■はじめに
イエスは死からよみがえり弟子たちの前に現れ、そして弟子たちの目の前で父のおられる天に昇って行きました。その後、弟子たちは聖霊の力を受けて福音を人々に伝えました。ただし、「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(使徒4:33)」とあるように、使徒たちの語った内容の中心はイエスの死とよみがえりでした。これはパウロも同じで、このようにコリントへの手紙に書いています。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、(Ⅰコリント15:3-4)」つまり、「永遠の滅びから救われて天の御国に入る手段があること」いわゆる福音とよみがえりは切っても切れない関係にあるのです。そこでイースターの今日はイエスのよみがえりがなぜ福音とつながっているのかをみことばに聞ききましょう。
■本論
Ⅰ.墓の中にイエスの遺体はなかった
現在の曜日で言うと、イエスは金曜日の9時に十字架につけられ午後3時頃息を引き取りました。そしてその日の夕方、アリマタヤのヨセフやニコデモによって墓に葬られました。この時、マグダラのマリヤ、アルパヨの子ヤコブの母マリヤ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母サロメの3人がイエスが埋葬される様子を見ていました。ただし、「イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。(1節)」とあるように、十字架直後の埋葬は仮のやり方だったので、彼女たちは安息日が終わった後に正式な埋葬をしようとしていました。
それで3人の女性は埋葬の支度を用意して、イエスの遺体が納められている墓に行きました。「週の初めの日の早朝、日が昇ったころ(2節)」とあるように、彼女たちは少しでも早くきちんとイエスを葬ってあげたかったのです。彼女たちはどの墓に埋葬されたのかをちゃんと知っていたので、当然、そこにイエスは納められていると信じていました。ですので、墓に着いた彼女たちの心配はもっぱら、墓の入り口の石をどう転がすかでした(3節)。なぜなら、「非常に大きかった(4節)」とあるように、3人の女性ではとうてい動かせないほどの石で墓が塞がれていたからです。
ところが驚くことに石はすでに転がされていて墓の入り口は開いていました(5節)。さらに彼女たちを驚かせたのは墓の中に真っ白な衣をまとった青年がいたことです。ルカの福音書によれば、彼はまばゆいばかりの衣を着ていて、それを見た彼女たちは恐ろしさで地面に顔を伏せました(ルカ24:4-5)。彼女たちはこの青年を御使いと分かったからです。
そこで青年は3人の女性に話しかけました。驚くことに彼は彼女たちが何をしに来たのかを知っていました。それで、青年はイエスに起きたことをそのまま彼女たちに伝えて、さらに遺体がないのをその目で確かめさせました(6節)。
その上で御使いである青年はペテロと弟子たちへの伝言を言い渡しました(7節)。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」この伝言はかつてイエスが弟子たちに語ったことと同じです(マルコ14:28)。つまり、十字架で死ぬ前に語っていた通り、「死からのよみがえり」が事実となるのです。
イエスの遺体がないのを見て、女性たちは墓から逃げ去りました(8節)。「震え上がり、気も動転して」とあるように、彼女たちがどれほど恐怖を感じていたのかがわかります。彼女たちは、イエスが十字架で死んだのを見ました。また、ヨセフたちによって墓に納められて石で塞がれているのもしっかりと見ました。さらに、石には封印がなされローマ兵が墓の番兵をしているのも知っています(マタイ27:66)。ですから、こういう状況で遺体がなくなるのはあり得ないのです。クリスチャンのようにイエスのよみがえりをわかっている者にとっては、墓から遺体が消えているのは不思議でも恐れでもありません。けれども、何も知らない者が直面したら驚きと同時に、得体のしれない出来事への恐怖が湧いて来ます。まさに3人の女性は消えた遺体を前にして震えるほどの恐怖を感じたのです。
この後、よみがえったイエスはすでに語った通り、弟子たちの前に姿を現しました。しかも、その体には十字架で打たれた釘の跡や槍の傷がそのままありました。十字架での死、墓の埋葬、3日目に墓から遺体が消えたこと、傷ついたままの姿で現れたこと、これらすべてを複数の人が目撃し体験しています。だから、「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる(マルコ9:31)」これが真実だと言えるのです。
Ⅱ.イエスのよみがえりによって、ご自身のことばが本当であることが明らかになった
さて、イエスのよみがえりと福音すなわち「永遠の滅びから救われて天の御国に入る手段があること」とはどんな関係があるのでしょうか。このことをイエスの語ったことばをもとにお話しします。
イエスがユダヤ人に対して最初に語ったことばはこれでした。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(1:15)」この当時、ユダヤ人が求めていたのは、神から正しい者すなわち義と認められて約束された神の国に入ることでした。そのため、義と認められるために一生懸命こまかな規則を守らなければなりませんでした。そこで、イエスはこう言いました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。(8:34-35)」
イエスは、ご自身を人の子すなわちメシアと信じて、ついてくる者に永遠のいのちを与える、神の国に入らせると約束します。言い換えれば、イエスを信じて従う者は、神から義と認められて、永遠の滅びを免れ、神の国に入ることができるのです。さらに、神の国に入るまでその者を守り、導くのがイエスなのです。これが「福音/良い知らせ」です。
ただし、この福音を信じるためには語った者が信頼できるかどうかにかかっています。もし、イエスが信頼に足る者でなかったとしたら、誰が福音を信じるでしょうか。ですから「イエスの語ったことはすべて真実だ」を明らかにするために、よみがえりが必要なのです。マルコの福音書において、イエスはご自身の死と3日後のよみがえりを弟子たちに3度予告しました(8:31,9:31,10:33-34)。それが、ことごとく現実になりました。特に、死んだ者がよみがえるという、この世ではあり得ないことがその通りとなりました。だから、「イエスは神の子キリストであり、彼のことばはすべて本当だ。」となるのです。もし、よみがえらなかったのなら、「やっぱりイエスはインチキだ」ということになり、イエスは誰にも信じてもらえないのです。死からのよみがえりがあったからこそ、イエスは信じられるのです。
さらに大切なのは、神の国に導くイエスが今も存在している、ということです。「私についてきなさい。」と言った本人が死んだままでは、だれが神の国に導くのでしょうか。これでは、「福音」になりません。イエスは人とは異なる肉体でよみがえり、天に昇った後は神と人との間をとりなしています。と同時に、目には見えませんがいつも私たちとともにいます。しかも、決して私たちを見放さず、見捨てません。だから、イエスは従う者を神の国に連れてゆき、そこに入るまで常に守ってくださるのです。イエスのよみがえりがあってこそ、福音が福音となるのです。
■おわりに
弟子の先頭に立ってイエスはエルサレムに入ったように、よみがえりのイエスが先頭に立って、信じる者たちを神の国に導きます。私たちがこの世で生きている間、よみがえりのイエスはいつも一緒にいてくださり、私たちを助けてくださり、正しい方向に導いてくださっています。死んでよみがえった方はこう言っています。「私に従いなさい。」福音を聞いたすべての人が「はい、従います」と答えるのを神は望んでいます。
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