■はじめに
私たちは先が見えないと不安になり、恐ろしくなります。まして死については、亡くなった方の証言が絶対に得られないので、死んだ後の状況は全く分かりません。ですから一層不安になります。加えて、家族や友人など親しかった人たちとも決して会えないから寂しさを覚えます。しかしもし、命の終わった先がどんななのかが分かったら、しかも今までの人生よりも遥かに良いところだとしたら、安心できるのではないでしょうか。今日は、私たちの行く先が用意されていることをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスを信じ続ければ、うろたえない(14:1)
14章1節に先立ってイエスは弟子たちにこう語りました。「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。(ヨハネ13:33)」イエスは「もう少しの間は一緒にいるけれども、その後は誰もついて来れない所に行く」と言います。ただし「ユダヤ人たちに言ったように」とあるように、イエスはこれ以前にも同じことを語っていて、そこでは「わたしを遣わされた方のもとに行きます。(7:33)」と行き先を明らかにしています。イエスはご自身を遣わした父のところに行くから、あなた方は探しても見つからないし、来ることはできない、と言うのです(7:33-34)。
それでイエスは弟子たちを気遣ってこう言われました。14:1「「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」「心を騒がす」とは「動揺する/うろたえる」という意味ですから、イエスはご自分が十字架で死んでよみがえり天に上げられた後、弟子たちが不安になり、うろたえるのを分かっていたのです。でも、弟子たちの動揺は当然でしょう。約3年の間、彼らを指導し、困難の際には不思議な力で彼らを助けたのですから、不安にならないはずはありません。
ここでイエスは「心を騒がせるな」に加えて「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と命じています。ユダヤ人が良く知っているように、カナンを目前にして神はモーセを通してイスラエルの民に語りました。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」不安を取り除くためには神を信じればよいのですが、イエスは「またわたしを信じなさい。」を加えています。なぜなら、去って行くことが弟子たちの平安と希望になるからです。あたかも、災害で命の危機に直面した時、リーダーが「大丈夫。必ず助けるから。」といって出てゆくようなものです。
この時点では、「イエスによって滅びから永遠のいのちに救われること、そして聖霊という助け主が与えられること、言い換えれば目に見えないけれども今までと同じようにイエスが一緒にいること」これを弟子たちは分かっていません。しかしイエスはすべて知っています。目に見える形でイエスがいなくても希望と平安が与えられるから、イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と命じるのです。現代を生きる私たちもイエスを目の当たりにできませんから、この命令は私たちにも大事な命令です。
Ⅱ.イエスは私たちの場所を備えるために天に上げられた(14:2)
先ほども申しましたように、すでにイエスは「わたしを遣わされた方のもとに行きます。」とユダヤ人に語りました。おそらく弟子たちも聞いていたと思いますが、イエスは弟子たちにだけこのことの解説、すなわち「どこに、何のために」を語ります。
まずイエスは父の家という行き先を明らかにします(2節)。「わたしの父の家」とは父なる神、天地万物を創造した神の住んでいる場所、すなわち天の御国とも神の国とも呼ばれる場所です。そしてここは永遠のいのちのある場所でもあります。福音書の中で、裕福な人が永遠のいのちを得る方法をイエスに尋ねる場面があります。この中でイエスは「永遠のいのちを得ること」を「神の国に入ること」に置き換えています(マルコ10:17/23)。ですから、父の家(天の御国)では永遠に住むことができます。
次にイエスは「あなたがたのために場所を用意しに行く(2節)/わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら(3節)」とあるように、天にある父の家に行く目的を明らかにします。「住む所」は一人が滞在する場所」を意味しますから、一人一人が安心して生活できる場があるのです。
その上で「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(3節)」とイエスは言います。天の御国では父なる神だけでなく、イエスも一緒に永遠に生活します。弟子たちも私たちも、この世ではイエスを直接見たり会話したり触れたりできません。しかし、それは限られた時間です。天での永遠に比べたらほんの僅かな時間と言えます。ですから、イエスは弟子たちを見捨てたのではないのです。父のおられる家で再び彼らと一緒となるために、一時的にいなくなるのです。
イエスは、ご自身を信じる者が永遠のいのちを得て、永遠に留まる住まいを用意するために、よみがえったのち、父のいる天に上げられました(使徒1:9)。天の御国にはもう入るばかりの住まいが私たちに用意されています。しかも、へブル人へ手紙で「天に登録されている長子(へブル12:23)」とあるように、神の子である私たちはすでに天の住まいが登録されています。イエスを介して神が登録しているのですから、間違いなく天に入れます。
使徒ヨハネは天のことを「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(黙示録21:4)」と黙示録で証言しています。完全なる安らぎと喜びが永遠に続く場所が、私たちに備えられています。そこに私たちは必ず入れます。この事実がこの世を生きる私たちの希望と忍耐になるのです。
Ⅲ.イエスは私たちを迎えに来て、父の家で共に生きてくださる(14:3)
さて、イエスはどうすれば父の家に入れるのかも明らかにしています。もう一度3節を見ましょう。「あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(3節)」とあるように、弟子たちも含めてイエスを信じる者が天に入る時と方法はイエス、すなわち彼を遣わす神にあります。
・時:「また来て」とあるように、イエスが再びこの世にやって来る時、いわゆる再臨が天に入る時です。言い換えれば、今はまだイエスが天で場所を用意している最中と言えます。
・方法:「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」ここでの「迎える」には「引き取る、つれて行く」の意味がありますから、イエスが信じる者を自らの手で父の家に連れてゆきます。
つまり、イエスを救い主と信じる私たちはイエスを信じながら、イエスが来るのを待つのみでいいのです。「何か良いことを一生懸命しなければならない」とか「何らかの修行をしなければならない」といった「天に入るための行い」はいらないのです。私たちに必要なのはイエスを救い主と信じる信仰のみです。だからすべての人が天の御国という救いにあずかることができるのです。
「神とイエスとともに神の国に住む」これは空想や夢物語ではありません。必ず実現することです。そして、クリスチャン一人一人に約束されていることです。神との約束が絶対に守られるからこそ、私たちは望みを失うことがありません。
■おわりに
現代の私たちも心を騒がせる出来事の中に生きています。信仰を持っていても病になります。自然災害や事故に遭います。勤め先が危うくなることもあります。いくら祈っても、聖い生活をしても、自分を取り巻く状況がまったく良くならない、それどころかますます悪くなる時もあります。そして例外なく全員が命の終わりを迎えます。
目に見える物事だけに目を向けていると、私たちの心は乱高下するのみです。しかも死に対しては回避できないことから希望は生まれません。そのような世の中において「天の御国が備えられていること/イエスを信じる者がすべて天の御国に必ず入ること/天の御国で神とイエスとともに永遠に生きること」この約束が私たちに与えられていること自体が何よりの恵みです。人生という海の上で私たちは大波に翻弄されます。けれども、天の御国という港に必ず入ることが神によって保障されているから、動じることなく日々の生活を送れるのです。これが神のあわれみです。
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