6月22日「神を恐れる者への約束」(マラキ書3章13節~4章6節)
- 木村太
- 6月22日
- 読了時間: 9分
■はじめに
映画やドラマのテーマに勧善懲悪(かんぜんちょうあく)というのがあります。これは善を喜び勧め、悪を憎んで懲らしめることを言います。不思議なことに勧善懲悪はいつの時代でもどの国でも人気があります。おそらく「善を喜び悪を憎む」という神のご性質が神によって造られた私たちの中にあるからだと思います。ただし、世の中を見ると勧善懲悪ではない出来事にあふれています。だから人は映画やドラマの中にそれを求めるのでしょう。そこで今日は、正しい者と悪い者のさばきについてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.「わたしが事を行う日」に人は正しい者と悪者に分けられる(3:13-4:3)
本論に入る前に、マラキ書の時代背景を簡単に触れます。紀元前500年代半ば、イスラエルの民はバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻って来ました。そして彼らは預言者ハガイやゼカリヤの励ましを受けて神殿を再建し、そのあとネヘミヤの指導のもとで城壁も再建しました。ところが、神殿礼拝を再開して80年以上経っても、彼らが期待していた祝福はやって来ず、人々の生活は貧困を極めました。それに加えて、世の中は善が尊ばれないどころか、悪者が栄えていました。それでイスラエルの人々は神への期待を失い、神を疑い不信になり、次第に神よりも生活の安定を優先するようになったのです。このような中で、神は「私はあなた方を愛している。」という、みこころを預言者マラキを通して語るのです。
(1)神に幻滅した民は神を非難する(3:13-15)
この書の冒頭から、神は「イスラエルの民が祝福の民」であることを言い続けます。一方、民の方はその神に不満を言い返します。それで神は彼らの言い分にこう答えます。
3:13 あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──【主】は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。
神は人々が何もわかっていないのに批判するので、「度を超している」すなわち神の領域に口出しするのか、と言います。というのも14-15節にあるように、神が定めた奉仕をしても、罪を悔いて悲しんでも、自分たちの利益に何にもならないと、人々は神に幻滅しているからです。この時代、神を尊ばないで欲望のために悪を行っている者の方が財産や地位を得ていました。だから、「まじめにやっても報われず、悪をやっても罰せられないどころか利益を受けている。神は本当に義のお方なのか。」と人々は神に訴えるのです。
イスラエルの民は、神がアブラハムとの契約に従ってどれほど良いわざをなしたのかをすっかり忘れ、目の前のことだけに心を奪われています。だから神に幻滅するのです。私たちも「キリストを信じているのに良いことが全くない。信じていない人の方がよっぽど幸せになっている。」と神に幻滅するときがないでしょうか。でも、それは度を超しているのであり、神のみこころを後回しにしています。14-15節に記されている神への不満は、現代の私たちの姿でもあります。
(2)神は神を恐れる正しい者をご自身の宝とする(3:16-18)
ここで神は人々の幻滅に対してご自身の義すなわち正しさを明らかにします。
3:16 そのとき、【主】を恐れる者たちが互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。
主を恐れ尊んでいる者たちが何を語ったのかは明らかにされていません。しかし、文脈からすれば、この者たちは14-15節と逆の内容を口にし、神の義は決して変わらず「神に従えば祝福、背けばわざわい」という約束を信じているのでしょう。それで神は彼らの従順のゆえに、彼らの名前を記憶の書に記しました。さらにこう言います。
3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」
「わたしが事を行う日」に神は記憶の書に基づいて、神を恐れ神に仕える正しい人と神を恐れず神に仕えない悪い人に仕分けます。そして、正しい人を大切な宝として扱い、あわれみによって罰を与えません。つまり、「わたしが事を行う日」は人が白黒つけられるさばきの日であり、神の義が目に見える形で現される日です。その日までは、正しい人が不幸だったり、悪しき者が幸せになることもあります。けれども、神を恐れる正しい者を神は決して見落とさず、さばきのときに必ず報いをお与えになります。
(3)「わたしが事を行う日」に人は永遠の祝福と永遠の滅びに定められる(4:1-3)
では「わたしが事を行う日」には具体的に何が起きるのでしょうか。4章1-3節を見ましょう。
4:1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は言われる──
4:2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の【主】は言われる。
この日すべての人は、神を恐れる正しい人と神を恐れない悪い人に判定され、両者に神からの報いがあります。両者の報いについて説明します。
①神を恐れない悪い人(4:1):「わら」は「虚しい物/価値のない物」のたとえであり、同時に燃やされる物の代表でもあります。悪者は価値のない存在と定められて、跡形もなく滅ぼされます。「根も枝も残さない」とあるように、絶対に回復しないまでに完全に永遠に滅ぼされます。だからこの日は5節で「主の大いなる恐るべき日」と呼ばれているのです。
②神を恐れる正しい人(4:2-3):「悪人が栄え、高ぶる者が幸い(3:15)」といった暗闇のような世界に、神の義が太陽のように全地を照らします。「従順には祝福、背きにはわざわい」の約束が実現するのです。「太陽の翼」すなわち光に覆われた者は心が癒されてて安らぎ、牛舎から解放された子牛が跳ね回るように、たいへんな喜びにあふれます。さらに「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らはあなたがたの足の下で灰となる」とあるように、この世で悪者がいくら栄えていたとしても、さばきの日には彼らは跡形もなく永遠に滅び、正しい者は永遠の祝福を受けます。いわばこの日は大逆転の日なのです。
ローマ書に「この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ12:2)」とあります。私たちは、財産や地位、健康、能力、人間関係など「幸福を計るこの世の物差し」の中で生きています。けれども大事なのは、「わたしが事を行う日/さばきの日」に正しい人と判定されるか、悪い人と判定されるかなのです。この世の物差しではなく、神の物差しで生きてゆきましょう。いつでもどこでも神はちゃんと見ていて、さばきの日には計り知れない祝福を与えてくだるからです。
Ⅱ.その日までに人が悔い改めることを神は望んでいる(4:4-6)
続けて神はさばきの日までどうすべきかを教えます。
4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。
「覚える」は単に記憶しているだけではなく、十戒を初めとする律法を守り、神がこれまで何をなさってきたのかを思い起こすことを指します。一言で言えば、常に神のことばに信頼し、従順であるように命じています。しかも、神は彼らが道を外さないように、あるいは外しても元に戻れるような手段をこのように備えています。
4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
エリヤは、その時代の人々を偶像礼拝から悔い改めさせた偉大な預言者です。神はエリヤと同じような働きの者をこの世に派遣し、「主の大いなる恐ろしい日」と呼ばれる「さばきの日」までにイスラエルの人々を正しい者に整えたいのです。具体的には「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」とあるように、大人の信仰を整えて、次の世代に歪(ゆが)みなく継承してゆきます。というのも、コピーを重ねると劣化するように、イスラエルの歴史を見ると世代を重ねるにつれ正しい道からずれてゆくからです。そのずれを修正するために神は預言者を派遣するのです。
ところで、神はエリヤのような預言者を派遣する目的をこう言います。「それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」わたしが来る時とは「わたしが事を行う日/大いなる恐ろしい日/さばきの日」すなわちキリストが再び来られたときの最後の審判を指します。そのとき神は正しい人(義人)と悪い人と分けます。これが聖別です。さらに神の所属ではない悪い者が絶たれ滅ぼされます。これが聖絶です。
創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」とあるように、神はすべてのものを造られ、造られたものを通してご自身の栄光を現しました。造られたものすべては神のみこころとピッタリ一致していたので、神はすべてを見て「非常によかった」と語りました。ですから神はご自身がお造りになったものを大切にし、聖絶したくはないのです。神はすべてを価値のない燃やし尽くされるべき「わら」ではなく、ご自身の宝としたいのです。だから、律法によって正しさの基準を教え、滅びの恐ろしさを伝え、神のことばに従順であるように命じ、エリヤのような道を正す者を送り、そして人の罪を背負うお方、我が子キリストを与えました。この事実が「わたしはあなたがたを愛している」という神の愛を明らかにしています。
■おわりに
マラキの後、約450年間、預言者が現れなく、神のことばはイスラエルに与えられませんでした。この中間時代あるいは沈黙時代とも呼ばれる期間、イスラエルの民は神の約束をひたすら信じ、モーセの律法を守るほかありませんでした。マラキから長い長い時を経て、マラキの預言通りバプテスマのヨハネが登場して、イスラエルの信仰を回復する働きをしました。そしてついに、すべての人が正しい者すなわち義と認められる唯一の道としてイエス・キリストが与えられました。この後(あと)到来するのがキリストが再び来られる時であり、今日の聖書箇所で言うなら「わたしが事を行う日/主の大いなる恐るべき日」すなわち神のさばきの日です。つまり「主の大いなる恐るべき日」はすでにカウントダウンに入っています。
ですから私たちは「主の大いなる恐るべき日」を待っている時代を生きているのです。別な見方をすれば大逆転の日に向かって生きているのです。神がイスラエルに「モーセの律法を覚えよ」と命じたように、キリストも「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)」と再臨までの生き方を命じました。ですから私たちは、日々の出来事にうろたえることなく、キリストのいのちを通して計り知れない祝福と大逆転を与えてくださった神の愛に応えてゆきましょう。同時に、再臨すなわち「主の大いなる恐るべき日」までの時間は、さばきまでの猶予期間であり滅びを免れ大逆転を受け取るチャンスでもあります。だから私たちは祝福された民として、預言者のごとく私たちの姿を通して神の愛をこの世に現してゆきましょう。
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