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木村太

1月1日 新年礼拝「神にへりくだる」(ヤコブの手紙4章11-17節)

■はじめに

 新年おめでとうございます。今年もイエスを通して神からの喜びと平安に満ちた一年となるように願っています。ところで、年末年始のTVや新聞を見ていると「2023年はどんな年にしたいですか」という質問がたくさん出てきます。当然、答えは人によって色々です。「受験で志望校に合格したい/とにかく健康でいたい/今年こそコロナが収束して欲しい」といったように十人十色です。人は誰でも「こうなって欲しい」という願望を持ちます。ただ、その時に「たとえ思い通りにならなくても私には神がいるから大丈夫」と思っている人はどれくらいいるでしょうか。今日は、神にへりくだっている生き方についてみことばに聞きます。


■本論

Ⅰ.世間では当たり前のような言動も、神の前では高ぶりとなっている(4:11-14,16)

 「ヤコブの手紙」の4章では「神に対してへりくだっているクリスチャンのふるまい」がテーマになっています。神にへりくだるとは、造り主なる神、救い主なるイエス、助け主なる聖霊を敬い、それらが私たちよりも上位であることを認める態度です。言い換えれば、「神が主導権を握るのが正しく、且つそれが善い」と信じる態度とも言えます。


 そして、「神にへりくだっている」のが本当かどうかはふるまいで分かる、というのがヤコブの主張です。例えば4章前半(ヤコブ4:1-10)では、何か欲しいものがある時に、神にへりくだっている人は「これこれが私に必要と神が認めているなら、それらは神が与えてくださる」という態度を取ります。もし、与えられなくても「神が必要ないと判断したのだから」と認めます。その一方、見せかけのへりくだりは神の判断に目もくれず、何が何でも手に入れようとします。十戒の10番目で欲しがるのが禁じられているのは、そこからウソ、盗み、姦淫、殺人が生まれるからです。神に主導権を渡していないのが行いに出るのです。


 さらに、今日の箇所である4章後半では「他者への態度と将来への態度」をヤコブは扱っています。この後話しますが、世の中で普通になされていることの中に「高ぶり」が潜んでいるからです。


(1)悪口、さばきは神の律法を無視するものであり、神よりも自分を正しい者としている

 たとえクリスチャンであっても悪をしてしまうことがあります。その際、より良いクリスチャンになって欲しいために、私たちは悪をした人に「それはよくないからやめなさい」と注意し指導します。この時、やったことがらへの指導を越えて相手の人格や存在を責めてしまうのが悪口です(11節)。それに加えて、善人か悪人かの判定をくだすのがさばきです。例えば「だから、あなたはだめだ/どうしようもない人だ/クリスチャン失格/悪人」といった言葉です。


 ヤコブは悪口を言いさばく者について、「律法の悪口を言い、律法をさばいている(11節)」と言います。なぜなら「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」が最高の律法だからです(ヤコブ2:8)。悪を指摘するだけではなく回復の道を示し、さらには一緒に重荷を負うというのが、神の望む隣人愛です。ですから、相手の人格を否定し、救われた者であっても悪人とさばきをつけるのは、最高の律法である隣人愛をののしり、それが悪だと判定しているのに等しいのです。


 それでヤコブはこう言います(12節)。「律法を定め、さばきを行う」のは神ただひとりなのに、それをやっているあなたは何者なのか、あなたは神なのか、という強烈な一言です。イエスの十字架とよみがえりによって、罪赦され義と認められた人に対して、罪人・悪人と白黒つけるのは人の分をわきまえず、神の領域に足を入れています。まさに、主にへりくだっているかどうかは「悪口やさばき」といった人の外側に出るのです。


(2)何でも思い通りに行くと信じているのは、神の全知全能よりも自分の判断を優先している

 2つ目の指摘は過信という高ぶりです。「きょうか、あす...(13節)」といったことは世の中では普通にあります。注意すべきは「あなたがたには、明日のことは分かりません。(14節)」とあるように、人は次に何が起こるのかを分からないし、変えることもできない、というのをわきまえているかどうかです。すべて思い通りになると考えたとしても、その計画を実行する自分の命が、明日あるかどうかはわかりません。なぜなら、「救うことも滅ぼすこともできる方(12節)」すなわち神の支配の下に人は生きているからです。


 「どこかの町に行く、一年滞在する、商売をしてもうける」というのも計画だけなら何ら問題ではありません。しかし、その通りになるかどうかは誰もわからないのです。私たちは全てを知り、全てを支配する神の下で生きています。知恵者ソロモンもこう言っています。「人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。(箴言19:21)」ですから「何事も思い通りにできる」という考えの中に、神よりも自分の判断を優先する高ぶり、過信があるのです。


 ヤコブは兄弟への悪口やさばき、そして過信をこう言います(16節)。「私の判断は正しいから、人を白黒つけることができる」「わたしの見通しは正しいから、そのとおりになる」日頃よく耳にすることばです。こういった世界に私たちは生きていますから、知らず知らずのうちに神よりも自分中心になりやすいのです。言葉や行いが「主へのへりくだり」から生まれているかどうかを、いつも気にすることが私たちにとって大事です。


Ⅱ.神に対して自分の分をわきまえ、神のあわれみに委ねることがへりくだりにつながる(4:12,15,17)

 さて、ヤコブは高ぶりを指摘するだけではなく、そうならない生き方もちゃんと示しています(15節)。「主のみこころであれば」とあるように、ここには神の支配のもとに、という前提があります。例えば、子供が「○○ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」と親に聞いたら、そこには「自分は親の管理の下にある」が土台にある証拠です。つまり、高ぶらないためには、全知全能の神に対して自分は何者か、という自分の分をわきまえることが最初に必要なのです。


 次に求められるのは「みこころであれば~しよう(15節)」のように神のお考えに従うという姿勢です。「主のみこころであれば」とは「主のお考えに沿っているなら/主のご計画なら/主の許しのもとに」という態度です。「もし、自分の計画や願いが神の考えや計画にかなっているなら」という態度が神のみこころを最優先にしている証しなのです。私たちはイエスによって「何々しなければ祝福をもらえない」という束縛から解放され、選択する自由が与えられています。神と人を大切にする、という枠組みの中では何を計画しても、何を選択してもよいのです。ただし、私たちは神のために様々なことを計画しますけれども、それは自分の判断であり、間違っている場合もあります。あるいは、それを実行し進める時が今ではない場合もあります。ですから、最終判断は神に委ねなければなりません。神はあわれみによって私たちを最もよい道に導いてくださるからです。


 「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」「もし、みこころにかなっていないならば、自分の計画を捨ててあなたに従います。」「今、計画通り進んでいるのは神のあわれみによるものです。でも、違う道が与えられたならば、それに従います。」このような生き方が神にへりくだった生き方なのです。また、仲間の悪いふるまいを指摘するときも、「指摘までは私の分です。でも、あの人が罪に気づき、悔い改めて、正しい道を歩むのは聖霊の働きによります。私を支配ではなく、支える者となさせてください。」というのが、神に委ねた応じ方です。


■おわりに

 手紙の著者ヤコブは主へのへりくだりを論じた最後にこう言います(17節)。私たちは、自分の願望よりも神のみこころが優れていると信じています。それで、自分の願望よりも滅びから救ってださった神のみこころに委ねたいと思っています。一方で、自分を最優先にしてしまう弱さがあります。その弱さをヤコブは罪だと言います(17節)。クリスチャンにとって罪の指摘は軽いものではありません。なぜなら、罪赦すためのイエスの十字架を意味のないものにしてしまうからです。「罪です」ということばを通して、ヤコブは「あなたは本当にイエスを大事にしているのか」と強く呼びかけているのです。


 ただし、ユダヤ人クリスチャンも私たちも間違いなく神にへりくだることができます。なぜなら、御子イエスを犠牲にするほど神は私たちを大切にしているのをわかっているからです。そして、死んだイエスをよみがえらせるという、人知を遙かに越えた力が神にあるのをわかっているからです。


 神の領域に立ち入らず自分の分をわきまえ、そしてひたすら従順であることを神は求めています。神へのへりくだりは自分のこだわりを手放して神に主導権を渡すことですから、窮屈さや不満を抱くでしょう。けれども、自分よりもはるかにすぐれたお方が治めているという安心がここにあるのです。「神に委ねる人生に安心がある」このことを1年の初めに心に刻みましょう。

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