12月14日 「あなたの信仰があなたを救う」(マルコの福音書10章46-52節)
- 木村太
- 2025年12月14日
- 読了時間: 7分
■はじめに
日本では「人に何かを求めるのは恥だ」という思想があります。さらに最近では「自己責任」という言葉が浸透し、人に頼ったり助けてもらうことに抵抗感を持つ人が多くなっています。ところが、聖書には神からの祝福を勝ち取るまで、しつこく神に迫った人がいます。例えば、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ」といって、神と格闘し続けました(創世記32:24-29)。また、ツロの女はイエスに「テーブルから落ちるパンくずでもいいからください」と願い続けて、娘のいやしを得ました(マルコ7:24-30)。試練にあるときだけではなく、常日頃から神の恵みを求めるのは、決して恥ではありません。 そこで今日は、イエスにあわれみを求め続けた盲人の姿から、信仰の本質について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.バルティマイはなりふり構わずイエスを求め続けた(10:46-48)
エリコはエルサレムから東に約25kmのところにある町です。町の道ばたにはバルティマイという盲人が座って物乞いをしていました(46節)。バルティマイとは「ティマイの息子」の意味ですが、「汚れの子」とも訳せます。当時、盲目は本人や親が罪を犯した結果と見られていました(ヨハネ9:2)。ですから、バルティマイは生まれつき目が見えないので、汚れた(罪)子と呼ばれ続けていたでしょう。前にも申しましたように、この当時、障害を持っている人は、精神的な苦痛も大きかったのです。また、バルティマイは生活のために物乞いをしていました。伝統的な中東社会では、障害を持った人が人々にあわれみを訴えて、お金などの施しをもらうのが認められています。だから、盲人のバルティマイが物乞いをしているのは、ごくごく当たり前でした。
そんな彼が耳にしたのは、大勢の人を感じる音でした。ルカの福音書にこう記されています。「彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。(ルカ18:36)」尋常ではない雰囲気を察したバルティマイはその原因を尋ねました。そうしたら、「ナザレのイエスがエリコにいる」と教えられたのです。そのことばにバルティマイは即座に反応しました。
イエスが来ていることを知ったとたん、バルティマイは「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と悲鳴のような叫び声を上げました(47節)。「ダビデの子」とは、この当時のユダヤ人においてはメシアを指す言い方です(イザヤ11:1,エレミヤ23:5-6)。ただし、彼がイエスを救い主と信じていたかどうかは、この段階ではわかりません。なぜなら「あわれんでください。」ということばは施しを求める決まり文句だからです。しかし、はっきりしているのは、「ナザレのイエス」とわかったとたんに叫んでいますから、イエスに会うのを強く望んでいたことです。盲人のバルティマイにとって自らイエスの前に出ることは不可能です。それで、おびただしい人の群れの中でイエスに気づいてもらうには、「ダビデの子」というイエスの気を引くことばで、そして大声で叫ぶしかありませんでした。
人々は彼を黙らせようとして叱りました(48節)。「盲人の物乞いのくせに、偉大なイエスに会いたいとはけしからん」といったところでしょうか。しかし、バルティマイは前よりももっと激しく叫び続けました。もう、なりふり構わず、何としてでもイエスに気づいて欲しいのです。ここまで来ると、単に施しを求めていないことがわかります。
彼にとってイエスは絶対に必要なお方なのです。バルティマイはイエスがどのようなお方かを、人からのうわさで知っていました。「この方はあらゆる病をいやしたり悪霊を追い出したり、死人さえもよみがえらせる、そんな力を持ったお方だ」とわかっていたのです。それゆえ、「この方は自分の願いを必ず何とかしてくれる」その確信があるから、彼は必死にイエスを求めたのです。
私たちはバルティマイのように、イエスに必死に願い期待しているでしょうか。前回扱ったツロの女性のように食い下がる信仰を持っているでしょうか。私たちは、ともすれば一生懸命祈っていてもどこかで疑っていたり、結果が見えないとすぐにあきらめてしまうことがあります。人に何と言われても、イエスを求め続けるバルティマイを見て、自分の信仰を点検しましょう。
Ⅱ.イエスはバルティマイのふるまいを信仰と呼んだ(10:49-52)
バルティマイの叫びにイエスは気づきます。イエスはご自分を求める彼の必死の叫びに心を動かされ、応えようとしました(49節)。これが、イエスのあわれみです。周囲の人は「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言いました(49節)。バルティマイはイエスの力を疑いなく信じていますが、イエスが自分に気づいてくれるかどうかに不安がありました。汚れた物乞いとして生きてきましたから、このような気持ちになるのも当然でしょう。
だからバルティマイはイエスの招きを爆発的に喜んだのです(50節)。「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」とあるように、彼は動きやすくするために大切な上着を脱ぎ捨て、躍り上がるようにして行ったのです。
イエスはバルティマイと顔を合わせ、彼に望みを尋ねました(51節)。彼の望みは施しではなく、目が見えることでした。バルティマイは盲目の人生に苦しみ、そこから抜け出したいと心から願っていたのです。そして、「あのナザレのイエスは目を見えるようにできる」と確信していました。だから、イエスに気づいてもらうために必死に叫んだのです。
バルティマイの願いにイエスはこう答えました(52節)。イエスは「目が治った」ではなく「あなたを救った」と語りました。イエスのわざによって肉体的には盲目が治癒されました。けれども盲目が治癒されたというのは、彼にとって単に見えるようになっただけではありません。先ほど申しましたように、生まれつきの盲目は汚れとか罪の結果と見なされていました。つまり、盲目が治ったというのは罪人と定められた人生からの解放になるのです。バルティマイは肉体だけでなく精神の苦しみからも解放されるのです。だからイエスは苦しみの人生から救われた、と宣言するのです。そして、イエスのことばどおり彼の目は治りました。
ここでイエスのことばに注目しましょう。イエスは「あなたの信仰が救った」と言います。バルティマイの何が信仰なのでしょうか。その鍵は48節にあります。彼は、誰が何と言おうが何をされまいが、「ナザレのイエスは目を見えるようにできる」そう信じ、イエスを求め続けました。したがって、バルティマイの姿から導かれる信仰とはこうなります。信仰とは「イエス・キリストに不可能はない。求める者を必ず助けてくださる。」と疑わずに信じ続け、頼り続けることです。
「このお方なら絶対にできる」と信じ、ご自身を頼って来る者に、イエスは信仰を認めました。「天上からつり降ろした4人、会堂司ヤイロ、長血の女、ツロの女性、耳や口のきけない人とその友人」イエスは彼らのふるまいを信仰と認めて人知を超えたわざをなさいました。「全知全能のイエスを信じ、一つの疑いもなく信頼すること」これが救いの手段です。神の目から見て私たちがいかに悪く、愚かであっても、神はあわれみによって救いをなしてくださいます。しかし、その神、イエスの心を動かすのは、完全に信頼し、求め続ける信仰なのです。
■おわりに
バルティマイは目が見えるようになったあと、イエスについて行きました(52節)。彼は、物乞いをやめて、新しい人生を始めたのです。ただし、イエスに従う人生は楽ではありません。すでに見ましたように、自分を捨てることも求められるし、迫害という苦しみもあります。ひょっとしたら、物乞いの方が生活に困らないかもしれません。でも彼は「信じていたとおりイエスには何でもできる。」それを体験しました。だから、「このお方が一緒なら大丈夫」と確信してついて行ったのでしょう。
バルティマイと同じように、私たちも信仰によって救われ、古い自分を捨てて、新しい人生を歩んでいます。バルティマイと同じように、私たちも「イエスには不可能はない」と体験した者です。だから私たちも「イエスが一緒だから大丈夫」と安心して、人生を送ることができるのです。




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