11月23日 「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコの福音書5章35-43節)
- 木村太
- 2 時間前
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■はじめに
信仰を持っていても神やキリストを信じられなくなる、いわゆる信仰の危機があります。例えば、つらい出来事が次々やって来たときに「信じていたのにどうしてこうなるの」と神に失望したり、「信じたって何にもならないと」信じるのを止めたい誘惑に駆られます。これは私たちだけではありません。ヘブル人への手紙を見ると、キリストを信じたゆえの迫害が収まらないために、読者はキリストに疑いや失望を感じ信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいました。それで、著者はそのような状況にあるクリスチャンを励まし、信仰にとどまらせようとしました。信仰の危機は誰にでもありうることなのです。今日はヤイロの出来事の後半から「信仰にとって何が大事なのか」を見てゆきます。
■本論
Ⅰ.将来の保証がない中でもイエスを信じ続ける(5:35-37)
本論に入る前に、これまでの経緯を簡単に振り返ります。会堂司ヤイロは、死に瀕している娘を助けるために、群集をかき分けてイエスの前に出てひれ伏し、助けてくれるように嘆願しました。彼は「イエスが手を置くだけで治る」というイエスの力を信じていました。その願いに応えてイエスは彼の家に向かいました。ところが、12年間長血を患った女がイエスの着物に触れるという事件が起こりました。さらに群集から恐る恐る出てきた女にイエスは治った理由を語りました。女性にとってはこの上ない幸いですが、一刻を争うヤイロにとっては気をもむ出来事だったでしょう。しかし、ヤイロの家に着くのが遅くなること、言い換えれば娘が死んでいるか生きているかはイエスにとって問題ではありません。なぜなら、神は死をも支配できるからです。
そんな中、ヤイロの家から人がやって来ます。「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。(35節)」とあるように、彼らは「いくらイエスでも死者はどうすることもできない」と思っていました。この思いはヤイロも同じです。なぜなら「娘が生きている内にイエスを家にお連れしないと」という願いは「死んだら手遅れになる」という考えがあるからです。
それゆえ、使いの者の言葉はヤイロにとって最悪の事態を告げるものでした。娘の死の知らせは(36節)」、一縷の望みを一瞬にしてうち砕きました。ヤイロにとってイエスはもう必要ないのです。しかしイエスは「恐れないで、ただ信じていなさい。(36節)」」とヤイロに命じました。ヤイロは「娘はもうだめだ」とわかり、娘の死を恐れています。これは「いまさらイエスが家に来てもどうにもならない」という思いがヤイロの心から湧き出ているからです。別の見方をするならば、イエスを尊敬しイエスの不思議な力を信じていても、「死は克服できないという」イエスの限界を彼は自分で設けています。それでイエスは「ただ信じていなさい」と命じるのです。娘が生きていたときと同じ信頼、すなわち「イエスは絶対に娘を治せる」これを信じ続けなさい、と命じるのです。今申しましたように、自分でイエスの限界を設けることをイエスは止めさせるのです。
イエスのことばにヤイロは従いました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネという、イエスを伝えるための働きにおいて要となる弟子とともに、ヤイロはイエスを家に連れてゆきました(37節)。使いの者が「もう煩わす必要がない」と言っているにもかかわらず、イエスを家にお連れしたのは、イエスに期待したからです。
私たち人間にとって死には、なす術がありません。生きていれば何らかのことは有効ですが、死に対してはすべて無効です。けれども、神であるイエスにとって死も支配のもとにあります。しかも、死んで時間が経っていてもです。マルタとマリヤの兄弟ラザロのよみがえりがその証拠です。この世で生きている限り、私たちは世の中の常識でものごとを考え判断します。しかし、それを神であるイエスに当てはめてはなりません。全地全能であるイエスに制限を設けてはならないのです。だから、ただ信じることが大事なのです。
Ⅱ.「ただ信じる者」にイエスは大いなるみわざをなす(5:38-43)
到着した家には悲しみが満ちていました(38節)」。泣き悲しんでいる人々にイエスは驚きのことばをかけます。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。(39節)」イエスは「人々が娘は死んだと認めている」ことを指摘します。その上で「その子は死んだのではありません。眠っているのです。」と言います(39節)。人々の目から見ても、医学的に見ても少女はまさしく死んでいます。しかし、死を支配できるイエスから見れば、眠り続けているのと同じなのです。一方、人からすれば死以外の何ものでもありません。それで、泣いていた人々は一変して、イエスをバカにして笑うのです(40節)。
ここでイエスはさらに不思議な行動に出ます。イエスは、ご自分を信じるものだけにわざを成すために、バカにした人々を外に放り出しました(40節)。ヤイロや彼の妻、そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネは「イエスを信じて頼っている者」だから、この者たちだけにイエスは不思議なわざをなすのです。ツァラアトの者や長血の女もそうでした。「イエスを信じて頼る者」にイエスは応じるのです。イエスは少女の手を取り「タリタ、クム」と少女に命じました(41節)。何度も繰り返していますが、イエスにとって少女は寝ているから「少女よ。起きなさい。」と眠りから起こそうとするのです。
このことばにヤイロの娘は反応しました。親が寝ている子供を起こすように、イエスの呼びかけで少女は目を覚ましました(42節)。しかも、起き上がって歩き始めました。イエスは死を取り除いただけでなく、彼女の病も完全にいやしました。この様子を見ていた両親や3人の弟子達は、この世では絶対にあり得ないことを目の当たりにしたので非常に驚きました。ヤイロとその妻だけではなく3人の弟子たちでさえも、人知を遙かに超えたイエスの力を初めて知ったのです。だから、唖然としたのです。
一方のイエスはこのことを口外しないように、その場にいた人に厳しく命じました(43節)。この出来事を目の当たりにした人々は、「イエスは死をも支配する力がある」ここだけを受け取ってしまうでしょう。人にとっては死からのよみがえりは絶対にあり得ないことなので、そこだけが切り取られて世間に広がる可能性があります。けれどもイエスにとって重要なのは「恐れないで、ただ信じる」このことなのです。「恐れないで、ただ信じる」これにイエスは応じたのであり、それが今回は死からのよみがえりでした。全能のイエスにしてみれば自然や悪霊を支配することと同じレベルなのです。人は想像もつかない出来事に目が行きますが、イエスは人に揺るがない信仰を求めているのです。
■おわりに
ヤイロに起こった出来事を通して、私たちの信仰について考えてみます。イエスを信じて娘の助けを嘆願したヤイロに起こったのは、娘の死という最悪の事態でした。でも、イエスを頼り続けた彼に起こったのは娘のよみがえりという奇蹟でした。信じ続けることによって、ヤイロは恐れと不安から、喜びと平安に変えられたのです。
ここから2つのことが言えます。まず第一に、イエスを信じていても神を信じていても、最悪の事態が起こりうるのです。難病、事故、死のように自分の人生に絶対に起きて欲しくないことが起きます。自分がいくら気をつけていても起きてしまうのです。そしてこれは「信仰が足りないからとか熱心でないから」のような信仰の問題ではありません。この世に生きている限り絶望を味わう出来事はあるのです。
大事なのは、最悪の事態が起こったときにどうするかです。ヤイロの物語から言える2番目、それは「イエスが何とかしてくださる」と信じ続ける者は、最悪の事態で終わるのではなく、必ず平安が訪れる、ということです。私たちにはそれがいつ、どこで、どのように与えられるのかはわかりません。でも、イエスを信じ続ける者に、必ず主なるイエスは安らぎを与えてくださいます。これこそ、神のあわれみです。だから、信仰を持ち続ける者は、どのような状況にあっても希望があるのです。
冒頭に申しましたように、迫害の真っただ中にあるユダヤ人クリスチャンは、置かれている状況からすると、どうにもならないという心になっていました。言わばイエスに限界を設けていたのです。それで著者はこう訴えました。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル人人への手紙11章1節)」
「イエス・キリストは今の状況を変えてくださる」そう信じ続ける者に、喜びと、安らぎが与えられます。これは気休めではなく間違いない事実です。聖書の人物がそう語っているし、キリストの時代から現代まで、信仰を持った無数の人がそれを経験しています(ヘブル11章)。先が見えないのに「必ずある」という確信は、因果関係や証拠があってこそ生まれます。でも、神は「イエス・キリストを信じ続ける」ことを求めておられます。前に一歩踏み出すかどうかは、私たちにかかっているのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」これがイエスが私たちに求める信仰であり、私たちが平安を得る唯一の手段なのです。




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