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12月15日「神の恵みはすべての人に」(マタイの福音書5章43-48節) 

  • 木村太
  • 2024年12月15日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 ガザやウクライナをはじめとして、いま世界では恐怖や不安の生活を強いられたり、食糧が乏しい人たちが大勢います。その方々にとって安心して眠ったり、おなか一杯食べられるのは何よりも幸せです。一方、日本にいる私たちにとっては当たり前であり、特別に喜ぶことはほとんどないと思います。しかし、安心した毎日や食べ物がいつもあるというのは、本当に当たり前なのでしょうか。今日は「当たり前にあること」と神との関係について聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.神は天地万物を創造し、それらを支配している(創世記1:1,イザヤ29:16,マルコ10:27)

 まず、神がすべてをご支配していることを聖書から見てゆきましょう。私たちの信仰告白である使徒信条では神と万物との関係をこのように告白しています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」ここには、イエスの父であり私たちの父である神が「天地の造り主」そして「全能」であることが告白されています。

 

① 天地の造り主

 聖書は「はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)」から始まります。これは天と地のすべてを造った本人が神であるという証言です。神は無の状態から、「~あれ」という命令によって光、天と地と海、太陽や月や星などの天体、地上のあらゆる植物、地上と水中のあらゆる生き物、いわゆる天地万物を造りました。ただし、人だけはことばの命令ではなく、地のちりと神の息吹によって、特別な存在として造りました。それゆえ神が創造者であり、私たちが被造物なのです。

 

② 全能

 イザヤ書では神と被造物の関係を陶器師と陶器の関係にたとえています。「ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。(イザヤ29:16)」陶器師は自らの意志で陶器を作ります。イメージしたものとなるように粘土をこねて形造り、模様や色を付けてゆきます。ただし、イメージ通りの出来上がりでなければ完成品を壊すこともあります。ですので、陶器は陶器師の思うがままに扱われます。なので、陶器が「なぜこんな形にしたんだ/なぜ壊すんだ」と文句を言う立場にはありません。

 

 それと同じように、神がみこころに従って天地万物の一つ一つを造りました。そして神がすべてのことに介入して、定められた方向に導いています。ですから、たとえ私たちが不可能と思うことがらでさえも神の思いのままとなります。「海を分け、川をせき止めて地面をあらわにする(出エジプト、ヨシュア)/時間を戻す(Ⅱ列王記20))/いちじくの木を枯らす/嵐を鎮める」などはその典型です。

 

 イエスも「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)」と神の全能を証ししています。つまり、すべてが神の支配のもとにあり、神との関わりがないものは一つもありません。暖かさや明るさをもたらす太陽にも神の働きがあるのです。三笠の雪も神のご支配のもとにあります。私たちは神を思うがままにできる立場にはありません。

 

Ⅱ.神はすべての人に日々の糧を与え、ご自身のいつくしみを明らかにしている(マタイ5:43-48)

 次に神がどのようなお考えで人に介入しているのかを、マタイの福音書5:43-48から見てゆきましょう。

 

 マタイの福音書5章から7章は山上の説教と言われ、この世の考え方とはまったく違う神の国の考え方をイエスが語っています。例えば、「貧しい者は幸い」などはその典型です。まずイエスはユダヤ人の人に対する考え方を「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め(5:43)」と言いました。これは律法の教えであり、これが当時のユダヤ人に染み付いていました。神は、ユダヤ人たちの父祖であるイスラエル民族を通して神の国を実現するため、「あなたの隣人」すなわち自分たちの同胞を大切にしなさい、と命じました。その一方、敵すなわちユダヤ人ではない異邦人、言い換えれば主なる神を受け入れない者は神の国にふさわしくないので排除するように命じました。

 

 ところが、イエスは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(5:44)」と命じます。というのも、今やイエスの十字架とよみがえりによって神の民は、ユダヤ人という血筋からイエスを救い主と信じる者に代わったからです。つまり、ユダヤ人も異邦人も関係なく、すべての人が救いの対象だから、敵でさえも大切にしてイエスを信じる者になるように祈るのです。実は旧約の時代も、ヨシュア記のラハブのように、たとえ異邦人でも神を畏れて信じれば命が助かりました。ですから、すべての人を大切にするという神のいつくしみは一つも変わっていないのです。このあり方こそが、48節のように、天の父と同じ完全なあり方、つまりはクリスチャンの目指す生き方なのです。

 

 そして「完全なあり方」についてイエスは具体的に語りました(5:45)。「太陽と雨」は作物や家畜といった食料のために、なくてはならない自然現象です。当然ながら、人は太陽と雨を何ともできませんから、これらは神の恵みとしか言いようがありません。ところが神は太陽と雨を「悪人や正しくない者」にも与えます。「神に従えば祝福を背けば災いを与える」という「祝福とのろい(さばきと報い)」の原則からすれば、「善人や正しい者」だけが祝福の対象なので、不公平とか悪の見逃しのように思えるかもしれません。でもそうではないのです。

 

 実は「悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも」太陽と雨の恵みがあるのは、神のいつくしみによるのです。いつくしみとは人を大切にし、よいものを与えるということです。神は「祝福とのろいの原則」を変えたのではありません。「祝福とのろい」はキリストが再び地上に来られた時に行われる最後の審判で必ず果たされます。もし、「祝福とのろい」を即座に実行したら、誰一人、太陽も雨ももらえないでしょう。しかし今は、すべての人に恵みを与えることで、ご自身のいつくしみを人に明らかにしているのです。

 

 さらにイエスは完全ではないことについても具体的に語ります(5:46-47)。先ほど申しましたように、ユダヤ人は「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という考え方で人に接しますから、自分を愛してくれる者を愛し、自分の兄弟にだけあいさつします。けれども、それは彼らが忌み嫌っている取税人や異邦人も同じことをしています。それゆえ「あなたがたに何の報いがあるでしょうか。/どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。」とあるように、神からすれば全く良い評価にはなりません。これが愛における不完全な者の姿です。

 

 46-47節のことがらは当時のユダヤ人や異邦人に限ったことではありません。「自分と良い関係の人だけを大切にしたり、自分の仲間にだけ優しくする」というのは現代社会ではどこにでもある姿です。私たちクリスチャンであっても、そのような態度になるときがあります。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」これを実践するには神の愛に満たされていなければ実践できないのです。

 

 ではなぜ神は悪い者でも恵みを与えるのでしょうか。それは、神は決して悪い人を見逃さないけれども、滅ぶことを望んではいないからです。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)」と神は語ります。神が悪人や正しくない者にも恵みを与えるのは、彼らが神からの恵みを通して神のいつくしみをわかり神に立ち返るため、すなわち悔い改めて神に従い、滅びから救われるためなのです。

 

 人はだれでも他人を苦しませる自分の悪に気づいたり、あるいは自らの不正に気づくときがあります。同時に、その中でも日々食べ物があり、いつも通りに暮らしていることにも気づきます。その時、神のいつくしみを知ります。そのことをパウロはこう語ります。「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ2:4)」自然を支配できる神が「悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも」自然の恵みを与えるのは、忍耐と寛容を伴ったご自身のいつくしみを人に明らかにするためなのです。そして、すべての人が神のいつくしみを知って悔い改めて生きるためなのです。私たちが完全となって「敵を愛し、迫害する者のために祈る」のも、それが目的です。

 

■おわりに

 「太陽を昇らせる/雨を降らせる」というのは当然のことながら、イスラエルで言えば雨期や乾期のように決まった時期の天気や雨を意味します。神はいつものように太陽を上らせ、いつものように雨を降らせて食べ物を人に与えています。「悪い人にも良い人にも、いつものように日が上り、日が沈み、いつもの年と同じ時期に花が咲き実を結ぶ。いつもの年と同じ時期に雪が降り、いつもの年と同じ時期に雪が溶ける。」こういった日常の中に神のいつくしみがあるのです。

 

 そして神の完全は天候だけではありません。毎週日曜日にこの場所で礼拝があり、いつもの方々とともに礼拝をしています。これも神のいつくしみによります。私たちは災害とか戦争のような危機に陥ったときに「当たり前にあったことは神のいつくしみだった」と気づくことがあります。しかし、何の変哲もない毎日の中でも、「当たり前/いつもある」そこに神のいつくしみがあることに目をとめ、神に感謝したいものです。

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