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10月26日 「イエスはあらゆるものの上に立つ」(マルコの福音書5章1-20節)

  • 木村太
  • 10月26日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 聖書には悪霊が人にわざわいをもたらしたり、人に悪を誘惑する出来事がいくつもあります。ヨブに降りかかった災難や、荒野でのイエスへの誘惑、イスカリオテ・ユダの裏切りはよく知られています。あるいは悪霊に憑りつかれた人もいます。例えば、サウル王やアハブ王に仕える偽預言者は悪い霊によって言動がコントロールされました。日本でも憑依とか狐憑きのように悪い霊の働きを表す言葉があります。私たちは目に見えない聖霊の存在とその働きを信じていますけれども、それと同じように悪霊の存在とその働きも認めています。今日は、悪霊の追い出しという出来事をとおして、目に見えないものに対するイエスの権威について聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.イエスは大勢の悪霊を追い出し、人を苦しみから開放する(5:1-13)

 ガリラヤ湖でイエスは、弟子たちの前で嵐を鎮めるというわざを成し、自然をも支配できることを彼らに示しました。その後、イエス一行はカペナウムの対岸にあるゲラサ人(ゲルゲサ、ガダラとも言う)の土地に入りました(1節)。後ほど出て来るように、この土地では食料として豚を飼っていました。律法では豚は汚れた生き物(レビ11:7)ですから、ここはユダヤ教とは違う異教の地でした。

 

 イエスが舟から陸に上がると、汚れた霊につかれた人がすぐにイエスを出迎えました(2節)。汚れた霊は神に敵対し、この世に悪をもたらす目に見えない存在であり、悪霊とも呼ばれています。3-5節にはその人の様子が詳しく記されています。「たびたび鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい(4節)」とあるように、悪霊は人に超人的な力をもたらします。また、昼夜を問わず大声で叫び続け、石で自分の体を叩き続けて傷つけていましたから(5節)、悪霊は人の精神を狂わせ、心身共に破壊しようとするのです。

 

 当然ながら、地元の人々にとってこの人は恐ろしい存在であり、汚れた存在となっていました。しかも、悪霊ですから人の手ではどうすることもできません。それでこの人は、人が近寄らない墓場に放置されていました(3節)。まさに、悪霊につかれた人は世の中から捨てられ、見放された人なのです。そんな彼がイエスを迎えました。

 

 汚れた霊につかれた人は遠くからイエスを見つけました(6節)。悪霊はイエスの存在に敏感で、遠く離れていても見分けることができます。いつも一緒にいる弟子たちが、未だにイエスを神と悟れない有様と対照的です。彼は遠くから走って来て、イエスの前にひれ伏しました。相手がこちらに来るのを待つのではなく、自分から急いで行って、目の前でひれ伏すというのは、最大級の敬意を表しています。つまり、悪霊はイエスを絶対的な支配者だと認めているのです(7節)。

 

 彼がこんな行動をとった理由をマルコはこう説明しています(8節)。悪霊は自分の力がイエスにはとうてい及ばないことを自覚しています。そして、イエスが必ず自分を滅ぼす時、すなわち再臨による聖い神の国の到来がやって来ると信じています。けれども、「私とあなたに何の関係があるのですか。(7節)」と叫んだように、悪霊はその時が今ではないことをわかっているので、今はイエスとの関りを持ちたくないのです。

 

 ところが、イエスはまだその時ではないのに悪霊の働きを放っておかず、出て行くように強く命じ、悪霊の名を尋ねました(9節)。おそらく、人を激しく苦しめた悪霊の正体を人々に明らかにしたかったのでしょう。悪霊の名はレギオンでした。レギオンとは4千人から6千人の軍隊を表しますから、それほど多くの悪霊たちがこの人を支配していたのです。しかし、彼らはどれだけ大勢であってもイエスには太刀打ちできないのをわかっているので、「自分たちをこの地方から追い出さないでください(10節)/私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。(12節)」とイエスにすがりました。悪霊にとって最大の恐れは存在そのものの消滅だからです。それゆえ、彼らは豚に入ってまでもこの世に存在することを願ったのです。

 

 イエスは汚れた霊たちの懇願に応じます。不思議なことに、イエスは悪霊たちの願いを聞き、彼らを豚の中に入らせました(13節)。イエスの力を持ってすれば悪霊どもを瞬時に消し去ることもできたはずです。なのになぜ、彼らの言うことを聞き入れたのでしょうか。それは、イエスはおびただしい数の悪霊をも、ことば一つで支配できる権威を人々に明らかにするためでした。

 

 もし「出ていけ」と言って、悪霊が消え去り、その人が正気に戻ったとしたら、イエスは預言者や呪術師と見なされるかもしれません。けれども、「大勢の悪霊を豚に乗り移らせるのは神にしかできないこと」これが当時の常識であり宗教観でしたから、イエスはレギオンという名前を明らかにし、豚の中に入らせたのです。それで、悪霊につかれた人が錯乱していたように、悪霊が入った豚は崖から湖になだれ込み、すべて死にました。つまり、汚れた霊にとりつかれた人とのやり取り、そして突然豚が異常な行動を起こしたこと、これによってイエスはご自分が神であることをはっきり示したのです。

 

このイエスのわざは2000年後の現在も続いています。というのは、悪霊が完全に滅ぶのはイエスが再びこの地上に来られたときだからです。つまり、今も悪霊はこの世界に存在しています。しかし、イエスはすべてを支配する権威を用いて、私たちを苦しみから解放し、守ってくださっています。

 

Ⅱ.イエスは、人々が神のあわれみを知るためにわざをなす(5:14-20)

 さて、この出来事はこれで終わりではありません。まだ続きがあります。豚を飼っていた者たちをはじめ、正気に返った人を見た者たちはイエスに恐れを感じました(15節)。レギオンという大勢の悪霊を支配したのですから当然と言えます。また、あちこちに言い広めてしまうのも納得できます(14,16節)。

 

 ここで、ゲラサ地方の人々と悪霊から解放された人とではイエスに対して全く違う態度を見せました。豚を飼っていた者たちやこの出来事を見聞きした人々は、イエスにここから立ち去るように強く求めました(17節)。なぜなら、自分たちの財産である豚が全滅したからです。彼らにとってイエスは災いの元であり、この土地に厄介で損なことを持ち込む存在です。つまり、一人の人が悪霊から解放されることよりも、自分たちの生活が保たれる方が大事なのです。悪霊につかれた人を墓場に放置しておくという態度からも、彼らが何を大事に思っているのかがわかります。

 

 一方、悪霊から解放された人はお供をしたいと願い出るほど、イエスを慕っています(18節)。彼は長い間、悪霊に苦しみ、しかも人々から見捨てられていました。そんな自分のところにイエスはやって来て、神の権威によって悪霊から解放しました。とてつもない解放の喜びとイエスへの感謝から、彼はイエスについて行きたかったのです。ところがイエスはそれを許さずにこう言いました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。(19節)」

 

 イエスは悪霊の願いを許可したのに、彼の願いは許可しませんでした。「どうして」という疑問が湧いてきます。結論から言うと、イエスの狙いが「ご自分と神について」証しすることにあるからです。悪霊のときは「レギオンという名前を言わせ、豚に乗り移らせ、豚が錯乱する」この出来事によってイエスはご自身が神の権威を帯びていることをその場にいた人たちに見せました。さらに、彼らが町や里で広めるままにしました。まさに、目撃者をとおしてご自分のことを証しさせたのです。

 

 同じようにイエスは、正気に返った人には家に帰ってこのことを知らせるように命じています。「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」これは当事者でなければできません。たくさんの悪霊に憑りつかれて狂人となり、墓場に放置されていた痛みや苦しみ、絶望は本人しかわかりません。また、彼の家族も苦しんでいたことでしょう。そんな彼のところにイエスの方からやって来ておびただしい悪霊を追い出しました。「地域の人々は狂人の自分を捨てたが、イエスは自分を捨てずに助けた」これが「どんなにあわれんでくださったか」の証しです。そして、「レギオンという悪霊を追い出した」これが「どんなに大きなことをしてくださったか」の証しです。

 

 イエスは弟子たちと一緒にいる間、病を治したり、自然を支配したり、死人をよみがえらせたりしました。これは単に当事者や関係者を喜ばせるためだけではありません。イエスは多くの奇蹟をとおして、ご自身が神であり、ご自身をとおして神のあわれみが何であるのかを知らせるのです。

 

■おわりに

 悪霊につかれた人と同じように、イエスを信じる前の私たちは罪の奴隷でした。パウロのことばを借りれば「からだを不義の道具として罪に献げていました(ローマ6:13)」その行き着く先は永遠の滅びであり、また毎日の生活では罪にさいなみ不安は途切れません。しかし、神はそんな私たちをあわれんでくださり、我が子イエスを犠牲にして神の方から私たちに救いの道を備えてくださいました。そのあわれみによって私たちは新しく生まれ変わり、これまでとは違う生き方になりました。だから私たちはことばや行いをとおして、「主が私に、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」を世の中に知らせるのです。

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