どもと一緒に私を引いて行かないでください。(3節)」とあるように「私を悪者と扱わないでください。」と訴えているのです。同じように、4節「悪者に罰を与えてください」という訴えにも「私に苦しみを与えるのではなく、私を苦しめている悪者に災いを下してください」という、苦難からの解放が込められています。

 

 一方で、5節「彼らは【主】のなさることも御手のわざをも悟らないので主は彼らを打ち壊し建て直すことはされません。」とあります。主は義なるお方ですから、ご自身に背く者をそのままにせず、必ず罰します。つまりダビデは、主の正しさを疑っておらず、主は正しいお方だから「悪人を打ち壊し、立て直さない」と信じているのです。信じているから主に嘆くことができるのです。もし、主がいい加減な方と分かっていたら、正しさを訴えても無意味です。

 

 私たちも自然災害やいわれのない事件・事故に巻き込まれることがあります。度重なる病に冒されることもあります。そのときに、「キリストを信じているのにどうしてこんな目に遭うの」と嘆くことがあるでしょう。あるいは「私は何もしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないの」と嘆くことがあるでしょう。突然襲う苦痛に遭うとき、私たちは主に向かって激しく嘆き、助けを求めます。ただ、大切なのはダビデのように「完全に正しい神は必ず助けてくださるお方だ」という信頼です。「言葉」で「体」でどれほど大声を上げて嘆き、訴えても良いのです。ただそこに「私は主を信じます」という100%疑いのない信頼があればそれで良いのです。

 

Ⅲ.詩人は祈りの中ですでに助けられたことを確信し平安を得た(28:6-9)

 ところが、6節からダビデのことばが一転します。ダビデは「ほむべきかな。主。(6節)」そして「私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。(7節)」と心から主をほめたたえています。「喜び踊り、歌う」のですから、ここには不安や恐れは一切ありません。

 

 さらに9節では「どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。」と自分の民のためにとりなしの祈りを捧げています。つまり、自分のことはもう解決済みなのです。つい直前まで「私の願いの声を聞いてください。私を悪者のように扱わないでください。」と必死に嘆いていたのに、今は主をほめたたえ、自分のことではなく民のことを祈っています。

 

 明らかにダビデの心は変わりました。というのも、彼は6節「主は私の願いの声を聞かれた。」さらに7節「私の心は主に拠り頼み私は助けられた。」と語っているからです。まだ願っただけで自分の置かれている状況は何一つ変わりがないのに、「主は願いを聞いた」「私は助けられた」とダビデは確信しました。主がこの祈りを聞いて、自分を助けてくださることを確信したから、ダビデは不安と恐れから平安に変えられたのです。

 

 では、ダビデはどうして祈りの中で変えられたのでしょうか。鍵は主への呼びかけ方にあります。ダビデは主のことを「わが岩(1節)、私の力(7節)、私の盾(7節)、彼らの力(7節)、砦(8節)」と呼んでいます。このたとえ方に主への信頼が明らかにされています。

 

 主の力は万軍のように強く、どんな敵からも守り、どんな敵をも打ち砕きます。また、主の正しさは岩のように決して揺るがず、主の前に正しい者を主は正しいと認めて祝福します。決して悪者のようにわざわいをくだすことはありません。だから、主に願っているだけで、現実は変わっていなくても「もう大丈夫だ」となるのです。人の目から見れば何一つ変わっていなくても、それよりもむしろ悪くなっているとしても「神は平安をくださる」と確信できるのです。

 

 この世の平安はほとんどの場合、結果や見通しに左右されます。思い通りになったかどうかとか、悩みの原因がなくなったとかで、平安が左右されます。あるいは、解決策が見つかったとか、助けてくれる人が現れた時に私たちは安心するものです。しかし主なる神は、今の状況がどうであろうとも、結果がどうであろうとも、まったく先が見えなくとも、平安を与えてくださるのです。私たちにとって最も大事なのは「わが岩よ」という信頼が平安をもたらすということです。私たちの平安は不思議な仕方で主からもたらされるのです。

 

■おわりに

 繰り返しになりますが、この世に生きる中で私たちには困難や試練が必ずあります。大きな悲しみや苦しみの中で、私たちはダビデのように、主に向かって激しく嘆き、叫び、訴えるでしょう。一方で主に祈ったところでどうにもならないと、主を疑う弱さもあります。主によって苦しみから開放される確信を持っていても、目の前に迫る不安や恐れに引き込まれてしまいます。

 

 しかし、私たちにも「岩であり、盾であり、砦であり、力である主」がおられます。パウロもこう語っています。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です(ローマ8:37)」。私たちを愛してくださるすべてに勝利したイエスがいつも自分のそばにいてくださり、自分の中にいて力を与えてくださいます。そして人を大切にしてくださる神が私たちを包んでいます。岩なる主を信じて祈るとき、私たちは嘆きから安らぎに変わってゆくのです。

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