3月30日「新しい人を着る」(コロサイ人への手紙3章12-17節)
- 木村太
- 4 日前
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■はじめに
イエス・キリストは宗教指導者ニコデモに「神の国に入るためには新生(新しく生まれること)が必要だ」と教えました。それは、キリストを救い主と信じた者がキリストと結びついて、内面がまったく新しくなることを言います。具体的に言うなら、罪に囚われていた歩みから神に囚われる歩みに変えられたのです。ただし、赤ちゃんが生きる術を次第に身に着けて行くように、私たちもクリスチャンとしてふさわしい生き方を身に着ける必要があります。今日は新しく生まれた者にふさわしい生き方についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.新しい人は五つの衣を身に着けて愛の帯を締める(3:12-14)
本論に入る前にコロサイ人への手紙について簡単に触れます。この手紙はパウロがローマの獄中からコロサイにある教会に宛てた手紙です(1:1-2)。コロサイは現在のトルコに位置する小アジアの町で、この手紙が書かれた紀元60年頃においては東西交通の要所でした。そのため、様々な宗教や思想が世間に行き渡っていて、教会にも御使い礼拝や禁欲主義、律法主義といった教えが入り込んでいました。それで、コロサイ教会が派遣したエパフラスからパウロはローマの獄中で事情を知り、この手紙を書きました(1:7)。ですので「キリストを正しく知り神に従うことが間違った教えに惑わされない道」これが手紙のテーマとなっています。
パウロは3章から、クリスチャンすなわちキリストとともによみがえらされた者の生き方を語ります(3:1)。パウロはまず「上にあるもの(神の国、永遠の命)を求め続けなさい」と生きる目標を命じ、そのために二つのことを命じました。一つ目は古い人を脱ぎ捨てる、すなわち「罪に基づくこの世のことがらに囚われる生き方」をやめることです。二つ目は「新しい人を着る(3:9)」すなわち「キリストを通して神に囚われる生き方」をすることです。新生はあくまでも神の一方的な恵みによる神のわざです。しかし、新しく生まれた者として生きるのは自らの意志が必要なのです。
新しい人を着るに際して、パウロはこう始めます。(12節)パウロはまず「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」とコロサイの信者を呼んでいます。この「聖なる」の「聖」は、神がキリストを信じた者をご自身の所属にしたことを言います。ですからパウロは、コロサイの信者が何の妨げもなく神の恵みを受けられる立場になっていることを明らかにしているのです。これが新しい人の特徴であり特権です。その上でパウロは、新しい人が身に着けるべき5つの性質を挙げています。
・深い慈愛の心:神のあわれみ。相手の心と一つになって、その人の益を目指す思い
・親切:人に対する思いやりのあるやさしさ
・謙遜:自分の権利を進んで捨て、神のみこころに従って人に応じること
・柔和:自分の感情に囚われず、穏やかな様
・寛容:他人の愚かさや悪意に対して、すぐに報復しない自制の心
ここから2つのことがわかります。一つは新しい人はその性質を人との関わりの中で発揮すること、もう一つは関わる際に自分ではなく相手の益を最優先にすることです。福音書に記されているイエスの生き方が、まさにお手本です。
さらにパウロは、5つの性質という衣を身に着けた者に命じます。(13節)「互いに忍耐し合い/互いに赦し合い」とありますから、これは教会あるいはクリスチャン同志での実践です。「忍耐する」は相手に対してわき上がる感情を表に出さないふるまいを言います。また、「赦す」は神と人に対する謝罪に対して、罪を過ぎ去らせる姿を言います。ただし「だれかがほかの人に不満を抱いたとしても」とあるように、この実践はかなり難しいです。自分の感情に身を委ねてしまったら、到底できません。だから、先ほどの5つの衣をまとっていなければならないのです。言い換えれば、5つの衣を身に着けているかどうかが教会という場で試されるのです。
身に着けるのはこれで終わりではありません。(14節)このたとえは、日本人には分かりやすいのではないでしょうか。和服では帯を締めなければ着物ははだけます。帯を締めることで体と着物が一体となり身に着きます。つまり、5つの性質は神の愛を自分に着けていなければ生まれないのです。
「神の愛を着ける」とは「御子を犠牲にするほど神は私を大切にしている」という事実にしっかりとどまっていることです。簡単に言うなら「私には神がいるから、イエスがともにいるから大丈夫」という心に満たされていることです。「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」これら5つの衣は、自分のことを優先してしまったら、どれ一つできません。私たちは相手によって、「優しくしたい/優しくしたくない/我慢できる/すべてにムカつく」のような感情が湧きあがります。その時、否定的な感情が湧きあがったとしても、「私はすでに神から大切にされているから」という土台に立っていれば、この5つをまとって互いに忍耐し合い、互いに赦し合えるのです。
Ⅱ.新しい人はキリストのことばを自分自身に宿らせる(3:15-17)
さて、パウロは5つの衣と愛の帯を着けた者へさらに命じます。(15-16節)ここには「~しなさい」という命令が連続していますが、原文では「支配しなさい」「感謝しなさい」「住まわせなさい」の3つです。そして、「あなたがたの心を支配する/感謝の心を持つ/あなたがたのうちに住む」とあるように、先ほどの5つの衣は人に対する有様でしたが、こちらは自分自身に向けたことがらです。結論から言うと、この3つは神の愛を着けるための訓練項目になっています。
①キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい:同じクリスチャンとはいえ、精神的にも肉体的にもそれぞれ違いがあります。ですから、教会において異なった考え方や価値観が出るのは当然です。けれども「あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。」とあるように、キリストによって救われた事実から見れば違いはありません。「私もあの人も神から愛されている人だ」と思う時、互いの平和と心に平安が訪れるのです。ですから、平和と平安を実現するには神の愛が必要です。
②感謝の心を持つ人になりなさい:私たちは自分が被る出来事すべてに感謝するのは不可能です。けれども、あらゆることがらが神のご計画の下にあること、また、どんなときでもイエスがともにいること、これに気づけば神への感謝が生まれます。言い換えれば、「神の愛に包まれている」と意識しなければ感謝は生まれないのです。
③キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい:「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)」と使徒ヨハネが言うように、イエスは神の愛そのものです。ですから、神の愛を身に着けるためには「キリストのことば」すなわち聖書を私たちの内側に入れなければなりません。しかも「住む」は「居住する/生息する」のように活動を伴っています。単に置いておくことではありません。つまり、聖書のことばを取り込んで用いることによって神の愛が身に着くのです。現代風に言うならば「キリストのことばを自分にインストールする」となるでしょう。
また16節後半「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」これは「ことばを住まわせる」ための方法です。最初の2つは何をするにも聖書のことばに基づくことを意味します。さらに詩(詩篇)と賛美(信仰者が作った賛美)と霊の歌(即興的な賛美)を神への感謝をともなって歌うことにより、聖書のことばが体に染みわたります。神の愛が自分に注がれていることを思う時、うわべではなく心から感謝の歌が湧きあがります。豊かな賛美は神を崇めるための手段であると同時に、神のことばを自分の内側に定着させる役割もあるのです。
私たちは「神の愛を身に着けなさい」と言われても漠然としていて何をすればよいのか見当もつきません。それでパウロは神の愛が身に着くような訓練方法を教えました。「平和が心を支配する」「感謝する」「キリストのことばを住まわせる」これを常にどんな中でも実践すれば、自然と神の愛が身に着くのです。これが信仰の成長なのです。
■おわりに
今回は17節のことばをもって宣教のまとめとします。先ほどの3つの訓練は、どちらかと言えば逆境の中で実践する内容です。やりやすい環境では神の愛は身に着きにくいのです。一方、この勧告は「ことばであれ行いであれ、何かをするときには」とあるように、生活のすべてが対象です。私たちは何をするときにも、イエスのとりなしによって神の守りがあることを神に感謝します。それゆえ、「主イエスの名において」とあるように、イエスのご支配があらゆることに及ぶのを確信し、期待してふるまうのです。私たちの生活の隅々にまで神の愛が及んでいるから、私たちはクリスチャンとして平安でいられ、この世のものごとに振り回されません。
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