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木村太

5月28日「聖霊の導き」(使徒の働き16章1-15節)

更新日:2023年5月28日

■はじめに

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。こんにち、キリスト教会とクリスチャンは全世界に広がっています。これらは、キリストの弟子たちに聖霊が下ったことから始まりました(使徒1:8)。それで、キリスト教では聖霊が下った出来事を記念してお祝いするのです。また、弟子たちに聖霊が下ったのは、キリストのよみがえりから50日目でした。「50番目」をギリシャ語では「ペンテコステ」と呼ぶので、聖霊降臨日をペンテコステと言うのです。


 平野耕一牧師は著書「よくわかる聖霊論」で「御霊がクリスチャンに与える祝福」として11の祝福を挙げています。「とりなす/導く/教える/あかしする力を強める/神の愛を注ぐ/内なる人を強める/クリスチャンに真理を啓示する/救いの確信を与える/自由を与える/(語るべき)ことばを与える」このように助け主とも呼ばれる聖霊は私たちに対して様々に働いておられます。そこで今日は「導き」という聖霊の働きについて聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.聖霊は神のみこころとは違う方向へ進ませない(16:1-8)

 使徒の働き15:36-18:22には、パウロの第2回伝道旅行が記されています。この伝道旅行は初めてギリシャに福音を伝えた旅行で、ヨーロッパ宣教の始まりであり、さらには世界宣教につながる旅行です。しかし、最初からギリシャを目指していたのではありません。


 使徒の働き15:36を見ると、パウロは1回目の旅行で福音を伝えた町がその後どうなっているのかを見るために再び旅に出ました。加えて「町々を巡り、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を、守るべきもの(4節)」とあるように、エルサレム会議での決定事項を教会に知らせる目的もありました。ですから、デルベ、リステラ、イコニオンなど前回宣教した町を再び訪ねたのです。ですから、まだ福音が伝えられていないギリシヤはこの旅行の目的には入っていません。


 パウロ、シラスたち一行はエルサレムを出発してアンテオケを通り、デルベ、リステラに行きました(1節)。またリステラでテモテを見いだし、彼を同行させて旅を続けました(2節)。そして5節には、パウロたちの働きが実を結んでいる様子が記されています。そこに聖霊が介入してきます。


 6節「禁じられる」は「妨げられる」とも訳されます。つまり、パウロたち一行はアジアで当初の目的を果たそうとしていたのに、それを聖霊が妨げたのです。聖霊が幻か夢かどのような形で語りかけたのかはわかりませんけれども、6節「彼ら」とあるように、全員が聖霊の介入を認めました。ただ、なぜ良い働きが順調にできていたのにアジアでは禁じられたのか、その理由はまだわかっていません。


 それで彼らは南方面には行けないので、フルギヤ地方を通り、ミシア地方に面した北方のビティニア地方での伝道を試みました。しかしここでもキリストが聖霊を通して許可しなかったのです。南にも北にも行けないので、彼らは西に進んでトロアスという海に面した町に滞在しました(8節)。彼らは、なぜ聖霊がこうも行く手を阻むのか、この時点ではわかっていませんでした。


 パウロたちのように「誰から見ても神の栄光を知らせるすばらしい働きなのに、突然中断に追い込まれる時」が私たちにもあります。「順調だったのに、どうして」と疑うのは当然です。でもそのストップは、それまでの働きが悪かったからではありません。神の計画のために聖霊を通してストップがかかったのです。「今の働きを続けるかどうか」は私たちの判断ですが、神のみこころと違う時には聖霊を通して行く方向が導かれるのです。


Ⅱ.人は聖霊の働きを通して神のみこころを知ることができる(16:9-10)

 トロアス滞在中のある夜、聖霊は幻というかたちでパウロに語りました(9節)。その内容は「マケドニア地方の自分たちを是非助けてほしい」というものでした。驚くことに、一行はパウロの幻を聞いてすぐにマケドニアに行こうと決めました(10節)。自分たちの当初の目的はアジアで、かつマケドニアにはまだだれも宣教に行ったことがないのにです。


 彼らがマケドニア行きを決断した理由が10節「神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」にあります。ここでの「確信した」は「結びついた」の意味があります。つまり彼らは、これまでの聖霊の働きと幻の内容が結びついて、神のご計画をはっきりわかったのです。「アジアでの働きが上手く行きそうなのに禁止された。マケドニアとは違うビティニアへ行こうとするのも禁止された。これはすべて私たちがマケドニアで福音を伝えるための神の計画だ。」と全員が確信したのです。それで、パウロたちは当初の目的を脇に置いて、神のみこころであるマケドニア宣教に進みました。


 神は聖霊を通して私たちに神のご計画を知らせます。ただし、パウロたちがどうして行く先が禁止されるのかわからなかったように、私たちにもなぜ中断せざるを得ないのか、なぜこの方向しか道が開かれていないのか、のように神のみこころが全くわからないときがあります。でも、パズルのピースが組み上がるように、様々な状況がぴたっと結びついて神のみこころがわかるときが必ず来ます。それも一人だけではなく関係者全員がです。どんな状況に置かれたとしても、そこに神のご計画があることを忘れてはなりません。


Ⅲ.聖霊が導いた所で、神は人を通してご自身の力を働かせる(16:11-15)

 パウロたちはトロアスから船でサモトラケを経由してネアポリスに上陸し、そこからピリピに行きました(11節)。ピリピはローマの植民都市であり、軍事的にも交易的にも重要な大都市でした(12節)。住民はローマ人とギリシヤ人が半分ずつで、少数のユダヤ人もいました。しかし彼らはユダヤ教の会堂を建てるほどの人数ではなく、13節のように川岸の「祈り場」で安息日に集会をしていたようです。それでパウロたちも最初の安息日にこの場所に集まった女性たちに福音を話しました(14節)。


 リディアは紫色の布を扱う商人でした。また、「神を敬う人」とあるように、彼女はティアティラという町でユダヤ教を信じ、イスラエルの神を心から崇めていました。その彼女が初めて聞くパウロの語る福音に心を留めていました。ここに神の働きがあります。14節「主は彼女の心を開いて」とあるように、リディアがパウロの語る言葉を注意深く聞くために、主が彼女の心を開いたのです。


 イエスが「目がありながら見えないのか。耳がありながら聞こえないのか。(マルコ8:18)」と語ったように、人は罪を持っているから、神に向けて心を閉ざすものです。神が人の心を開かなければ、福音すなわちキリストの死と復活による救いは受け入れられません。しかも驚くことに、パウロの語ることを心に留めたリディアに加えて彼女の家族もバプテスマを受けました(15節)。「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」とパウロが幻で見た通り、それほどマケドニアのたましいは救いを求めていたのです。


 神が聖霊を通してパウロたちをここに導いたのは、ご自身の力をリディアのようなマケドニアの人々に働かせてパウロたちが語る福音を心に留めさせ、キリストによる救いを得させるためなのです。ここで大事なのは、神は人を通して人を救うということです。神の力をもってすれば、直接マケドニアの人々に驚くような奇蹟とともにことばを与えるのはたやすいことです。けれどもエルサレムからやって来たパウロたちを用いています。つまり、神はご自身の代理として人を用い、その人が何らかの働きをする中でご自身の力を発揮するのです。そのために神は聖霊を遣わすのです。


■おわりに

 パウロは神の働きについてこう語っています。使徒21:19「彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。」神は私たちを通して、ご自身の存在とそのあわれみとを世に示します。そのために神は聖霊を用いて私たちをご自身の目的に向かわせるのです。


 先ほども申しましたように、どうがんばってもその道しか残されないことがあるでしょう。あるいは、どうがんばってもその道だけ行けないこともあるでしょう。そんな時は、聖霊が私たちを神の目的に導いている、ということに気づきましょう。でも、心配はいりません。神のご計画なのですから必ず神の守りがあるのです。そして、聖霊に導かれた先には、必ず神の力が働かれ、人に平安と喜びが与えられるのです。

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