6月8日「イエスの証人となる」(使徒の働き1章1-8節)
- 木村太
- 6 時間前
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■はじめに
今日はペンテコステです。イエスの弟子たちに聖霊が下ったのは、イエスのよみがえりから数えて50日目でした。「50番目」をギリシャ語では「ペンテコステ」と呼ぶので、聖霊が下った(降臨)日を「ペンテコステ」という記念日にしました。聖書によれば聖霊は助け主とも呼ばれ、神のみこころによって人に作用します。次のようなことがらが代表と言えるでしょう。「人が神を知るようになる/人に信仰を与えて新しく生まれさせる/世の中に罪、義、さばきの真実を知らせる/神の栄光を現すために賜物を与える/イエスを証しする力を与える」その中で、今回はイエスを証しさせるという働きを取り上げます。
■本論
Ⅰ.イエスは使徒たちに、まもなく聖霊のバプテスマがあることを約束した(1:4-5)
使徒の働き1章1-2節はこの書の前書きに当たります。著者ルカは「前の書」すなわちテオフィロに宛てた「ルカの福音書」においてイエスのすべてを記した、と証言しています。これは、これから書く内容も事実そのままであって決して作り話ではないと、言いたいのです。ただし、ルカは福音書ではイエスの行いとか語ったことばのすべてを記しましたが、使徒の働きでは聖霊のことしか扱っていません。というのも、イエスが天に上げられた後の使徒たちの活動と聖霊が密接に関係しているからです。言い換えれば、聖霊抜きにして彼らの活動とイエス教の広がりは無いから、この書では聖霊だけを扱っているのです。
ルカは、イエスが十字架で死んだあとよみがえり、そのあと40日にわたって弟子たちに神の国について語った、と証言します(3節)。そして、よみがえって彼らの前に現れた後で語ったことがらに触れます。
イエスは「エルサレムに留まり、父の約束を待つように」と命じました(4節)。なぜなら父が約束していた聖霊によるバプテスマがエルサレムで与えられるからです(5節)。ここで父の約束とは、イエスが十字架にかかる前に話していた聖霊に関する2つのことがらです。
①聖霊のバプテスマ。聖霊が与えられること(ヨハネ14:16-17)
②聖霊がイエスは救い主であることを世の中に証しし、使徒たちも証言する(ヨハネ15:26-27)。
簡単に言うならば、エルサレムで使徒たちに聖霊が与えられ、聖霊が使徒たちを通してイエスのことを語らせるようになる、という約束です。使徒たちにとってこのことばは驚きだったと思います。なぜなら、イエスが逮捕された時、彼らは全員逃げましたから、イエスとの関わりさえもユダヤ人に知られたくなかったからです。そんな自分たちがイエスのことを語れるようになるとは思ってもいなかったでしょう。
こんにち、私たちは洗礼の諮問会や洗礼式の誓約において、天地万物の造り主を神と崇め、イエス・キリストを救い主と告白しています。つまり、イエスが救い主であることを公に証言しているのです。ですから、私たちは確かに「聖霊のバプテスマ」をすでに受けているのです(Ⅰコリント12:3)。
2.イエスは神の国の再興について語った(1:6-8)
(1)聖霊を受けた者はイエスがキリストであることを証しできる力を持つ
さて、イエスのことばに使徒たちは尋ねました(6節)。ユダヤ人にとって「国を再興する(6節)」とは、あのダビデの時代のようにイスラエルが神の国として再び樹立するのを指します。使徒たちは、「イエスが神の国を語っていた/まもなく助け主が来る/イエスは死を越えたお方であり人知の及ばない力を持っている」こういった事実を身をもって知っていました。ですから、聖霊のバプテスマを受ける時こそ、イエスがメシアとしてローマ帝国の支配を終わらせ、イエスがイスラエルを神の国として再び樹立すると期待したのです。
それでイエスはこう答えました(7-8節)。「父がご自分の権威をもってお定めになっています。(7節)」とあるように、神の国は人ではなく父なる神の働きによる、とイエスは言います。だから、それがいつかとかどんな時代かを人は知り得ません。このことは旧約聖書でも預言されていますから、当然の回答です。
ここで不思議なのは、弟子たちが神の国を尋ねているのに、イエスは聖霊について語っていることです。結論から言うと、聖霊のバプテスマから神の国の再興が始まり、それをなすのはメシアではなく聖霊を受けた者ということです。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき(8節)」とは、聖霊が上から与えられる様子を意味し、これが聖霊のバプテスマを指します。聖霊のバプテスマを受けた者は力を得ます。この力は肉体的な力なのか、能力としての力なのかあるいは権力としての力なのかは明らかではありません。ただし確かなのは、先ほど申しましたように、この力を受けた者がイエスの証人となるのです。
イエスの証人とは、「イエスが語ったこと、イエスがなしたこと、イエスの身に起きたこと」これをそのまま語ることです。突き詰めていえば「イエスは神の子。イエスは十字架で死んだ。神が死んだイエスをよみがえらせた。イエス以外に救いはない」となります。ですから、イスカリオテ・ユダに代わって使徒を選ぶ際は、イエスと行動をともにしていた中から選ぶ必要がありました。
そしてその通り、ペンテコステ以降、使徒たちはイエスを証しできるようになりました。あのペテロも、イエスが逮捕されたときにはイエスを3度知らないと否定しましたが、聖霊を受けた後は、大胆に力強くイエスを証ししました。それも、イエスを敵視する総本山エルサレムで語ったのです。まさに、聖霊が恐れや不安を取り去り、証する勇気、自信、そして語ることばを与えたのです。
先ほど申しましたように、私たちもペテロと同じく、すでに聖霊を受けていますし、今も受け続けています。ですからイエスを証しすることができます。聖霊によって人は信じない者から信じる者へ、口に出せない者からはっきりと語れる者にすでに変えられているのです。
(2)神の国は神の民が存在する所であり、特定の国や地域ではない
聖霊に関してイエスはもう一つ語っています。それが「イエスの証人」が広がってゆくことです。パウロは信仰についてこう言います。「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか(ローマ10:14)。/ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)」
イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰はイエスについて聞くことから始まります。まったく知らないイエスを救い主と信じるのは不可能です。だから、イエスの証人が必要なのです。ただし、この時代はラジオもテレビもインターネットもありません。それゆえ人を通してイエスが伝えられてゆきます。それでイエスの証言は、いま使徒たちがいるエルサレムから始まり、それの南にあるユダヤ地方と北にあるサマリヤ地方に広がり、さらには地中海沿岸の国々にまで広がるのです(8節)。
つまり、弟子たちは神の国をイスラエルという特定の国と考えていましたが、真実はそうではありません。神の国は特定の地域とか民族ではなく、神の民そのものだから、神の民すなわちクリスチャンがいるところが神の国なのです。クリスチャンの集う教会は神の国を味わえる場所、と呼ばれるのもそのためなのです。
イエスの証人が全世界に広がってゆけば、それを聞いてイエスを信じる人が生まれ、神の国が広がります。そして神が定めたときに、新しい都エルサレムが天から下って来て、神の国が完成します。イエスが地上で活躍していた時代は、イエスが不思議なしるしとともに福音を語りました。けれどもいまやイエスは地上から去り、天におられます。それゆえ神の国復興の中心は聖霊を受けた私たちクリスチャンなのです。私たちクリスチャンがイエスを証しすることで、神の国が広がってゆくのです。
■おわりに
本来私たちは神に背き、神が喜ばれない怒りの人生を歩んでいました。しかも、その最後は永遠の滅びです。しかし、神はそんな人をあわれみ、我が子イエス・キリストのいのちを犠牲にしました。私たちが罰せられる代わりに、罪のないイエスが罰せられました。そして神は聖霊を通して私たちにイエスを救い主と信じる信仰を与えてくださり、天の御国に入らせてくださいます。
その上、聖霊を通して私たちにイエスによる救いを明らかにする力を与えてくださいました。私たちはすでに神を悲しませ怒らせる存在から、神の喜びとなる者、役に立つ者に変えられているのです。イエスを証しする働きは、一人一人違いますけれども、全員が何らかの形で証しできるのです。約2000年前、聖霊の働きによってエルサレムから全世界にイエスが伝えられるようになりました。そして三笠の地でも聖霊の働きによってイエスが伝えられ、神の国が広がっているのです。
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