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木村太

3月5日 「聖書は神からの愛の手紙」(ヨハネの福音書6章40節/テモテへの手紙 第二 3章16-17節)

■はじめに

 今、私たちは新改訳、新共同訳、口語訳といった日本語に翻訳された聖書を手にしています。翻訳される前の聖書いわゆる原典では、旧約聖書がヘブル語、新約聖書がギリシヤ語で書かれています。ヘブル語もギリシヤ語も、聖書が書かれた時代には、すでに文字で表現できる言語となっていました。ですから、聖書は誰も分からない言語や暗号で書かれたのではなく、当時の人々が使っている言語で書かれています。それで、人は神のことばを理解することができるのです。見方を変えれば、神にとって間違いなく人に伝えたいことがらがあったのです。そこで今日は、聖書は何を目的として書かれているのかをみことばに聞きましょう。


■本論

Ⅰ.聖書は、人がキリストを信じて救われ、永遠のいのちを得るために書かれた(ヨハネ6:40,20:31)

 パウロは聖書と神との関係をこう言っています。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(Ⅱテモテ3:16)」「霊感」は神の息を意味することばです。神は「ふうっと」息を吹きかけるごとく、書くべきことを聖霊を通して聖書著者に与えました。一方、著者は論法や表現方法、使うことばなどを考えながら自分の使っている言語で、神から与えられたことがらを記しました。それゆえ、それぞれの書には特徴があるけれども神がすべての書を様々な人に書かせたから、聖書全体で一つのテーマとなっているのです。


 そのテーマこそが神が人に伝えたいことがらです。そのことをイエスとヨハネはこう語っています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(ヨハネ6:40)/神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」


 ここから明らかなように、「人がイエスを救い主と信じて滅びを免れ、永遠のいのちを持つ」これを神は人に伝えたいのです。なぜなら、神は人を愛しているからです。神は完全に聖であり義(正しい)なるお方ですから、罪ある私たちをそのままにしません。世の終わりの日に行われる神の審判において、人は全員罪あるものと定められて、神の怒りすなわち永遠の滅びに行くのです。


 その一方で、神は人が永遠の滅びに行くのを望んではいません。そのことを神は預言者エゼキエルに語りました。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)/わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル18:32)」神は、人がこの世で苦しみ、さらにたましいが永遠に苦しむこと喜んでいません。むしろ、神は全ての人が自分の罪を悔い改めて、神に従って生き、神の国に入って永遠のいのちを得ることを喜ぶのです。ただし、人は何をもってしても自分の罪をなくすことができず、完全に神に従えません。だから滅びに行くしかないのです。


 そこで神は、ご自分の子であるイエスに人への怒りを与え、人の罪を赦すという驚くべき方法をとりました。そのことを神は預言者イザヤに告げています。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。(イザヤ53:5-6)」本来人が受けるべき懲らしめを罪のないイエスが代わりに負ってくださいました。それゆえに神は人の罪を赦し、永遠の滅びという罰に定めません。私たちに向けられた怒りをイエスに向けたから、私たちへの怒りは治まったのです。ただし、注意しなければならないのは、救いには条件があるということです。それがイエスを救い主と信じる信仰です。先ほどのヨハネの福音書にあったように「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」のです。


 それで神はご自身の愛に基づく救いをすべての人々に知らせるために聖書を用いたのです。このことをヨハネはこう言っています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」間違いなく確実に人に伝えなければならないから、人が使っている言語で書かせました。さらに文字にすることで伝えたい内容を明確にさせ、同時にいつまでも変わらないものとしました。もし、口伝とか伝聞だとしたら長い年月の間に変わってしまいます。つまり、文書にしたのも「間違いなく人に伝えたい」という神の愛に基づいているのです。まさに聖書は神からの愛の手紙なのです。


Ⅱ.聖書は、信じた者がキリストに似た者へ変えられるために書かれた(Ⅱテモテ3:16-17)

 さて、聖書は人を救いに導くための書物ですが、それだけに留まりません。「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。(詩篇119:105)」とあるように、イエスを信じた人がイエスが再び来るときまで、聖書は正しい道を歩ませてくれます。このことを神はパウロに書かせました。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(Ⅱテモテ3:16-17)」


 人は信仰を持ったとしても罪はいまだ内側に残っています。その証拠にクリスチャン同士のトラブルや教会の分裂、あるいはイエス以外に心の拠り所を求めることがあります。パウロの手紙にも罪による悪がたくさん出てきます。だから神は地上を生きるに当たって聖書という手引き書を与えてくださいました。それでパウロは、聖書がどんなところに有益すなわち効果があるのか、そして聖書を適用することでクリスチャンがどうなるのかを語るのです。


 16節には有益なことがらが4つ挙げられています。前半の「教え」と「戒め」は知識によって人を整え、後半の「矯正」と「義の訓練」は実践によって人を整える効果があります。

①知識

・教え:何が真理であるのかを聖書は教える(何が真実なのか、何が正しいのか)

・戒め:何が罪であるのかを聖書は教える(何をやってはいけないのか。動機も含めて)

②実践

 ・矯正:人のあるべき本来の状態に戻す(罪はあったとしても罪の誘惑を断ち切るようにさせる)

 ・義の訓練:正しい考えや行いができるように練習し身につける


人が整えられるためには、知識と実践の両方が必要です。聖書を読んでいくら知識を得たとしても、考えや行動が伴わないのであれば、その知識は役にたっていません。(例:車の運転は教本で操作・動作を覚えるが、それを実践してに応用し身につける)ここで大事なのは身に染みつくまで続けなければならないことです。いつも聖書をお手本にして実際に行動することが肝心です。繰り返し続けることによってそれが習慣となり、習慣が続くことによって人格が作られます。


 この知識と実践を積み重ねると「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者(3:17)」に変えられてゆきます。「すべての良い働き」とはどんなときでも神の栄光を表すふるまいをすることです。また「ふさわしく、十分に整えられた者」とはどんなときでもそれを実現できる者をいいます。例えば、プロサッカー選手は勝利という栄光を掴むために最高のプレーができるように訓練を積みます。しかも、どんな相手でもどんなコンディションでも発揮できるように肉体と精神を鍛えます。


 それと同じように、クリスチャンも神の栄光を表すために聖書によって神のことを知り、聖書によって善悪の判断基準を知り、聖書によって罪の誘惑を退ける術を獲得し、聖書によってどのようなときも善を行える意志と力を受け取るのです。且つこれを天の御国に至るまで続けるのです。その結果、「非常に良かった。」と言われた最初の人、すなわち神の喜ばれる人本来の姿に変えられてゆくのです。


 そして、「神が聖書を通してこの道を歩みなさい」と言っているのだから、それを生きるときに神は聖霊を通して助けと励ましを与えてくださいます。イエスもいつも神にとりなしておられます。箴言1:33「わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」とあります。罪に従った人生は絶え間ない恐れと不安に苦しみますが、聖書に従った人生は安らぎと喜びの人生となります。


■おわりに

 世界ウィクリフ同盟の発表によれば、2022年10月時点において世界の言語数は7388言語あります。そのうち聖書が翻訳されているのは、旧新約全巻が724言語、新約のみが1617言語、分冊のみ(例えば詩篇のみ、ヨハネの福音書のみ)が1248言語となっています。また、約21億人の人々が話す6664言語には、まだ聖書全巻が訳されていない状況です。幸い日本では旧新約全巻を複数の翻訳で読めます。ただし、聖書を手にしたことがない人が大多数です。


 「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(Ⅰテモテ2:4)」とあるように、神は人が滅びから救われ永遠のいのちを得る方法を聖書という形で私たちに教えてくださいました。それは神が私たちを愛し、誰一人滅んで欲しくないからです。


 その一方、「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)」とパウロが言うように、キリストのことばである聖書をすべての人に届けるのは私たちの役割です。私たちは「聖書は神からの愛の手紙」このことをすでに知って、信じて、従っていて、それゆえ神からイエスを通して不思議な平安を得ています。聖書のすばらしさをすでに知っている私たちだからこそ、みことばを伝えることができるのです。


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