12月21日 クリスマス礼拝 「救い主のしるし」(ルカの福音書2章8-20節)
- 木村太
- 2025年12月21日
- 読了時間: 7分
■はじめに
ユダヤ人イエスが神の子救い主であることを完全に明らかにした「しるし」は十字架での死とよみがえりです。なぜなら「死人が3日目によみがえる」という、この世では絶対にあり得ないことが「わたしを信じる者は死んでも生きる」というイエスのことばを確かなものにしているからです。しかし、それよりもずっと前にイエスが救い主だとわかった人がいます。それが最初にイエスを見つけた羊飼いたちです。今朝はイエスの誕生における羊飼いの出来事から、私たちのために救い主が確かに生まれたことを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.主の使いは怯える羊飼いに「あなたがたの救い主の誕生」という喜びを伝えた(2:8-11)
イエスがお生まれになった時、羊飼いたちにあることが起きました(8-9節)。羊飼いはその名の通り、家畜の羊を世話する職業の人たちです。彼らは夕方になると羊を囲いに入れて、一晩中交代で羊の群を見張りました(8節)。夜になると狼のような野獣や羊泥棒が出るからです。
この当時、戒律と呼ばれる古くからのしきたりによって、羊飼いたちは人々から見下されていました。なぜなら、動物を相手にしているので様々な戒律を守ることができないため、汚れた者というレッテルが張られていたからです。例えば、ほとんど野原にいますから食事の前に手を清めるとはできません。また、24時間、365日の労働なので、自分の罪を赦してもらうための儀式に行くこともできません。だから、彼らは汚れた者あるいは罪人と定められ、神の国には絶対に入れない身分だったのです。神の民ユダヤ人なのに、どうがんばっても神の国に入れない身分というのは、希望のない人生としか言いようがありません。
そんな彼らに神からの主の使い、すなわち御使いが天から降りてきました。暗闇の中、主の栄光が彼らの回りを明るくしました(9節)。それで彼らは死を覚悟するほど恐怖で怯えました(9節)。というのも、主の栄光は主がそこに来たことのしるしであり、人は何をされても拒否や抵抗がいっさいできないほどの威圧を感じるからです。まして、汚れている身分の羊飼いにとっては、自分を滅ぼすために来たのか、と思うのは当然です。悪を絶対に赦さない神が目の前に現れたら、だれでも恐れを抱くのです。
ところが御使いは不思議なことばを彼らにかけました。「恐れることはありません。」御使いは怯えている羊飼いを安心させます(10節)。そして、自分は罰を与えに来たのではなく、すべての人にとってたいへんな喜びとなる、良い知らせを告げに来た、と言うのです(10節)。彼らは安心したものの、「何で見下されている私たちに告げたのか」と戸惑ったことでしょう。
御使いは続けて「何がすべての人にとってたいへんな喜びなのか」を語ります。「ダビデの町」はダビデが生まれた町ベツレヘムを指し、ユダヤ人であれば誰でも知っていました(11節)。さらに、イエスが生まれる約700年前「ベツレヘムでキリストすなわち救い主(メシア)が生まれる」という神のことばが告げられていました。これもユダヤ人はよく知っている事柄です(ミカ5:2)。御使いはこのことが実現したと告げるのです。
ここで御使いは生まれてくる子を三つの名前で呼んでいます(11節)。
1.救い主:人を罪の滅びから救い、悪の支配から解放する者
2.主:全ての支配者、権威者である神そのもの
3.キリスト(油注がれた者):平和と繁栄に満ちた神の国の王
つまり、生まれてくる子どもはユダヤ人が待ちに待った救い主であり、この子どもが神の国を実現するのです。御使いはこのことを羊飼いたちに知らせるために天から来ました。
さらに、注目することばは「あなたがたのために」です。御使いは羊飼いたちに向かって「あなたがたのために」と告げています。汚れている身分の彼らに「あなたがたのためにメシアが生まれた」と言うことによって、彼らは差別されていないと思うでしょう。加えて、「こんな自分でも神の国に入れる」というたいへんな希望と喜びが生まれます。
私たち人間は生まれたままでは、神に背を向けてしまうという罪を持っています。それゆえ、神から怒られる存在、すなわち永遠の苦しみに放り込まれる存在なのです。羊飼いたちが神を恐れたように、私たちも神に恐れおののく存在なのです。けれどもそんな私たちに、神は御使いを通して「あなたがたのために救い主が生まれた」と語ってくださいます。神から怒られ見捨てられて当然であるにもかかわらず、神は「あなたがたのために」と救い主をこの世に生まれさせてくださるのです。それほど神は私たちを大切にしているのです。
Ⅱ.羊飼いたちは飼葉桶に寝ているみどりごを見つけて、御使いのことばが本当であることを認め、神をほめたたえた(2:12-20)
さらに御使いはことばを続けます。ダビデの町ベツレヘムは大きな町ですから、そこで生まれた赤ちゃんはたくさんいます。そこで、誰が救い主であるかのしるし(証拠)を御使いは告げました(12節)。一言で言えば見分け方を教えたのです。
御使いは「ベツレヘムの中で布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃん」が救い主だと言います。どの赤ちゃんも産まれたばかりは、布(産着)にくるまっています。また、一般的な家では住居の一部が家畜小屋でしたから「飼葉桶(家畜のえさ入れ)」もどこの家にもあります。ですから、探すのは手間がかかるでしょう。しかし、「飼葉桶に寝ている赤ちゃん」は、普通はまずありえません。マリアとヨセフは赤ちゃんイエスを寝かせる場所がなかったので仕方なく飼葉桶に置きましたが、それが見つけ出すしるしとなるのです。神の不思議なみわざとしか言いようがありません。
ここで、御使いがしるしを伝えた後、驚くことが起きます。羊飼いたちの目の前で御使いと無数の天の軍勢が神をほめたたえました(13-14節)。彼らは、「いと高き所」すなわち天で神の栄光が輝き、地上で「平和がみこころにかなう人々」すなわちイエスを信じた人々に平和(平安)があると歌いました。キリストの誕生によってこのことが間違いなく実現するのです。だから歓喜の歌を歌ったのです。
さて、羊飼いたちはベツレヘムに探しに行きました(15節)。そして御使いが言った通り、彼らは「飼葉桶に寝ている赤ちゃん」を見つけました。御使いの言ったことばがすべてその通りになったのです。それで、彼らは御使いが現れれたときから、ここに至るまでをヨセフとマリアやそこにいた人々に話しました(17-18節)。当時のユダヤ人からすれば「メシアが赤ちゃんとしてやってくる」というのは、到底信じられないことです。しかし、羊飼いたちは御使いのことばをそのまま体験しました。つまり、「今目の前にしている赤ちゃんが救い主キリストである」これが事実であることを羊飼いたちは知って、信じたのです。だから、あり得ないことであったとしても、それを口にできたのです。
御使いが来たとき、羊飼いたちは神を非常に恐れました。ところが今は神を誉めたたえ、喜びで満ちています(20節)。彼らの帰る場所は再び羊の群れであり、「汚れた人」という身分もそのままです。羊飼いの日常は何一つ変わらないのに、彼らは喜んでいるのです。なぜなら、この世に神の国が造られ、平和と繁栄をもたらす救い主がついに来たからです。そして、この世の基準からすれば絶対に神の国に入ることが認められない自分たちもそこに入ることができるからです。彼らは希望のない人生から希望にあふれた人生に変わったのです。まさに御使いのことばは「すばらしい喜びの知らせ」となりました。
■おわりに
ルカはこの福音書を書くに当たりこう言っています。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。(ルカ1:3)」ですから、羊飼いたちのできごとは紛れもない事実です。それゆえ、ベツレヘムでマリアから生まれたイエスが救い主キリストであることも紛れのない事実です。
羊飼いたちは布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃんをベツレヘムで見つけました。これは、この赤ちゃんが救い主であるというしるしです。そして、この赤ちゃんが私たちのために生まれたというしるしです。そして、この赤ちゃんが私たちの人生に喜びと平安を与えるというしるしです。
イエスは罪ある人を滅ぼすために生まれたのではなく、人を永遠の滅びから救うために生まれました。しかも、地上の人生では神からの不思議な平和・平安が間違いなくあるのです。「あなたがたのために救い主が生まれた」この「あなたがたには」私たちも当然含まれています。イエスを救い主と信じる者は全員例外なく、この羊飼いたちのように「恐れや絶望の人生」から「喜びと希望の人生」に変えらているのです。




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