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1月5日「聖書(1)~聖書は神のことば~」(テモテへの手紙 第二 3章16節) 

  • 木村太
  • 1月5日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

パウロはローマ人への手紙で信仰についてこう書いています。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。ローマ10:17)」自然や四季、人間の体、宇宙を見て「人間ではない誰かが造ったんだ」と神の存在に気づく人がたくさんいます。でも、「イエスは私の罪のために十字架で死んだ/イエスを信じれば滅びから救われる」というのは、自然を観察しても、歴史の本を読んでも、わかりません。なぜなら、信仰については聖書にしか書いていないからです。そこで、今日と来週にかけて「聖書はなぜ神のことばなのか、なぜ聖書は人にとって大事なのか」ということを宣教します。

 

■本論

Ⅰ.旧約聖書と新約聖書の両方によって「イエスが神の子救い主であること」が明らかにされている

 最初に聖書についての基本的なことがらを簡単に説明します。今、私たちが手にしている聖書は旧約39巻、新約27巻の合計66巻で構成されています。「巻」の漢字が当てられているのは、もともとは巻物だったからです。聖書は、旧約がBC1400~400、新約がAD50~100、全体では約1500年もの年月にわたって、約40人によって書かれました。さらに、正典と呼ばれる66巻は神やイエスについて書かれた書物の中からある基準に従って定めらました。基準は「これは本当に神について書かれているか/キリストを救い主とする信仰かどうか/クリスチャンの信仰を励まし強めるものか」といったものです。

 

 また旧約・新約の「約」は契約の「約」を意味します。契約とは「義なる者を神の国(天国)に入れる」という、神の救いの約束です。旧約聖書における契約は、神とイスラエルの民との約束であり、律法を守れば義と認めて神の国に入らせる、というものです。さらに、神の国はやがて来られる救い主によって完成します。一言で言うと、旧約聖書には神と人の本質、そして、どうして神は人を救うのかという神のみこころが、イスラエルの歴史を通して記されています。

 

 一方、新約聖書の方は、旧約で約束された救い主がイエス・キリストであり、この方を救い主と信じればその人は永遠のいのちが与えられる、という新しい約束が記されています。言い換えれば、キリストによって神の救いが実現したことが書かれているのです。ですから、新約聖書はイエス・キリストが中心です。

 

 イエスはご自身と旧約聖書の関係をこう言いました。「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。(ルカ24:44)」旧約で書かれていることがらの一つ一つがイエスを指し示していて、イエスによってそれらが実現したのです。それゆえ、

旧約と新約の両方があって初めて「イエスが神の子救い主であること」がはっきりわかるのです。

 

Ⅱ.聖書は誤りのない神のことばである(Ⅱテモテ3:16)

聖書は、一つ一つが独自のテーマを持った書の集まりです。例えば、福音書はイエスの誕生と活動、十字架の死と復活による預言の実現がテーマであり、使徒の働きはキリストの弟子たちの働きがテーマです。ところが、先ほど申しましたように、それぞれの書は著者も時代もテーマも違うのに、あたかも一人の人がすべての書を書いたかのようなのです。なぜなら、すべての書を貫く一つのテーマがあるからです。それが「ユダヤ人イエスが神の子・救い主キリストである」というテーマです。なぜ一つのテーマで貫かれているのか、それは聖書の作者が神だからです。そのことをパウロはこう語っています。

 

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(Ⅱテモテ3:16)

 

 「神の霊感」は「神の息」を意味しています。神はあたかも「ふうっと」息を筆者に吹きかけるごとく、書くべきことがらを筆者に与えました。一人一人の筆者は知性と経験によって書いていますが、書こうという意思と内容を神が与えているのです。決して何かの霊に取り憑かれて恍惚状態で書いたのではありません。神は筆者の人間性や時代背景、当時の言語や文化を用いながら、ご自身の願うとおりに誤りなく書かせるようにしました。だから、聖書の一つ一つの文字に至るまで、すべてが神のことばであり、すべてが正しく、誤りは一つもないのです。

 

 それで、神がすべての書を様々な人に書かせたから、それぞれの書には特徴があるけれども「ユダヤ人イエスが神の子・救い主キリストである」というテーマで統一されているのです。私たちが聖書のことを「みことば」呼ぶのは、聖書が神のことばであり、神の権威を帯びているから、敬意を表す「御」を「ことば」に付けているのです。

 

Ⅲ.聖書は神のことばだから自分勝手な書き換えや解釈をしてはならない(黙示録22:18-19、Ⅱペテロ1:19-21)

 聖書は神のことばそのものですので、扱い方や読み方に注意が必要です。その理由をペテロはこう言っています。

 

「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(Ⅱペテロ1:19)

 

 「夜明け」とは、キリストが再び来て、この罪の世が終わり、神の国が到来することを指しています。つまり「キリストが再び来るときまで、この地上において預言が私たちの歩む道を照らすともしびである」とペテロは語っています。旧約の詩篇でも同じことが言われています(詩篇119:105)。しかも、預言は神が人に対して預けたことばですから、聖書のことがらは人にとって絶対に必要なのです。私たちが「これは要る、これは要らない」という選択の余地はありません。それゆえに神は2つの禁止事項を命じています。それが自分勝手な書き換えと解釈です。

 

A.自分勝手な書き換えをしてはならない(黙示録22:18-19)

 黙示録では聖書の書き換えを禁じています。

 

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。(ヨハネの黙示録22:18-19)」

 

 神は聖書という文書によって、キリストによる救いを完全に人に伝えました。神が人に伝えるべきことがらは聖書で完結しています。つまり、これ以上必要もないし、不必要な内容も一切ないのです。もし、付け加えたり取り除いたりすれば神の権威を無視することになります。「この書だけで十分だ」と神は言っているのに、それに反するのだから神よりも自分の方が偉くなっているのです。だから、聖書を書き換えた者にはそれ相応の罰が下されるのです。

 

 ただ、私たちが聖書そのものを改ざんすることはないと思います。しかし、「よくわからない/今の自分には必要ない」そんな理由で読み飛ばしたり、意図的に避けてはいないでしょうか(例:系図とか儀式の定め)。聖書はどれが大事でどれが大事ではない、ということは決してありません。聖書のすべてが私たちの救いと私たちの信仰維持に必要なのです。神は私たちが永遠のいのちを得て、この地上でも喜びと安らぎに満ちることを願っています。聖書はそのために神が私たちにくださったプレゼントです。だから私たちはすべてのことばを大切にするのです。

 

B.自分勝手に解釈をしてはならない(Ⅱペテロ1:20-21)

 もう一つの禁止事項として神は「勝手な解釈」を禁じています。そのことをペテロはこう書いています。

 

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(Ⅱペテロ1:20-21)」

 

「勝手な解釈」とは「神が伝えることをそのまま受け取るのではなく、自分の都合に合わせて真実を曲げること」を言います。例えば、聖書の奇蹟を現代科学から説明し、神のわざとして受け取らない、といったことがあります。

 

 「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく」とあるように、イザヤなどの預言者は神から預かったことばをそのまま人に伝えました。人の口から発せられてはいるものの、それは個人的な意見ではないのです。それと同じように、聖書も神が聖霊を通して筆者に書くべきことを与えました。ですから、聖書を理解するためには、「自分がどう感じるのか/自分はどう理解したか」を優先するのではなく、「神はここで何を言いたいのか」をまず求めるべきです。聖書に向き合う際に大切なのは聖書に対して素直であり、謙遜であることなのです。

 

■おわりに

 私たちは新しい年を迎えましたけれども、世界を見渡すと喜びや平和や希望をもたらす話題よりも、困難や不安や恐れにつながるものが多くなっています。そんな私たちのために、神はご自身のみこころを聖書という文書にしてくださいました。神は暗い所を照らすともしびとして聖書を私たちに与えてくださったのです。これこそ、神のあわれみです。

 

 私たちは神のことばを持っています。だから、どんなときも平安と希望があり、同時にどう生きればよいのかも教えられています。聖書というともしびを持つ私たちが、この世の中にあってともしびになるのです。

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