top of page

4月13日受難礼拝「しもべは私たちの罪を担った」(イザヤ書53章1-12節)

  • 木村太
  • 5 日前
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 ユダヤ人イエスは私たちと同じように人間の女性であるマリアから産まれました。ただし、受胎は私たちとまったく違い、聖霊によって受胎しました。これが、「イエスが神の子であり、まったく罪がない人」の根拠です。けれどもイエスは重罪人として十字架刑で死にました。神は「従えば祝福、背けばのろい」という契約をしたにもかかわらず、罪のないイエスが死ぬのをそのままにしたのです。神の契約は嘘だったのでしょうか。今日は、なぜイエスが死ななければならなかったのかをイザヤ書からみてゆきます。

 

■本論

Ⅰ.Ⅰ.しもべの苦しみは彼自身の罪が原因ではなく、人への懲らしめを代わりに受けたためであった(53:1-6)

 本論に入る前にイザヤ書53章について短く触れます。ここでは1節を除くすべての節で「彼」が出てきます。この「彼」は11節「わたしの正しいしもべ」とあるように、万物を造られた神のしもべであり、イザヤ書では「苦難のしもべ」として記されています。伝統的には、しもべはイエス・キリストを指していると解釈されています。ただし、ここでは苦難を目撃記録としてではなく詩的に描いているので、イエスの人生と完全に重なってはいません。例えば、イエスは実際には砕かれていませんが、激しい苦しみを表すために5節「砕かれた」と表現されています。詩の特徴を踏まえて読むことで、この苦難のしもべがイエス・キリストであることがわかります。

 

 では本論に入ります。1節「私たちが聞いたこと」とは救い主によって神の国が再建されることであり、それは「主の御腕」すなわち主の力によってなされます。しかし、人を苦しみから救う方法と救い主について信じるには難しい、とイザヤは言います。ユダヤ人は救い主の到来を信じています。一方、彼らの考えている救い主は神々しい姿で圧倒的な力によって敵を倒し神の国を建てるというものです。けれども真実はその姿とはまったく違うのです。そのことをイザヤはここから語ってゆきます(2-3節)。

 

 彼は主のしもべとしてこの世に誕生しました。ただし、巨木が突然現れるようにではなく、人目に付かない木の芽のように生まれ、砂漠の根のように活力が無くて弱々しい姿です(2節)。「輝き/見栄え」といった救い主のイメージとは全く違います。それだけではありません。「蔑まれ/のけ者にされ/尊ばれない(3節)」とあるように、顔を背けられるほど忌み嫌われた存在でした。何らかの病によって汚れた者と扱われていたのかもしれません。

 

 この当時、「病や貧困、先天性の疾患のように苦難をもたらすことがらは、神に背いた罰」とユダヤ人は捉えていました。ですから、4節「神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」とあるように、人々はしもべの悲惨な姿を見て「そうなったのはあなたのせいだ」と自業自得として蔑むのです。自分とは全く関りがないどころか、関わりたくない存在として見ているのです。

 

しかし、真実は違います。4節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」とあるように、本来人が負うべき痛み苦しみをしもべが担っているのです。そのことをイザヤは詳しく語ります(5-6節)。イザヤの時代、王や祭司のような指導者をはじめ人々は表面的には主である神を崇めています。けれども、その裏で地元の神々や周辺国の神々を崇めていました。主が預言者を度々遣わしても悔い改めませんでした。まさに、「羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道を」歩んでいたのです(6-6節)。それゆえ、「刺される/砕かれる」といった背きによる懲らしめは人が受けるべきものなのです(5節)。不安や恐れや痛みは、神に背いた人が受けるべきものなのです。

 

 ところが主は、人が受けるべき咎すなわち罪ゆえの罰をしもべに負わせました。しもべが「刺され/砕かれ/懲らしめられ/打ち傷を負った」のは人の代わりなのです。それで、人は受けるべき罰から解放されて平安となり、主への恐れから癒されるのです。これが神のあわれみです。

 

 見栄えのしない悲惨な姿のしもべは私たちと無関係ではありません。私たちが受けるべき懲らしめを代わりに受けているのです。だから、しもべはのけ者にされ蔑まされるお方ではありません。私たちが感謝し敬うお方なのです。イエスはあんなに喜んでいたユダヤ人から捨てられました。しかも、弟子たちも関りを恐れて見捨てました。そして、鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、唾をかけられ、平手打ちにされ、馬鹿にされ、丸裸で十字架に付けられて死にました。イエスは想像を絶する心身の苦しみを受けました。聖書に記されているイエスの苦難は、本来私たちが受けるべき苦難なのです。すべての人にとってイエスの十字架は無関係ではありません。むしろ、私たちにとって最も必要なものであり、私たちが心から感謝すべきものなのです。

 

Ⅱ.神は人ためにしもべを代償のささげものとし、しもべは犠牲になることを受け入れた(53:7-12)

 なぜしもべは人の代わりに苦難を負ったのか。そのことをイザヤは語ります(7-9節)。「彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが(9節)」とあるように、しもべは何一つ罪を犯していません。神の前にも無罪なのです。けれども「墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。(9節)」とあるように、悪者あるいは不正で富を得た者のように人々に扱われ、裁かれて死罪となりました(8節)。ただし、しもべはわめいたり抗議したり罵ったりせず、毛を刈られる前の羊のように無抵抗でした(7節)。まるで、このことが自分の宿命のように受け止めているかのようです。

 

 繰り返しになりますが、しもべは人の背きのゆえに打たれました。しもべの苦難は理不尽以外の何ものでもありません。しかし、しもべは無抵抗でした。それはこのことが主なる神のみこころだからです(10節)。しもべに人の罪を負わせて苦しめ死に至らすのは、神のみこころのためでした。10節「彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら」とあるように、しもべは人に対する神の怒りをなだめるためにご自分のいのちをささげ物としました。しかも、「末長く子孫を見る」のごとく、たった一度のささげ物であらゆる時代のあらゆる人への怒りが鎮められるのです。それほど主のしもべは聖い存在なのです。

 

 ただし、このことは「神に従えば祝福、背けばのろい」という神の契約とは正反対です。まるで神が不正を働いているようなものです。しかし「【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあるように、完全に聖いしもべのいのちをささげ物にして人の罪を赦すのが神のみこころです。完全に聖い者を滅ぼすのは不正ではなくて、しもべのいのちを犠牲にするほど人を大切にする神のあわれみによるのです。

 

 この神のみこころにしもべは従いました(11節)。しもべは自分が激しく痛めつけられ、苦しめられ、殺された傷跡を見て、神のみこころが成し遂げられたことを満足します。理不尽としか言いようのない苦難であっても、このことが神のみこころと理解し受け止めているのです。だから、人が罪赦され正しい者と定められるために、自らのいのちを犠牲にしたのです。しもべも神と同じように、激しく罰せられる人をあわれんでいるのです。

 

 ところで、神は完全に聖いしもべを犠牲にしたままではありません(12節)。しもべは神のみこころに従って自らのいのちを差し出し、この世では神に背いた悪人のごとく殺されました。しかし、「わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。」と主は言います。しもべは戦いの勝利者のごとく、人のいのちを自分に従えさせます。たとえどれほど力強く、権力があってもです。つまり、しもべは生きて人々を治める立場になるのです。さらに主は「彼がとりなしをする」と言います。しもべはすべての人の上に立つだけでなく、人と神との間をとりなす働きも担っているのです。しもべは「顔を背けるほど蔑まれ、誰からも尊ばれなかった」存在でした。ところがいまや、罪赦された人々から尊ばれ、喜ばれ、頼られる存在になるのです。神は完全に従った正しいしもべにこの上ない栄光をお与えになるのです。

 

■おわりに

 私たちはどちらでしょうか。しもべなるイエスを退け、喜ばず、十字架で死んだのは彼が期待を裏切ったとか悪人だから、と見なす人でしょうか。それとも、イエスの激しい苦痛は本来自分が受けるべきであり、十字架につけられるのは自分だった、と受け止める人でしょうか。私たちはしもべなるイエスによって罪による滅びから救われて天の御国に入れます。その上、死からよみがえったイエスのとりなしによって助けられていますから、もう羊のようにさまようことはありません。受難週を通して、すべての人がイエスの真実を知り、自分との関係を見つけ、イエスを救い主と信じるように願います。

最新記事

すべて表示
3月30日「新しい人を着る」(コロサイ人への手紙3章12-17節)

■はじめに  イエス・キリストは宗教指導者ニコデモに「神の国に入るためには新生(新しく生まれること)が必要だ」と教えました。それは、キリストを救い主と信じた者がキリストと結びついて、内面がまったく新しくなることを言います。具体的に言うなら、罪に囚われていた歩みから神に囚われ...

 
 
3月16日「へりくだって神とともに歩む」(ミカ書6章1-8節)

■はじめに  キリストを救い主と信じて永遠の滅びから永遠の命に救われた者は全員、神のために生きています。神のためとは「神の存在と神の恵みを世の中に知らせる」あるいは「神の喜びとなるように」といったことです。ところが一生懸命のあまり、私たちは神のためと言いながら、自分のために...

 
 
1月12日「聖書(2)~聖書は神からの愛の手紙~」(ヨハネの福音書20章31節、テモテへの手紙 第二 3章16-17節) 

■はじめに 今、私たちは日本語の聖書を手にしています。これは日本語に翻訳されたものであり、原典と呼ばれる元々のものは旧約聖書がヘブル語、新約聖書がギリシヤ語で書かれています。ヘブル語もギリシヤ語も、聖書が書かれた時代には文字で表現できる言語として、すでに使われていました。神...

 
 

Comments


Commenting on this post isn't available anymore. Contact the site owner for more info.
bottom of page