「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)」毎年クリスマスで耳にする聖書のことばです。約2000年前にイエス・キリストが救い主として生まれたのを、私たちはお祝いします。でも「何からの救いか」が分からなければ、お祝いできるでしょうか。そこ今日から12/22までの3回にわたって、「救い」に焦点を当てて宣教をいたします。1回目の今日は、「なぜ人には救いが必要なのかを」創世記から見てゆきます。
Ⅰ.神は人を特別な存在として造り、完全な平安と満たしの中に置いた(創世記1:26-28,2:8-17)
創世記1章には神が天地万物を創造した様子が描かれています。ただし、人だけは造られ方が他とは違います。このことを1:26-28から見てゆきましょう。
①他のものは「~あれ/~ふえよ」のように命令で造られたのに、人は「さあ人を造ろう。」です。すべてが整ってさあこれから、という神のなみなみならぬ意欲が表れています。
②人だけが神のかたちに似せられています。神は過去、現在、未来において同時に存在し、あらゆる空間に同時に存在できます。ですので限りあるかたちにすることは不可能です。それゆえ「かたちとして」というのはことばや行動のようなふるまいができること、そして感情や意志、判断のような能力を持っていることを意味します。つまり、人は地上で神の代理として、神のすばらしさを示すために造られたのです。
③支配とあるように、神は人にあらゆる生き物を正しく管理する役割を与えます。
④神は男と女を造りました。人だけがオス・メスではなく男と女に定義されています。それそれが特別な性質を持つ存在として造られたのです。
⑤神は男と女を祝福しました。神が造ったものの中で祝福されているのは人だけです。
このように、神にとって人だけが特別な存在なのです。そして2章には神がどのように人を扱ったのかが記されています。(2:8,15,16-17)
①2:8,15節:園は単なる土地ではなく、特別に守られた領域すなわち神が特別に備えた恵みの場所です。だから「園に置く」ことで、人は常に満たされ平安でいられるのです。さらに、神はそこを耕させ守らせました。これは労働と管理を任せています。この労働には無駄骨を折ることもなく、苦痛も伴いません。すべての働きに意味があり、満足があります。なぜなら、労働に苦痛が伴うのは、罪を犯した後だからです。
②2:16-17節:神は見た目がよく、おいしくて栄養のある、あらゆる樹木を生えさせました。また、園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木がありました。
・いのちの木…永遠に生きる者になることができた、と思われる
・善悪の知識の木…神に判断を求めるのではなく、自分で善し悪しを判断する知識や権利を与える木。
神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」という自由をお与えになりました。そして、善悪の知識の木についてだけ「取って食べてはならない」と命じました。すなわち、この木だけは唯一神の判断が必要でした。さらに「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」という結果を明らかにしました。「死ぬ」は肉体もたましいもその瞬間に滅びることに加えて、神との関係が絶たれ、祝福から遠ざかることも意味します。例えば神の呼びかけに応答できないとか、神の恵みに気づかないといったことになります。注意すべきは、死が禁止の理由ではないことです。「だめなものはだめ」のように、神は理由なしに従うことを求めているのです。
神はご自身の代理となる人を格別に扱っています。それで人は何をするにも自由があり、安らぎに満ちて生きていました。すべてに満たされていました。だから「善悪の知識の木」を禁じられていても、それを破る動機は全くないのです。「神と完全に信頼関係があった」これが本来の人の姿です。
Ⅱ.人は自らの意志で神の命令に背き、その罰によって苦しむ者となった(創世記3:1-19)
創世記1-2章は神のふるまいに焦点が当てられていますが、3章では人に当てられています。
蛇は何のためにこの質問をしたのかここではわかりません(3:1)。ただ、男と女ではなく女だけに問いかけたところに、単独にして何かをしようとする企みを感じます。女はこう答えました(3:2-3)。この答えは神のことばと違っています。例えば神は「それに触れてもいけない。」とは言っていません。ここで最大の違いは「あなたがたが死ぬといけないからだ。」とあるように、死が禁止の理由になっているのです。しかも男もこの答えを訂正していません。
女の答えに蛇が応じます(v3:4)。「死ぬから食べるな」という間違った認識を蛇は巧みに利用し、「死なないから大丈夫だ」と安心を言います。「だめなものはだめ」という禁止をないものにしました。加えて、5節「あなた方が神のようになり」という大きな魅力も示しています。
女は蛇の誘惑に乗りました(3:6-7)。それで女は蛇の誘惑にはまり善悪の木から実を食べ、さらに夫にも与えて夫も食べました。女は男の助けてですから、女が「大丈夫」と言ったから男も食べたのかもしれません。でも、神は両方に禁止命令を出していますから、男も女も自分の意志で神に背いたのです。これが罪です。食べた結果、彼らは善悪の判断を神に仰がず自分でするようになりました。それで、互いの裸を恥じ、神の前に恥ずかしさと恐れを抱くようになりました。神が裸のままでいさせたのにそれを否定したのです。また恥や恐れを感じるのは、相手への信頼が損なわれている証拠です。神に背いた結果、直ちに死ななかったのは神のあわれみです。しかし、神との信頼関係、人との信頼関係はここで崩れました。これが地上世界の有様です。
そこで神は蛇と女と男に罰を下しました。神に背いたのは男と女ですが、それを巧みに誘導した蛇を赦すことはできないので、神はまず蛇に罰を宣言します(3:14-15)。ただ、蛇もよいものとして造られましたので、ここには蛇を操っているサタンの存在があります。それで15節はサタンと人との戦いと解釈されています。「おまえ/おまえの子孫」がサタンで、「女/女の子孫」はエバとそこから生まれる人です。それぞれの子孫に至るまでですから、サタンとの戦いは長きにわたって続けられます。注目すべきは「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」とあるように、打つ部位が異なっているところです。サタン(おまえ)は人(彼)のかかとを打ちます。でも、かかとは激痛があっても死に至りません。一方、人はサタンの頭を打ちます。頭は致命傷になります。つまり、最後には一人の女の子孫が、痛手を負いながらもサタンに勝利するのです。神は罪を犯した人を赦さないけれども、人を大切にしたいという神のあわれみがここにあります。ただし、頭を打つ者が誰かはここでははっきりしていません。これが隠された真理すなわち奥義です。やがてイスラエルの歴史を通して、「彼」が救い主イエス・キリストであることが徐々に明らかになるのです。驚くべきは、最初の人が神に背いた時点で、救いは備えられていることです。
さて、神は女に2つの罰を与えます(3:16)。本来、出産は神の祝福であり、喜びであるから苦しみ、痛み、悩みは伴いません。でも、今や妊娠、出産には苦痛が伴うようになりました。また、人が主従関係を結ぶのは神のみですが、罪によって男と女の間に主従関係が生じるようになりました。違う言い方をするならば「愛し尊ぶ」関係から「求め、支配する」関係になったのです。
一方の男には労働に罰が与えられました(3:17-19)。「土地がのろわれる」とは男が土地から嫌われる、と言う意味です。それでこのような結果となりました。
①「一生、苦しんで食を得る(3:17)/顔に汗を流して糧を得る(3:19)」:労働に苦労・苦痛が伴う。
②「土地は..茨とあざみを生えさせ(3:18)」:「茨/あざみ」は土地が荒れることを意味しています。つまり労働に対する成果が得られなく、無駄骨に終わることがあるのです。
③「顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る(3.:19)」:いくら一生懸命働いても最後は死で終わります。労働には空しさが伴うのです。
人は神に背いた結果、出産という最も神秘的な領域にも心身の苦しみがあり、人間関係に困難があり、あらゆる労働に苦しみがあり、そして最後は死で終わりあらゆるものごとは虚しくなります。これが地上における人の姿です。だから、この世は失望と絶望に満ちているのです。
神は人を特別な存在としてお造りになり、格別な扱いをしました。本来であれば、平安と喜びと満たしを永遠に味わえたのです。しかし、神に背いた結果、不安と恐れと不満の人生になったのです。しかも、それを解消するために、神以外の何かに頼るようになりました。例えば、金銭、地位、支配、人からの愛、アルコールや薬物などです。同時にすべてには限りがありいつかは終わることを知っているからすべてに空しさを覚え気力を失ったり、反対に永遠のものを必死に求めるようになります。無駄なことを知っていてもです。まさに神から見れば哀れで悲惨な道を歩んでいるのです。
ところが神はその悲惨から脱出する道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストです。イエス・キリストが信じる者と神との間をとりなしてくださることで、神との信頼関係が回復します。悲惨と失望の世界にありながら、再び平安と喜びと満たしを生きることができるのです。キリストの誕生を喜ぶには、まず自分の姿を知ることから始まるのです。
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