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5月18日「ペテロの告白と失敗」(マルコの福音書8章27-33節)

  • 木村太
  • 1 日前
  • 読了時間: 9分

■はじめに

 4つの福音書を見ると、イエスの12弟子の内、最もエピソードが多いのはダントツでペテロです。ペテロにまつわる出来事を読むと、彼の性格がわかります。いくつか挙げると、「水の上を歩きなさい」と言われて従った素直さ、「あなたはキリストです」と告白した率直さ、そして「イエスを否定することは決してない」と言い張った頑固さなどがあります。とても人間味あふれる人物であると同時に、私たちに良い手本と悪い手本の両方を示してくれる人物でもあります。今日はペテロがイエスに叱られた出来事から、イエスのまことの姿について、みことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.ペテロはイエスをキリスト(メシア)と告白するが、間違った理解と期待をしていた(8:27-30)

 27-29節までを読みます。

 

8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」

8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」

 

 ピリポ・カイサリアはヘルモン山の麓の町で、イエスはこの後(あと)この山においてペテロとヤコブとヨハネの目の前で、まぶしく光り輝く姿に変わります。いわば、人間とは全く違う存在であることを明らかにするのです。ただその前に、イエスは「ご自身が何者であるか」を弟子たちに問います。

 

 イエスは最初に「世間の人々はイエスを何者と見ているか」と尋ねました。これに弟子たちは「生き返ったバプテスマのヨハネとかエリヤとか預言者」と答え、世間でのうわさを口にします。明らかなように、世間はイエスを神の子救い主とはわかっていません。

 

 この答えを受けてイエスは弟子たちに「あなた方はだれだと言いますか。」と尋ねます。弟子たちは、毎日イエスと寝食を共にし、何度も不思議な奇蹟を目の当たりにしています。それゆえイエスは、「世間はそのように見ているが、あなた方はどうなのか」と聞くのです。ある意味、イエスは弟子たちが真実をわかっているかどうかを試したのです。

 

 この質問にペテロが「あなたは、キリストです。」と答えました。「キリスト」というギリシャ語は「救い主」を意味し、ヘブル語では「メシア」となります。他の弟子たちが口をつぐむ中、ペテロだけが答えているところに、イエスの一番弟子を自認する彼の性格が表れています。

 

 ペテロがイエスを救い主と答えたのは、「ユダヤ人すなわち神の民イスラエル民族」という背景によります。すでにこの当時、預言書は聖書として扱われていました。預言書において、メシアはイスラエル民族のユダ族から現れて、全地を支配し、この地上に完全に平和な神の国を実現します。今、ユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありますので、そのローマを倒す政治的な支配者を望んでいます。ダビデの時代のようにイスラエルが再び世界を治める国となることを熱望しているのです。

 

 そんな状況の中、登場したのがユダ族出身のイエスなのです。イエスは人にはとうていできない数々の奇蹟を起こしました。また、イエスによって人々は喜び、安らぎを得ました。さらにはパリサイ人といった宗教指導者を圧倒する権威を帯びていました。だからペテロは、イエスこそが預言書に記されているメシアだ、と確信しているのです。

 

 このペテロの告白にイエスは30節のように、「自分のことをだれにも言わないように」 このペテロの告白にイエスは30節のように、「自分のことをだれにも言わないように」と弟子たちに厳しく命じました。せっかく「キリスト」という正解が出たのに、なぜ口止めしたのでしょうか。それは、救い主の理解においてペテロと真実が違っているからです。いま申しましたように、ペテロはイエスが圧倒的なパワーでローマのような外国を支配し、神の国が実現すると理解していました。メシアが実力でこの世を支配すると信じているのです。だからペテロはメシアの受難を否定するのです。

 

 しかし、神が計画している神の国はそうではありません。人はイエスを信じることで神から義、すなわち正しい者と認められて神の国に入ることができます。イエスは人を滅びから解放し神の国に入らせる、という働きだから救い主なのです。圧倒的な力で敵を滅ぼし、神の民を救うという救い主ではありません。それゆえ、間違った理解が弟子たちから広まらないように、イエスはだれにも言わないように戒めたのです。

 

 ペテロは待ちに待った救い主はこのお方だと期待しています。そして、自分の告白が否定されないばかりか、内緒にするように命じられたので、ますます確信を強めたでしょう。しかし、この時点では彼はまだ、救い主についての真実に気付いていません。そればかりか、自分の理解が「サタン」と呼ばれることになるとは、想像すらついていません。

 

 私たちが生きている現代においても、「救い主」は「争いを終わりにして平和を実現する」とか「貧困をなくして誰でも幸せになれる社会にする」あるいは「自然災害を失くする」といったイメージがほとんどだと思います。しかし、まことの救い主は私たちを滅びから永遠のいのちに救います。人にとって最も大事なのは「滅びからの救い」だからです。世の中を力で変革するのではありません。

 

Ⅱ.ペテロはイエスの受難を否定し、神の考えではなく自分の考えを優先した(8:31-33)

 イエスはさらにことばを続けます。31節を読みます。

 

8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 

 イエスは、ご自身が何者であるのか、そしてどのような生涯を送るのかを初めて口にします。今までは、奇蹟によってご自身のことを間接的に表していましたが、ここから直接的に表してゆきます。イエスはまずご自身を「人の子」と呼んでいます。「人の子」はダニエル書によれば、世界の支配者つまりメシアを指しています。ですから、イエスはペテロの告白を否定しないのです。ただ、メシアの理解が間違っているから、イエスはメシアの歩む道すなわちご自分の生涯をはっきりと弟子たちに教えるのです。

 

 この31節にはイエスの生涯について4つのことがらが記されています。

①多くの苦しみを受ける:精神的、肉体的に激しい苦しみを受けます。ただし、この苦しみは十字架の苦しみだけではなく、全生涯における苦しみです。

②長老、祭司長、律法学者に捨てられる:彼らは最高議会のメンバーであり、事実上、政治や司法を担っていました。彼らは、イエスの教えを否定するだけでなく、イエスに権力を奪われることを恐れて殺害を計画、実行しました。

③殺される:イエスは罪がないのに死刑にされましたから、殺されたと言えます。

④三日後によみがえる:この世では決してあり得ないことですが、死んでからから3日後によみがえるのです。

 

 イエスはこの順番の通りに生涯を送らなければならないと言っています。ここで注目したいのは31節「~しなければならない」ということばです。この「~しなければならない」は4つのことがら全てにかかっています。さらに「神の定めによってすることになっている」を意味します。つまり、「メシアがこのような生涯を送るのは神の定めだから」と言っているのです。しかも、神の定めですから必ずそのようになるのです。

 

 このことばにペテロはすぐさま反応します。32節を読みます。

 

8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

 

 「いさめる」という言い方は穏やかに聞こえますけれども、このことばは30節「戒める」、33節「叱る」と同じことばです。ですから、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエスを強く責めたのです。ただ、ペテロの反応は不思議ではありません。ペテロはイエスの圧倒的な力を間近で何度も体験していますから、苦しんで死ぬなんてことはあり得ないと考えるのは当然です。ましてや、預言されたメシアがこの世の権力に勝てないばかりか殺されるのは、ペテロにとって絶対に認められないことなのです。イエスの語るメシアとペテロの抱いているメシアとの決定的な違いが、ここで明らかになるのです。

 

 ペテロの強い言い方にイエスは驚くべきことを言います。33節を読みます。

 

8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 

 イエスはペテロを叱っただけでなく「下がれ、サタン」と命じました。イエスを一番慕っている彼からすれば「サタン」のことばは相当ショックだったでしょう。しかし、イエスからすれば「サタン」を口にするほどペテロのふるまいは良くなかったのです。なぜなら、ペテロは神の定めよりも、この世で言われているメシアのイメージになびいているから、神の邪魔をするサタンと叱られたのです。

 

 イエスはご自分のことばや行いをののしられたり、否定されたりしても、厳しく叱ることはありません。その一方で、神の考えやご計画を否定する者は放ってはおきません。それはペテロだけではなく、弟子たちにも言えることだから、振り向いて全員を見ながらペテロを叱ったのです。

 

 イエスは神の定めを受け入れました。ゲッセマネで、杯を過ぎ去らせてくださいと訴えた後で、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようにと、告白しました。それとは反対に、ペテロは神の定めよりも自分の考えを優先してしまいました。イエスのことばは真実だから、世間がどうであれ、自分がどうであれ、イエスのことばが最優先なのです。

 

■おわりに

 私たちもペテロを非難できません。例えば、「神は悪者が悔い改めて生きることを喜ぶ」とエゼキエル書にあります。でも、自分を肉体的、精神的にひどく痛めつけた人が罪を悔い改めて洗礼を受けるときに、神と同じように喜べるでしょうか。あるいは、「主があなた方を赦したように、互いに赦し合いなさい」とコロサイ書にありますけれども、感情が邪魔をすることはないでしょうか。私たちも、イエス様のことばを後ろに下げて、この世の常識や自分の感情や考えを前に出してしまう弱さを持っているのです。

 

 しかし、今やイエスは十字架の死からよみがえり、弟子たちに姿を現した後(のち)、弟子たちの目の前で天に昇りました。「多くの苦しみを受け、殺され、三日後によみがえる」これがこの順番でこの通りになりました。ですから、私たちははっきりと「イエスはキリストです」と告白し、イエスのことばに従うことができるのです。そして、「弱さを持つ私を、よみがえりのイエスが支えている」と確かにわかっているのです。

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