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10月12日 「イエスのあわれみ」(マルコの福音書1章40-45節)

  • 木村太
  • 10月12日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 神がモーセに与えた律法には「汚れ」の規定があります。例えば、死体との接触やツァラアト、体からの漏出物などがあり、汚れた人や物に触れると汚れがうつるとされています。そのため、汚れた人はイスラエルの民の交わりから隔離されなければなりませんでした。ただし、一定期間の隔離や経過観察、そしてきよくなった時は神に供え物をささげること、といった社会復帰の方法も定められています。ところが、イエスの時代においては、汚れた人を遠ざけることばかりが宗教指導者たちによって強調されて、汚れた人はあわれみをかけられないどころか、忌み嫌われる扱いを受けていました。実は日本にもこれと同じようなことがあります。例えば神道では死、病気、血液、排泄物あるいは犯罪などは汚れをもたらすとされてきました。汚れは自分や共同体にわざわいをもたらすと考えられていますから、少なくなったとはいえ、こんにちでも忌み嫌われる扱いがあります。今日は、ツァラアトのきよめを通して、イエスのあわれみについてみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.ツァラアトの人はイエスの全能を信じて、イエスに嘆願した(1:40)

 イエスは悪霊を追い出したり、治癒が難しい様々な病を癒しながら、ガリラヤ湖周辺で福音を語りました。その結果、イエスの評判すなわち「イエスは人知の及ばない不思議な力がある」という評判がガリラヤの地域全体に隅々まで広まりました。そのため多くの人がイエスのところにやって来て、イエスもまた彼らの求めに応じていました。そのような中、ツァラアトの人がイエスのもとにやって来ました(40節)。

 

 ツァラアトは人の皮膚に現れる一種の皮膚病ですが、皮膚だけでなく家の壁や衣服にも現れます。これが医学的あるいは生物学的に何であるのかは、いまだに明らかではありません。ただし、明らかなのは冒頭で申しましたように、ツァラアトには触れるとうつるという性質があります。そのため律法にはツァラアトに関する規定が細かく定められています(レビ記13-14章)。例えば、このような定めです。

 

「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。(レビ13:45-46)」

 

 ツァラアトの人は病に加えて、「汚れた者」として人々から嫌がられる存在でした。そのため、律法学者や祭司のような宗教指導者は絶対に触れてはいけない者として扱い、あわれみをかけようとしませんでした。ですから、ツァラアトの人たちは病の苦しさに加えて、人々から嫌がられる苦しみもあったのです。

 

 ところがこの者は人から離れていなければならないのにイエスのそばにやって来たのです。なぜなら、何とかして助けて欲しいからです。その姿が40節から分かります。

①懇願:必死に願っています

②ひざまずく:ひれ伏していますから、イエスを畏れ多い方と認めています。

③お心一つで、私をきよくすることがおできになります:イエスならきよくできるというイエスの全能を認めています。と同時に、「自分をきよくするかどうかはあなた次第」というイエスへのへりくだりが示されています。

④私をきよくする:彼が求めているのは病気の治癒ではありません。「汚れた者から一刻も早く抜け出したい」という深い苦悩が背後にあります。

 

 彼は律法に違反してまでもイエスにきよめを求めました。ここに「イエスにはできないことなはない」という確信と、「イエスにすべてを委ねる」という信頼があります。これがヘブル人への手紙で言われている信仰です。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)」

 

Ⅱ.イエスは苦しむ人をあわれんで、その人を助ける(1:41-42)

 この願いに対してイエスはこう答えました(41節)。ここから4つのことがわかります。

①求めに応じた:「汚れるから近寄るな/律法違反」と責めません。ご自身を求める人をイエスは見捨てないのです。

②深くあわれみ:このことばは「かわいそうに思う」とも訳されます。彼の苦しみを自分の苦しみとして感じています。

③手を伸ばしてさわる:イエスは「わたしの心だ。きよくなれ」と命じるだけで、きよめることができます。けれども、「手を伸ばしてさわる」という当時ではありえないことをしました。イエスは「手を伸ばしてさわる」ことで彼をかわいそうに思う心を目に見える形にしました。さらに、行為によって「ご自身がきよめた」ことをより鮮明にしました。つまり、イエスにとってツァラアトは病気や悪霊と同じであり、それを持っている人を忌み嫌っていないのです。これは当時の人々と全く違います。

④わたしの心だ。きよくなれ:彼のことばをそっくりそのまま返していますから、ツァラアトの人を見下さずに尊重しています。目の前の者を思いやり、彼の思いを無視しないで大切にしているから、同じことばを使っているのです。

 

 イエスによってツァラアトはすぐに消え、彼はきよくなりました(42節)。イエスを信頼してわらにもすがる気持ちで助けを求める人に、イエスはその人の苦しみを感じ、その思いを大切にして、相手をいやし、苦しみから解放しています。汚れている人に手を伸ばし触れるという行為が、他人からどう見られようとも、ご自身を必死に求める者をイエスは受け入れて癒すのです。これがイエスのあわれみです。

 

 以前、部落差別を受けていた方から証しをお聞きしました。その方は、地域社会では差別を受けていたのに、キリスト教団体の方々は部落のこだわりがありませでんでした。それをきっかけにしてその方はイエスを信じるようになったのです。いわば、受け入れた方々を通してイエスのあわれみがこの方にかけられたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」イエスはこのことばそのものなのです。

 

Ⅲ.イエスは「神によってきよめられた」ことを明らかにするため、ご自身のわざを口止めした(1:43-45)

 さて、イエス様によってツァラアトの人はすぐにきよくなりました。ただし、イエスは彼をそのまま帰しませんでした(43-44節)。イエスはこのいやしを口外しないようにきつく言いました。しかも、すぐに立ち去らせていますから、ご自身との関りをなるべく他者に見られないようにしています(43節)。

 

 その一方でイエスは「自分を祭司に見せ、きよめのささげ物をしなさい」と命じています(44節)。律法では「ツァラアトが消えたかどうかの判断」は祭司の役目なので、イエスは正式な手続きを踏むようにさせています。それゆえ、祭司に認められることで、もう誰からも忌み嫌われることはありません。また、「きよめのささげもの」はきよくなったことを神に示すと同時に神に感謝をささげる儀式です。

 

 これらのことから、このように命じたイエスの意図が分かります。

①イエスが奇蹟をなすのはご自身のことばが確かであることを証しするためであり、単に「イエスは奇蹟をなす人」と受け取られないためです。さらに言うならば実力でローマ帝国を倒し神の国イスラエルを建国する、いわゆる誤ったメシア感を持たないようにするためです。

②ご自身のわざに対して「神にささげ物をする」ということから、イエスを通して神が働くことをわかってもらうためです。

 

 イエスはご自身のわざについてこう言っていいます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。(ヨハネ10:37-38)」イエスが人知の及ばないわざをなすのは、ご自分が全知全能であることを知らせるためではありません。「一つの疑いもなくイエスを信じる者にイエスを通して神のわざが働く」このことを明らかにするのがわざの目的です。

 

■おわりに

 ツァラアトの人をきよめたイエスの姿から、私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエスを見ることができます。人は罪のために自分自身がいやで苦しんだり、人との関係に苦しんだり、あるいは社会の悪に苦しんだりします。人はこの世で苦しみもがき、安らぎを得ようと神に叫んでいるのです。

 

 その求めにイエスは応えてくださり、私たちの苦しみやつらさを実感してくださっています。そして、ご自分を犠牲にして、人を罪の苦しみから開放し、永遠のいのちを与えたのです。イエスがツァラアトに触れるというのは、彼と同じ苦しみに身を投じることです。それと同じように、イエスは神であるのに人としてお生まれになり、人の苦しみに身を投じました。さらに、本来人が受けるべき計り知れない苦しみを、人に代わって引き受けました。それが、十字架刑による痛み苦しみ辱めです。イエスは助けを求める人を決して見過ごすお方ではありません。苦しむ人をあわれんで必ず助けてださいます。


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