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10月5日 召天者記念礼拝「天での生活」(ヨハネの福音書14章1-3節、ヨハネの黙示録21章1-5節他)

  • 木村太
  • 10月5日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 私たちの教会では毎年秋に召天者記念礼拝を執り行い、礼拝の後に教会の墓地で墓前礼拝を行っています。これらの礼拝は、天に召された方々のいのちを神に委ねるとともに、地上に残されたご家族の慰めを祈り、天の御国での再会を期待するものです。そのため、礼拝では天の御国や永遠の命いのちテーマとしたみことばから説教をしています。

 

 ところで、先週まで扱ってきたゼカリヤ書において、主はメシアによって完成する神の国の都エルサレムについてこう告げました。

 

「そこには人々が住み、もはや聖絶の物はなく、エルサレムは安らかに住む。(ゼカリヤ14:11)」

 

 「聖絶の物はない」は物も人も出来事もあらゆるものすべてが聖い状況を現しています。ですから、神の国には神の怒りや不快となる物も人も一切存在しません。言い換えれば、神と人との関係においても、人同士の関係においても、平和と平安しかないのです。今日は、私たちが神の国にどのようにして入り、どのように生活するのかをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.私たちは地上の人生が終わった後、神のおられる天の故郷で生活する(ヨハネ14:2-3,ピリピ3:20,ヘブル11:13,16)

 イエスは地上で弟子たちと一緒にいる間、このように語りました。

 

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。(マタイ6:9)」

「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:2-3)」

 

 「天にいます私たちの父」とあるように、私たちの父は天地万物を造られた唯一まことの神であり、我が子イエスをこの世に送られた神であり、私たちに永遠のいのちを与えてくださった神です。この神のおられるところが天です。ただし、神のおられる天は空(そら)や宇宙のような特定の場所ではありません。なぜなら、神はすべてに超越したお方ですから、限られた場所に留まらないからです。

 

 この天に「わたしの父の家」があります。「父の家」とは神を父とする家族の住むところです。当然、神の子イエスもそこに住みます。その「父の家」の中に「住む所」、すなわち私たちが住む場所が用意されています。ですので、父の家は無数と言ってよいほどの人が住みますから、天にある大邸宅といえるでしょう。イエスを救い主と信じた者は、父のおられる天に入ることを赦され、神の家に住む権利をこの地上ですでに持っています。そして住人がいるので天は国すなわち天の御国とか神の国と呼ばれるのです。

 

 ここで大切なのは、父である神の家すなわち天の御国が私たちの故郷、ホームだということです。そのことが聖書に記されています。

 

「しかし、私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)」

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。/しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。(ヘブル11:13/16)」

 

 私たちは人から産まれて、人生という形でこの地上を生きています。けれども、私たちの国籍は天の御国で、そこが私たちの故郷であり、やがて帰る場所です。だから、私たちの人生は旅人とか寄留者のように、一時的なものと言えます。それゆえ「やがて天の故郷に帰る」という真実が私たちにとって重要なのです。

 

 私たちも仕事を終えて自宅に帰ったらほっとします。あるいは、実家から遠く離れて暮らしている人であれば、年末年始に帰省して心身を休めるでしょう。それと同じように、私たちは人生という旅を終えたら、天の御国という故郷へ帰るのです。しかも、それは一時的な滞在ではありません。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている(ヨハネ3:36)」と使徒ヨハネが語るように、天の御国での人生は永遠なのです。イエスがこの地上に再び来られるとき、私たちはこの世のあらゆることがらから永遠に解放されて、天の御国に入ります。そして、神とイエスとともに永遠に生きるのです。

 

Ⅱ.天での生活では、神と私たちは完全な愛の関係にある(Ⅰコリント15:47-48,黙示録21:4)

 ところで、私たちが永遠に住む天の御国とはどんなところなのでしょうか。先ほど見たヘブル人への手紙には、天の故郷は地上の故郷よりももっと良い故郷で、あこがれと呼ばれています。では、天の御国そのものを見てゆきましょう。パウロは御国の住民をこのように言います。

 

「第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。(Ⅰコリント15: 47-48)」

 

 地上の人間は全て第一の人アダムと同じです。アダムは神と同じ正しさ・善・聖さを持っていましたが、善悪の知識の木から実を取って食べた結果、彼は神よりも自分の判断を優先してしまうようになりました。すなわち人から生まれた私たちは全員、神に従えないという罪を持つのです。そのため地上では、神の愛・いつくしみを素直に受け取れないときがあるのです。例えば、神は「あなたを大切にしている」と約束しているのに、私たちは「神がいても不安」となる時があります。あるいは、イエスは「わたしはあなたの側にいる」と約束しているのに、私たちは「イエスは何もしてくれない、見放された」と思うことがあります。ですからこの地上では、神と私たちとの関係は、私たちが罪ゆえに神を拒否すると言う意味で不完全なのです。

 

 一方天では、第二の人すなわち天から出たイエスと同じく、罪を持ってはいません。イエスの犠牲によって罪が赦され、罪がない者と認められたからです。それゆえ、神との関係において神の愛を妨げるものは一つもありません。つまり、天では神と私たちとの関係は完全なのです。だから、天では神のお気持ちも、ことばも、わざも全てを疑いなく拒否することなく受け取り、信じ、従うことができるのです。天においてはこの世の不完全な愛の関係はみじんもありません。それで神は天の様子をこう言うのです。

 

 「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)』」

 

 神に背かないから、死という罰はありません。神に信頼して従うから、絶望の悲しみや後悔の悲しみはありません。神のご判断を良しとするから、不満や怒りといった叫びはありません。神が与えたものですべての人が満たされているから苦労や悩みはありません。また、一切が聖だから神や人を傷つけたり、嫌な思いをさせることも完全に永遠にありません。「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあるように、天においてはこの世の罪や汚れは全くないから、私たちはすべての辛さから解放されているのです。それなので「目から涙はことごとくぬぐい取られ、もはや死も、悲しみも、叫び声も、苦しみも」永遠にないのです。それゆえ、天の故郷、天の御国はあこがれになるのです。そして、肉体の命の終わりは天の御国の始まりだから、私たちは死を恐れたり忌み嫌うことをしないのです。

 

■おわりに

 地上にいる私たちは天の御国を直接見ることはできません。科学がどんなに発達してもその実態を捉えることはできません。けれども天の御国はあるのです。なぜなら十字架で死んで3日目によみがえったキリストが天に戻ったからです。

 

 墓前礼拝プログラムには先に召された方々のお名前を載せています。この方々はすでに天の御国に

入って、父なる神と完全な愛の関係にあります。それゆえ私たちは「あの人は今どうしているのだろうか」という心配がないのです。そして「神とキリストとともに私を待っていてください」と祈ることができるのです。

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