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木村太

4月16日「尊いことに使われる器」(テモテの手紙 第二 2章19-26節)

■はじめに

 私たちが「神様の喜びになりたい/神様のお役に立ちたい」と思うのは、自分がほめられるためではありません。神が我が子イエスを犠牲にしてまでも、私たちを滅びから永遠のいのちに救ってくださったから、神様に応えたいのです。ただし、パウロやペテロのように、人が驚くような活躍をだれでもできるとは限りません。むしろ、自分は口べたでうまく聖書を語れないとか、家族にもイエスを余り伝えていないというときに「私は神のためになっているんだろうか」と不安になったり、焦ったり、ときには自己嫌悪に陥ることがあります。そこで今日は、私たち全員が神の役に立つ器になれることを聖書に聞きましょう。


■本論

Ⅰ.神の役に立つ者となるための原則は悪から徹底的に手を引くことである(2:19-21)

 テモテの手紙を見ると、教会の平和を脅かしたり、個人の信仰を揺るがすような俗悪なむだ話が教会にある、パウロは語っています。しかし、教会は真理という土台がしっかり据えられているから大丈夫だ、とテモテを励しています(Ⅰテモテ3:15)。なぜなら、教会の土台には「神は本当に自分に属する者を知っている」と書かれているからです(19節)。つまり教会は神を信頼し従う者の集まりであり、たとえクリスチャンであっても神は真理を否定する者や神に反する者を取り除く、と神ご自身が定めているからです。旧約聖書を見ると、神の民イスラエルも神に背いたらその集団から断たれました。それゆえ、主をほめたたえる者は不義を離れる、すなわち神に背くのをやめなければなりません(19節)。「主よ、主よ」と神をほめたたえながら悪をするのは形式的な信仰であり、神を侮り、恐れておらず、真心から神に感謝していないのです。


 そこでパウロは不義を離れた者とはどんな者なのかを説明します。パウロは教会のメンバーを家にある食器にたとえて、それらは2種類に分けられると言います(20節)。当時、裕福で大きな家には、陶器や木でできた食器の他に金や銀の食器がありました。金や銀のものは大事な来客とか祭儀のような特別な時に使われ、持っている人の誉れとなりました。一方、陶器や木の器は普段使いで名誉につながりません。このようにパウロは教会にも尊い器すなわち神の誉れとなる役に立つと人と、卑しい器すなわち神の誉れにつながらない人があると言うのです。


 ここで大事なのは、「だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら(21節)」とあるように、自分の意志で徹底的に罪から離れ、神と同じ聖さや正しさ実践している者を、神は尊い器・神の役に立つ器と認めていることです。言い換えれば、神の栄光につながっているかどうかを神は見ているのです。ですから、その人の立場とか働きの種類によって尊い器になるのではありません。例えば、牧師という立場であっても神をおとしめるような振る舞いをしていたら卑しい器であり、一方で直接的な伝道ができなくても神に向かう姿が誰かの励ましになっていたら、その人は尊い器になるのです。


 パウロが「だれでもこれらのことから離れて...その人は尊いことに用いられる器となります。」と言うように、私たちは全員イエスに結びついているから神の役に立つ尊い器になれます。ただしそうなれるかどうかは、罪の誘惑を断ち、神に従っているかどうかにかかっています。これは自動的ではなくて自らの意志を働かせなければなりません。ですから冒頭に申しましたように、神がどれほど私を大切にしてくださっているのかを、わかることが肝心なのです。


Ⅱ.パウロは役に立つ者となるための具体的な方法を示した(2:22-26)

 パウロは「自分自身をきよめるなら、尊いことに用いられる器となる」と原理を明らかにした上で、そのようになる方法を22-26節にかけて具体的に示します。ここでパウロは「避ける・~してはいけない」のように消極的な行動と「追い求める・教え導く」のように積極的な行動を教えます。


(1) 消極的な行動:思慮分別のない欲望と争いを避ける(2:22前半-23節,24節前半)

 若いときの情欲というのは不品行を生み出す性的な欲望に加えて、物事を白黒つけて人の上に立ちたがる、そのような性質を言います。よく血気盛んな頃と言いますが、若者にありがちな高圧的、短気、感情的で思慮分別のない議論をしてはなりません。なぜなら、神は平和と秩序の神だからです。ですから、教会でたくさんの働きを担っていても、感情的にことばを発し、人の上に立ちたがり、人を見下すような人は尊い器とは言えません。


(2) 積極的な行動:平和を目指し柔和を伴って正しい道に教え導く(2:22後半,24-25節)

 尊い器の者は自分と同じようにきよさを目指している人と一緒に義、信仰(忠実)、愛、平和といった神の性質を実現しようとします。ただし、義と信仰は自分一人で実現できますが、愛と平和は人との関わりの中でなされます。教会には「きよい心で主を呼び求める人たち」だけが集ってはいません。イエスのことばや事実を否定し真実から外れている人もいます。あるいは神冒涜までには至らなくても、人の信仰を弱める俗悪な無駄話に囚われている人もいます。そのような人たちにも争いを避けながら愛と平和を実現しなければなりません。


 そこでパウロはそういった人たちへの対処方法をテモテに示します(24節-25節前半)。

・優しく柔和:思いやりを持ちながら穏やかに

・よく忍耐:辛抱強く怒りっぽくなく相手の悪を耐える

・教え導く:神のことばをそのまま伝え、正しいあり方に導く。恐怖や威圧で導くのではない。


 そしてパウロはもう一つ大事なことを言っています。人は平和の内に柔和を伴って正しい道を教えるだけでよく、その先は神に委ねるのです。と言うのも、19節で扱ったように「主はご自分に属する者を知っておられる。」お方ですから、悪魔に捕らえられて神に背き神の栄光を妨げている者を神ご自身が変えてくださるからです(26節)。


 もし、自分の力で人を正しい道に戻したとしたら、「私がやったんだ」と傲慢で高ぶってしまうでしょう。せっかく尊い器として生きていたのに、とたんに卑しい器になってしまうのです。神の役に立つ尊い器の者は自分のすべき事を忠実に尽くし、その先は神に委ねることができます。見方を変えれば、「忠実な働きに対して神がわざをなしてくださる」と信じられるから、優しく柔和で忍耐しながら教えることができるのです。


 イエスは律法学者やパリサイ人に論争を持ちかけられましたが、争わないで神のことばで応じました。イエスにとって不可能は一つも無いから、不思議なわざによって彼らを恐怖で震え上がらせて従わせることもできるのです。でも、イエスはしませんでした。なぜなら、人が罪に気づき、悔い改めて信仰を持つのは神の領域だからです。パウロもイエスと同じです。「彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。(使徒21:19)」と証言しているように、尊い器の者はどこまでも神に忠実で、自分の役割をわきまえ、そして神に全幅の信頼を置いています。自分自身をきよくし、自分自身を神に従わせることが神の役に立ち神の喜びとなる絶対条件なのです。


■おわりに

 パウロは尊いことに使われる器となるために「~避けなさい/~してはなりません/~しなさい」と命じています。明らかなようにパウロは忠実を求めているのであって、「結果を出せ」とは言っていません。イエスも律法全体を二つの戒めで表しました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:37,39)」イエスも結果を求めてはいません。


 私たちが生きている社会では、役に立っているかどうかを成果で判断しています。そのような価値観が知らず知らずの内に教会にも入り込んでいます。「あの教会では毎年何人も洗礼を授けているから神の役に立っている/あの人は何人も教会に連れてくるから神の役に立っている」そんな風に判断してしまいます。でも神の判断はそうではありません。イエスもパウロも私たちに求めているのはただ神を信じ従う忠実さだけです。これは聖書全体を貫く真実です。だから、「だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。」と言えるのです。教会に集う子どももご高齢の方も、健康な人も病にある人も、特技がある人もない人も、だれ一人例外なく尊い器になることができるのです。

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