6月15日「私たちは苦難を乗り越えられる」(ローマ人への手紙8章26-30節)
- 木村太
- 6月15日
- 読了時間: 7分
■はじめに
コリント人への手紙第二を見ると、パウロは異邦人に福音を伝える中で、とてつもない苦しみを受けました。使徒の働きで記されているように、投獄、むち打ち、石打といった制裁に加えて、「盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難」のように様々な苦難に何度も会いました。「ユダヤ人イエスこそが救い主キリスト」と伝えたばかりに肉体的にも精神的にもひどい目にあったのです。にもかかわらずパウロはイエスを証しする働きを止めませんでした。なぜなら彼には苦難を乗り越えられる術(すべ)があったからです、今日は、「私たちは神によって苦難を乗り越えられる」このことについてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.御霊なるキリストが私たちのために、神に助けを嘆願している (8:26-27)
ローマ人への手紙8章前半において、パウロは御霊に従って歩む人生には苦難があるけれども、天で相続する栄光が希望となって忍耐できることを語りました。ただし、そこには3つのうめきがあるとパウロは言います。一つ目のうめきは滅びからの解放を求める被造物のうめきです(19-22節)。二つ目のうめきは救いを待ち望むクリスチャンのうめきです(23-25節)。三つ目のうめきはとりなしてくださる御霊のうめきです(26-27節)。自分だけでなく御霊がうめく、ここに苦難を乗り越える一つ目の鍵があります。
御霊は助け主とも呼ばれる神からの聖霊です。26節「弱さ」とは苦難に際して、神に従えない私たちの心を言います。いくつか例を挙げます。
①苦しさを逃れるために、神以外のものに頼る
②「本当に神は私を大切にしているのか」という神への疑問や見捨てられた感を持つ
③キリストによって救われているのに「こんな自分はダメだ」と自分で自分を裁く
このようなとき私たちは、どんなことをどのように祈ればよいのかわからなくなってしまいます。ただ「主よ」としか祈れないこともあるでしょう。うめきしか出ないときもあるでしょう。しかし、目に見えず耳に聞こえないけれども、御霊が私たちの弱さを引き受けていて、私たちと一緒に神に嘆願しているのです。ここでの御霊は聖霊というよりも、私たちの内側におられるキリストと解釈するのがふさわしいです。御霊なるキリストも、私たちと同じようにことばにならないうめきとともに、「この人を何とかして欲しい」と神に訴えているのです。
ただし「御霊は神のみこころにしたがって...とりなしてくださる(27節)」とあるように、御霊が訴えることがらは、神のみこころ、言い換えれば神のお考えに基づいています。「うめいている人の思い通りにしてください」ではありません。なぜなら、神が人に信仰を与えて滅びから救ったのは、その人がキリストに似た者となって、地上で神の栄光を現すためだからです。このことは一見すると、私たちの思い通りではないので「何の助けになるのか」と思ってしまうかもしれません。しかし、キリストに似るというのは神への信頼がますます揺るぎないものになり、神がともにおられるという平安がますます強まってゆくのです。ですから、私たちは御霊のとりなしに感謝できるのです。
そして「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。(27節)」とあるように、神は表現できないような御霊のうめきだったとしても、御霊が何を思い何を考えているのかをすべてご存じです。つまり、何ら言葉にならなくても神は私たちが何に苦しみ痛み悩んでいるのかを探って知っておられるのです。「神はキリストを犠牲にするほど私を大事にしている。私の中におられるキリストが、私とともに神に叫びとりなしている」この確信があるから、私たちはうめきながら苦難を乗り越えることができます。
Ⅱ.神は天での栄光に至るまで私たちのために働いてくださる(8:28-30)
パウロは苦難を乗り越える鍵をもう一つ語ります。それが神の働きです。28節「神を愛する人たち」とはもちろん、イエスを救い主キリストと信じて滅びから救われた人すべてを指します。この人々は「神のご計画にしたがって(28節)」とあるように、神のお考えによって救いに呼び集められた人々です。キリストが一人一人を招いて、弟子に任命したのと同じです。
ここで「神のご計画」とは「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた(29節)」とあるように、神が人に信仰を与え義と認めてご自身の養子とし、天の御国では長子であるキリストと完全に同じ性質にする、という計画です。それゆえ、この地上ではキリストの姿に限りなく近づけ、キリストに代わって神の栄光を明らかにする存在にします。
それで神は、私たちのために益となるようにあらゆる出来事を作用させています(28節)。ただし「益」は神にとっての益、神にとってよいことです。つまり、神の計画からすれば、私たちがキリストのご性質に近づくのが益なのです。ですので、「益」は財産や健康、名誉など世間でいうところの幸福とは必ずしも同じとは限りません。まったく逆のこともあります。「病者の祈り」はそのことを告白しています。
「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった/より偉大なことができるように健康を求めたのに より良きことができるようにと病弱を与えられた(『病者の祈り』抜粋)」
病者の祈りにおいて「大事をなす/より偉大なことができる」がこの世においての「益」であり、「力/健康」はそのための手段です。一方、「慎み深く従順/より良きことができる」が神の益であり、キリストの姿です。そのために神は精神的な弱さや病弱を与えました。正直なところ、この神の働きはあまり嬉しくないように思えますが、そうではありません。私たちがキリストに近づくのは父なる神の喜びであり、それが私たちの喜びにつながり、そして人本来の生き方に近づいているからです。
ところで、28節でパウロは重要な発言をしています。それは「私たちは知っています。」です。パウロは「神がすべてのことをともに働かせて益とすることをクリスチャンは経験してわかっている」と言います。言い換えれば、クリスチャンは「苦難が自分をキリストに近づける」ことを経験を通して知っているのです。つまり、キリストを信じる前と後では苦難の受け止め方が一変しているのです。これまでは、苦難は嫌なこと、避けたいこと、早く過ぎ去って欲しいことのように、否定的にしか思えませんでした。しかし今は、キリストに似た者に変えられるための出来事として受け止めることができます。苦難だけで終わりではないことを私たちは知っているから、忍耐と希望を抱きながら、その苦難を乗り越えることができるのです。病者の祈りもこのように締めくくられています。
「求めたものはひとつとして与えられなかったが 願いはすべて聞きとどけられた/神の意にそわぬ者であるにかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた/私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」
最後にパウロは「すべてのことがともに働いて益とする」これが何に至るのかをこう言います(30節)。ここでの「さらに」は「増す」という様子ではなく「次に/その上で」を意味します。神は天地創造の前から救うべき意中の人を定めています。その上で、神はこの者を救いに招き、信仰を与えて義と認め、天に招き入れてキリストとともに神の栄光という相続を与えます。これが神のご計画です。
ただし、神のご計画は人の計画とは違います。人の計画はあくまでも計画でありその通りになるとは限りません。しかし、神のご計画に変更、取り消し、延期はありません。ヘブル人への手紙で言われているように、神はご自身の約束をご自身にかけて誓います(へブル6:18)。だから、神のご計画は計画ではあるけれどもすでに実現したと言えるのです。それでパウロは「栄光をお与えになりました。」と断言するのです。
私たちは何がいつどこで起きるのかわかりません。しかし、すべての出来事は神の計画であり、私たちの益のためであり、私たちをキリストに似た者へと変えるためにあります。そして苦難の先には天の御国における神の栄誉があります。この確信によって私たちは苦難を乗り越えられるのです。
■おわりに
私たちは生まれたときから神のご計画の中に生きています。キリストと同じになるために、あらかじめ定められていた道を歩んでいるのです。言い換えれば、私たちは苦難を通り抜けて天の御国に至る道にすでにおかれているのです。だから、どのような苦しみや辛さに出会ったとしても、御霊に従うことが平安につながります。ただし、私たちは弱く信仰が揺さぶられます。苦しみを忍耐しながら信仰を貫くのは容易ではありません。でも思い煩うことはありません。私たちと一緒に「アバ。父よ。」叫んでくださるキリストが常におられるからです。そして、私たちを救いに召した神が天の御国に至るまで、いつも私たちのために働いておられるからです。
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