11月2日 「信仰が救う」(マルコの福音書5章21-34節)
- 木村太
- 11月2日
- 読了時間: 7分
■はじめに
サッカーや野球といった団体スポーツでは「仲間を信じて戦いました」というコメントをよく耳にします。広辞苑によると「信ずる(じる)」は「正しいとして疑わない」「まちがいないものと認め、頼りにする」という意味があり、信頼や信用と言い換えることもできます。ですので、「信じる」には心の思いだけではなく、それを源とする「ふるまい」も含まれていることがわかります。今日は、イエスがどんなことを信仰と呼んでいるのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.ヤイロはイエスの不思議な力を信じて、娘の救いをイエスに頼った(5:21-24)
イエスと弟子たち一行はゲラサの土地から、ガリラヤ湖の向こう岸に再び渡ります(21節)。おそらくゲラサに来る前の場所カペナウムだと思われます。一行が着くと、身動きがとれないほど、たくさんの人が集まってきました。ゲラサでは出ていくように願われましたが、ユダヤ人の土地ではこれまでの活動によって、イエスを頼る人が増え続けていたのです。
そこに一人の男がイエスの前に出てきました。その男はヤイロという会堂司でした(22節)。会堂はユダヤ人たちが毎週安息日に礼拝を行っている場所です。また、会堂司は建物の維持管理に加えて礼拝における聖書朗読箇所の選定、礼拝の司会、朗読者や説教者の指名といった重要な役割がありました。それゆえ会堂司は地元では名誉職でした。ところが、そんな地位のある人が、イエスに助けを求めるために群集をかき分け、顔を地面にこすらんばかりにイエスの足下にひれ伏しました(22節)。ヤイロはイエスに最大級の敬意を表しています。いつもは頭を下げられる立場のヤイロが、ここでは人目もはばからず、強く願い続けるのです。
ヤイロの願いは、臨終を迎えている小さい娘(5:42では12歳)にイエスが手を置くことでした(23節)。娘の病が何なのかは分かりませんが、今まさに死のうとしていて、だれも為すすべがありません。ここで注目すべきは、「手を置けば治る」とあるように、イエスの力を信じていることです。「手を置く」行為は、古代においては霊的な力を伝える方法として知られていました。ですからヤイロはイエスの偉大な力をその目で確認していないけれども、イエスを信じ、疑いなくイエスに頼ったのです。もう彼にはそれしか望みがなかったのです。
イエスはヤイロの懇願に応えました。イエスは大勢の群衆が助けを求めているにもかかわらず、ヤイロの家に向かいました(24節)。イエスはなりふり構わずただ一心にご自身を求める者を放っておかず、応じてくださいます。イエスに救いを求める際に大事なのは、「助けてくださるのはこのお方しかいない」という唯一性と「このお方に不可能はない」という全能性です。この両者をイエスに向かって表すことが信仰なのです。
Ⅱ.長血の女はイエスの全能を信じイエスに触れて、救われた(5:25-34)
さて群衆の中にある女がいました。彼女は12年間、長血をわずらっていました(25節)。「長血のわずらい」とは出血が続く女性特有の病気で、律法では漏出と言われています。律法において、漏出の者は汚れていると見なされ(レビ15:25-33)、町に出入りすることも禁じられていました。この女性は12年間も病に苦しんでいただけではなく、汚れた者として扱われる精神的な苦しみも負っていたのです。しかも、彼女の苦しみはこれだけではありません。たくさんの医者から食い物にされ財産を使い果たしたことに加え、さらに悪化するという、悲惨としか言いようのない人生を送ってきたのです(26節)。肉体的にも、精神的にも、経済的にも、絶望的な状態でした。
ところが、この女性が行動を起こします。彼女はイエスについてのうわさを耳にしました(27節)。おそらくイエスの不思議な力のことでしょう。彼女はその話が本当かどうか確かめることなく、実行に移しました。今の彼女にはそうする以外にはなかったのです。絶望の中で唯一の希望がイエスだったのです。これはヤイロと同じです。
ただし、とった行動はヤイロとは正反対でした。ヤイロはイエスに直接お願いしましたが、彼女は群集の中に紛れ込んで、だれにも気づかれないように、後ろからこっそりイエスの着物に触れました(28節)。彼女には正々堂々とイエスに向き合い、「長血をなおしてください」と嘆願するのはとうていできない行動です。なぜなら、もし長血の病がわかれば、汚れた者として群衆から排除されるのが明らかだからです。しかし、「苦痛から救われるのはこの人しかいない」その思いが彼女を動かし(28節)、群集の中でイエスに触れました。そして、触れたとたんに長血の病は完全にいやされました(29節)。
ここで、イエスは不思議な行動に出ます。弟子たちは「こんな群衆から探し出すのは無理」とイエスに言いますが、イエスはおびただしい群衆の中から、自分の着物にさわった女を見つけようとしました(30-32節)。一方、女はイエスが自分を捜しているのに気づき、自分の行動をイエスはお見通しだ、ということを悟って、彼の前に出ます(33節)。
彼女は自分では病はいやされたとわかっていますが、外見では分かりませんから、人前に出れば汚れた者として厳しい扱いを受ける恐怖があります。また、こっそりさわったという罪悪感の恐れもあります。さらには、病をいやしすべてを知っているイエスの力を恐れています。それゆえ、彼女は震えおののきながらイエスの前にひれ伏して、病をはじめこうなった経緯やイエスに触れようとした動機と行動、そして自分の身に何が起こったのかを包み隠さず告白しました(33節)。
彼女に対してイエスは答えました。イエスは「娘よ」と親しみを込めて彼女に呼びかけ、さらに彼女のふるまいを信仰と認め、その信仰が救ったと語りました(34節)。イエスは彼女が汚れた者ではないことを公に宣言したのです。だから「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」と言えるのです(34節)。イエスによって救われた者は、それまでとはまったく違う人生になります。そのことをイエスはこの女性に語り、彼女を恐怖から安心に変えるのです。ここにイエスのあわれみがあります。
ところで、ここで注目すべきことばがあります。それが「あなたの信仰があなたを救った(34節)」ということばです。長血の病はイエスに触れていやされましたから、いやしたのは間違いなくイエスの不思議な力によります。でもイエスは「わたしがあなたを救った」ではなく「あなたの信仰があなたを救った」と言います。つまり、「救い」すなわち「苦難からの解放」を具体的になすのはイエスですが、それをもたらすのが信仰なのです。
イエスは不治の病をいやしたり、おびただしい悪霊を追い出すなど、人知をはるかに超えたわざをおできになります。ただし、そのわざを自分の身にもたらすためには信仰が必要なのです。先ほど申しましたように、「助けてくださるのはこのお方しかいない/このお方に不可能はない」これをイエスに明らかにすることが救いに至るのです。
長血の病がいやされたとき、もし、イエスが何もしないでそのままヤイロの家に向かっていたなら、「イエスと信仰と救い」の関係は隠されたままです。けれども、この女性をご自身の前に出させ、彼女に事実を証言させた上で「信仰による救い」を宣言することにより、「救いはイエスによるけれども、そのためには信仰が必要」という真実が明らかにされるのです。このことは私たちの信仰と救いにも当てはまります。神はイエスの十字架とよみがえりによって人を滅びから救い天の御国に入らせます。これが神の恵みです。そして、このすばらしい恵みを受け取る方法が信仰、すなわち「イエスを救い主と信じること」なのです。だから福音書をはじめとして聖書全体が「信仰と救い」をはっきりとさせているのです。
■おわりに
疑いなくイエスの力を信じ、ひたすらイエスに頼るとき、イエスを通して神のみわざがなされ、恐れや不安は和らぎ、安らぎが与えられます。これは気休めやでたらめではありません。「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」信仰によって生きる者すべてにこのことばがかけられているからです。




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