12月7日 「イエスの誠実」(マルコの福音書7章24-37節)
- 木村太
- 2025年12月7日
- 読了時間: 7分
■はじめに
ある本に「イエスは新しい宗教の創造者ではない。ユダヤ教の偉大な改革者だ。」と書いてありました。この本の通り、イエスはユダヤ人たちの宗教を廃止するために福音を伝えていたのではありません。イエスの時代、ユダヤ人はしきたりばかりを重んじて、「神を愛し、隣人を愛する」といった律法の本質を無視し、ゆがんだ信仰となっていました。それで、イエスはイザヤのようなかつての預言者と同じく、ゆがんだ信仰を正すためにユダヤ人に奇蹟をなしながら福音を伝えたのです。今日は、イエスの宣教には優先順位があるが、あわれみには制限がないことを、ご一緒に見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.イエスは神の計画に従い宣教の優先順位を守るが、救いを求める者を見捨てはしない(7:24-30)
イエスはゲンサレの地からツロに向かいました(24節)。ツロはガリラヤ湖の北西約50kmに位置し、地中海に面した町です。また、この町はイスラエルが北と南に別れた時には、すでにイスラエル民族ではない異邦人の土地となっていました。イエスの時代、ユダヤ人は異邦人を神の民ではない汚れた者として扱い、彼らとの交わりを嫌いました。ですので、「ユダヤ人たちが自分を追って異邦人の土地にまで来ることはないだろう」とイエスは考え、休息あるいは祈るためにツロに来たと思われます。しかし、ここにもイエスを求めて人が押し寄せます。イエスの評判は異邦人の地にまで及んでいたのです。
ここで、一人の女性がイエスのもとにやって来ます(25-26節)。この異邦人の女性には悪霊とも呼ばれる汚れた霊に取りつかれた娘がいました。彼女はイエスのことを耳にしただけですぐにやって来て、足下にひれ伏しました。それほどこの女性はイエスを尊敬し、イエスの力を信頼していました。と同時に、娘を何とかして助けたい、という母親の深い愛情を感じます。
ところがイエスは彼女の嘆願にすぐに応じないばかりか、こう答えました(27節)。イエスはたとえによって、神のご計画を明らかにしました。ここに出て来る「子ども」はイスラエル民族、いわばユダヤ人であり、「子犬」は異邦人を指しています。また、この当時「犬」は不潔な人、汚れた人を指していて、人を犬と呼ぶことは、はなはだしい侮辱を意味していました。つまり、イエスはこう言うのです。「神のご計画によれば、まず神との契約の民であるイスラエル民族を救いという恵みで満腹にしなければならない。契約の民ではない汚れた異邦人から救いを始めるのは、神のみこころに外れているからよくない。」一言で言うと、「救いの優先順位はユダヤ人が最初であなたがた異邦人はその後だ」と宣言したのです。
ところが驚くことに、イエスのたとえに女性もたとえで応じます(28節)。彼女はイエスの言う小犬が自分たち異邦人を指していることをわかっています。さらに、今の時点では異邦人は神から祝福を受けられない立場だともわかっています。けれども彼女は食い下がるのです。
この当時、食事では父親がパンを割いて子供にあげます。もちろん、食卓の下にいる犬よりも子どもが大事だからです。ただし、子どもが食べこぼすパンくずを犬が食べるのを止めさせてはいません。「おまえにあげたパンじゃないからだめ」と小犬を払いのけてはいないのです。つまり、「ユダヤ人に語られている福音」と「それを信じることによって与えられる祝福(病の癒し、悪霊の追い出しなど)」のおこぼれを異邦人が受けるのを、神は許していると言いたいのです。この女性は、神の大いなるあわれみを確信し、それに委ねているのです。この姿は「ツァラアトの人、中風の人と4人の友人、悪霊に憑かれた子の父、長血の女、会堂司ヤイロ」と同じです。
そこでイエスは、29節「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と答え、そのことばどおり娘から悪霊は出てゆきました(30節)。イエスは女性のことばに「ご自身のみ」にすがる信仰を見たのです。だから、異邦人であっても神のあわれみによって、彼女の願いは叶えられたのです。イエスは神の計画に従って宣教の優先順位をきちんと守ります。しかし、ご自身の前にへりくだり、ご自身の力を信じて助けを求める者を、順番が違うからと言って排除するお方ではありません。たとえ、今、関わるべき者ではなくても、イエスを信じ神のあわれみを求める者にイエスは応じるのです。ここに、神の深いあわれみがあります。
Ⅱ.イエスはその人にふさわしい対応をしてくださる(7:31-37)
さて、イエスはツロを離れ、ガリラヤ湖南方のデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖畔に来ました(31節)。なぜ、ここに来たのかは、異邦人伝道とか、ヘロデから逃れるため、のようにいくつかの説がありますが、はっきりしません。ところがここでも、33節「その人だけを群衆の中から連れ出し」とあるように、いやしを求めてたくさんの人がイエスのもとに来ていました。
その中に、仲間のいやしを求める人たちがいました。彼らが連れて来たのは「耳が聞こえず口のきけない人」でした(32節)。この人はイエスのうわさを知ることもできず、いやしを願うこともできません。だから、彼のことを憐れむ人たちがイエスの所に連れて来たのです。中風の人を寝床ごと運んできた人たちと同じように、仲間のために労苦を厭わない、隣人愛にあふれた人々です。
イエスは、「何としてでも助けたい」という彼らの愛と、「耳が聞こえず、口もきけない」人のご自身への信頼を見て、いやします(33-34節)。今まで見て来たように、イエスはことばだけで、あるいは触れただけで、あるいは先ほどの幼い娘のように直接そばにいなくてもても、あらゆる病をいやし、悪霊を追い出すことができます。それなのに、なぜこのようなふるまいをしたのでしょうか。その答えは、彼が目で見ることと触れることでしか外部とやり取りができないという点にあります。それで、イエスは彼が目で見て、触れてわかる動作をしたのです。33-34節に記されている4つの動作を見てみましょう。
①両耳に指を差し入れる(33節):聞こえないというのは、あたかも耳がふさがれている状態です。だから、耳に指を入れるというのは、穴を開けて通じるようにする動作です。
②唾を付けて舌に触れる(33節):以前申しましたように、この当時、偉人の唾には治癒力があると信じられていました。舌を治してしゃべれるようにする動作です。
③そして天を見上げ、深く息をする(34節):天におられる神に力を求める動作です。
④エパタ(34節):エパタとは「開け」という意味で、「ふさがれている耳と口よ開け」という命令です。ただ、こで重要なのは「エパタ」と発音する時の口の動きです。「エパタ」は口の動きだけで、何を言っているのかわかります。つまり、その人の状態に配慮しているのです。
イエスは「耳が聞こえず口のきけない人」のために、その人にとって最もわかりやすい方法でいやしました。その結果、「すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。(35節)」とあるように、イエスの動作のとおりになりました。そして、いやされた人と彼を連れてきた人たちは、このことを口外しないように口止めされたにもかかわらず、イエスをほめたたえながら、イエスのすばらしいわざを言い広めました(36-37節)。それほどの驚きと喜びだったのでしょう。
イエスは神と同じ権威、力を持っていますから、相手に配慮せずともご自分のやりたいことをやりたい風になさってもいいのです。けれども、そのようにはなさいません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(マタイ22:39)」のことばどおり、相手の苦しみや困難を慮って救いをなしてくださいます。これが神のあわれみであり、イエスを通して私たちに与えられる恵みです。
■おわりに
先ほど見ましたように、異邦人は宣教の優先順位からいえば後回しです。しかし、イエスは異邦人であっても、ご自身を信頼した求めを拒まずに応じました。また、耳が聞こえず口のきけないない人には、その人の状態をよく知って、その人に最もふさわしい仕方で応じました。ここにイエスの優しさと誠実さが表されています。パウロは人の辛さを理解しているイエスのことをこう言いました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6-7)」
今も、イエスは私たち一人一人の声に耳を傾け、その心中を察し同情してくださっています。そして、一人一人にふさわしい仕方でいやしやなぐさめを与えてくださっています。このアドベントの期間、人として来られたイエスのことを思い感謝しながら過ごしましょう。




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