■はじめに
クリスマスおめでとうございます。そして、私たちを救うために、この地上にキリストを遣わしてくださった神に感謝します。今から約2000年前、イエス・キリストは父である神のもとを離れて、天からこの地上に人としてお生まれになりました。黙示録では天の様子がこのように記されています。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。(黙示録22:5)」キリストは光り輝く天から私たちの地上に来られたのです。今日は、「光」ということばに焦点を当てて、どうしてキリストが私たちの光なのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.人が生きているこの世には光と闇がある
使徒ヨハネはイエス・キリストについてこう書いています。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)」。私たちは太陽や月、ろうそく、蛍光灯など様々な光の中で生きています。けれども、「まことの光が、世に来ようとしていた。」とあるように、「まことの光」はこの世にはない光です。実は聖書には光のある世界が2つ書かれています。一つは、私たちが今生きているこの世界です。聖書では世と言います。もう一つは、この世が終わった後にやってくる神の国である天の御国です。まず私たちが生きているこの世を見てみましょう。
創世記1章には神が万物をどのように造ったのかが記されています(創世記1:1-5)。神はご自身のことばでこの世のすべてを造りました。その最初に造られたのが光です。光によって、この世は光のある昼と光のない闇である夜に区別されました。さらに神は光を発するものを造りました(創世記1:16)。神は「大きいほうの光る物」である太陽を昼の光、「小さいほうの光る物」である月と星を夜の光に定めました。ただし、昼の光に比べて夜の光は非常に弱いので夜は闇なのです。月明かりでは昼と同じ事はできません。それゆえ人は光の昼と闇の夜を生きているのです。
さらに、私たちには目で捉える光と闇とは違う光と闇があります。それは私たちの心で感じる光と闇です。例えば、暗い世の中、明るい未来、希望の光、一寸先は闇などと言いますね。つまり、私たちには目で捉える光とは違う人の内側に存在する光と闇の世界もあるのです。それで聖書では光と闇が色々な様子を表しています。例えば、いのちと死、喜びと苦しみ、善と悪、聖さと汚れ、正と不正、秩序と混乱、平和と争い、安心と恐怖、神の愛と神の罰などがあります。
ですから、光の昼と闇の夜と同じように、私たちは心に生じる光と闇を生きているのです。ただし何が光で何が闇かは一人一人に違いがあります。しかし例外なくあるのは死という闇です。また、何が光や闇になるのかに加えて、私たち自身も光と闇を持っています。例えば、私たちは善・正しさ・あわれみも持っていれば、悪・不正・無関心も持っています。どちらか片方だけという人はいません。この地上には目で捉える光と闇、心に生じる光と闇があり、私たちはその中を生きているのです。太陽が輝く中でも真っ暗としか思えないこともあるし、夜でも明るい社会を見出すこともあります。ただ一つ言えるのは、いつでもどんなときも心を照らす光を人は持っていないのです。
Ⅱ.やがて来る神の国には光だけがあり、闇はない
次に神の国での光を見て行きましょう。この世に対して、やがて来る神の国は全く違います。「以前の天と以前の地は過ぎ去り(黙示録21:1)」とあるように、私たちが生きているこの世界は永遠ではありません。必ず終わります。そして、その後「新しい天と新しい地」すなわち神の国、天の御国がやって来ます。
神の国は夜がありません。しかも、ともしびや太陽といったこの世で光となるものも必要ありません。太陽よりもまばゆい神の栄光(すばらしさ)が常に輝いているからです(黙示録21:23,22:5)。栄光が輝くというのは、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、私たちも似たような表現を使っています。例えば、生き生きとしている人を見て「あの人は輝いている/キラキラしている」言いますね。神の国では神と子羊であるキリストのすばらしさが実際に光っているのです。
同じように、人の内側に生じる光と闇も神の国では違います。以前の天と地が過ぎ去ったように「以前のもの」であるこの世での闇は過ぎ去っています(黙示録21:3-4)。だから、神の国はいのち、よろこび、正しさ、秩序、平和、安心の国なのです。この地上で味わういかなる苦しみも比較にならないような喜びと安らぎに満ちた世界なのです。
もし、死すなわち肉体のいのちが終わった後に、悲しみも苦しみもない世界に入ることが決まっていたとしたら、闇のような世の中でも希望という光を持てるでしょう。でも、残念なことに人は神の国に入ることができません。なぜならすべての人が闇つまり罪による悪を持っているからです。たとえ、死ぬまで犯罪を犯したことが無く、周りから善い人と見られていてもです。言葉やふるまいに悪が無くても、心の中でさげすみや優越感、あるいはねたみのような人を大切にできない思いがあれば、それが罪でありその人の闇だからです。
闇を持つ人間は神の国にふさわしくないから決して入れません。人生において人は間違いなく苦痛を味わいます。その上、さらに苦しい世界に行かなければならないとしたら、希望はありません。まさに、光を持たないままで闇の世の中を生きていくしかないのです。
Ⅲ.キリストが人を光り輝く神の国に入らせてくださる
神は闇を持つ人間が光である神の国に入るのを絶対に認めません。その一方で、神は人間が永遠の苦しみに行くのではなく、神の国で永遠に生きて欲しいとも望んでいます(エゼキエル18:23)。なぜなら「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」とあるように、どんなに悪い人であっても、神にとって人は特別で大切な存在だからです。
そこで神は人が神の国に入る道を用意しました。それがイエス・キリストです。神は人の受けるべき神の怒り、言い換えれば闇という罪に対する罰をご自身の子キリストに負わせました。キリストは神の子ですから神と同じ光の国の住人であり、当然罪はありません。罪のないキリスト、本来怒りを受けるはずのないキリストが人に代わって神の怒りである罰を受けたのです。それがキリストの十字架刑です。キリストは神の怒りである十字架を受けるためにこの世に来ました。「キリストが神の怒りを受けた」という事実を人が目撃するためです。
このキリストを「神の国に入らせてくださる救い主」と信じた者について、神は人を罪すなわち闇の無い者として認定し、神の国に入れてくださいます。パウロのことばを借りるなら「キリストと一つになっている(ローマ6:5)/キリストが自分のうちに生きている(ガラテヤ2:20)」そういう人を神は「神の国に入るにふさわしい人」と認めます。光の国の住人であるキリストを信じて、その人の中でキリストが生きている者は光り輝く神の国に入れるのです。そのことをヨハネはこう記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」
この世には私たちを闇から解放するものがいくつもあります。例えば、金銭、娯楽、趣味、人脈などは不安や恐れ、絶望を消したり和らげたりできます。知識や知恵というのもあります。けれどもこの世のものは私たちにとって最も大事で最も必要な「神の国に入ること」にはまったく役に立ちません。光の国の住人である救い主キリストを信じる以外にないのです。しかも、信じるというのは誰でも可能です。ですのでだれでも神の国に入ることができます。国籍、血筋、目や肌の色、性別、年齢、財産、地位、学歴、身分、病気の有無といった人間を色分けするものは一切ありません。だから「すべての人を照らすそのまことの光(ヨハネ1:9)」と言えるのです。
■おわりに
使徒ヨハネはキリスト到来を描くために「世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)」と書きました。そしてその通りキリストはヨセフとマリアの子供として、イエスという名前でこの地上に生まれました。そのキリストが確かに十字架で死んで葬られ、確かによみがえり、確かに光である天に戻られました。ですから「すべての人を照らすそのまことの光」はすでに来たのです。神は光の国、神の国、天の御国に入る道をすでに整えました。それを喜ぶのがクリスマスです。
Comments