■はじめに
今の日本では、凶悪な事件があったときに「こんな人とか国はいらない/消えてしまえばいいのに」といった反応が少なからずあります。そこまでは行かなくても、「キモイとかウザイ」という言葉で存在を否定するのが当たり前のようになっています。「自分や世間の基準に合わない人間は排除する」といった感覚が社会全体を覆っているように思います。では、神は人をどんな風に見ているのでしょうか。今日は、神にとって人はどんな存在なのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.神の目にはすべての人がかけがえのない存在である(イザヤ43:4)
本論に入る前に、今日扱うイザヤ書とエゼキエル書について簡単に触れます。両方とも、南王国ユダのイスラエル民族に対して神が語ったことばが記されています。そして、神に背き続ければ王国は滅びるという警告とやがて救い主が現れて神の国が建てられるという復活の約束が語られています。ただし、イザヤ書は王国がまだ滅びる前ですので「背信への警告」に重きが置かれ、一方、エゼキエル書は王国が滅んでバビロン捕囚の最中ですので「神に立ち返る命令」に重きが置かれています。神の恵みを味わっていながら神に背いているという点では、すべての人がイスラエル民族と同じなので、この書を今日の人々に適用できるのです。まず、神が人をどのように見ているのかを見てゆきましょう。
イザヤ書43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
イスラエル民族は出エジプトをはじめとして、神の不思議なわざによっていつも助けられてきました。けれども、彼らは自分たちの神に背いて、カナンのバアル神のような異教の神々を崇め続けました。預言者から繰り返し警告を受けていてもです。それで神は彼らに罰を与え、それの最後がバビロニアによる王国滅亡と捕囚なのです。
そんな彼らを神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言います。高価と尊いは同じ意味に思えますが違いがあります。
・高価:貴重、すばらしい、たいへん価値がある→神の評価
・尊い:重要、誉れ、栄光→神との関係
私たちは自分に反抗する人、言うことを聞かない人、敵対する人、自分と関係ない人、自分の益にならない人、そんなふうに自分のものさしで「価値がある/ない」「重んじる/軽んじる」を定めます。しかし神は、たとえご自身に背き続けていても高価で尊い存在とみているのです。神にとってはすべての人が大切で、かけがえのない存在なのです。
神は「高価で尊い」の直後に「わたしはあなたを愛している。」と言います。これは「高価で尊い」が愛する理由という意味ではありません。「人を愛することはまさに高価で尊いと見ること」なのです。イエスは当時、一人の人間として扱われていなかった女性や子供を重んじました。また、罪びととか汚れた人と呼ばれ人々から見捨てられていた人を、分け隔てることなく接しました。これが、人を高価で尊い存在として受け取っている姿です。
それで神はイスラエル民族を助けるために「わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」と約束します。これは直前の3節からすると、イスラエルのためにクシュ(エチオピア)や「セバ(紅海を挟んでエチオピアの対岸)」を犠牲にしてバビロニアから解放することを指しています。このことは、後のイエスを犠牲にした人の救いにつながっています。愛すなわち「高価で尊い」は、心の思いに留まるのではなく、行動を伴うのです。
万物の創造において、神は人を良い存在として造りました。しかし、最初の人アダムに罪が入って以来、人は神に背いて神に敵対する存在になりました。それゆえ、人は苦しみとむなしさの人生を歩んだのちに、罪の罰である永遠の滅びに向かいます。神からすればこれは当然のことです。けれども、神はそんな人をかけがえのない存在として見てくださっています。そして、愛するがゆえに何とかして助けるために、人の罰をイエスに追わせました。それがイエスの十字架刑です。「わたしはあなたを愛している。」このことばを実践したのです。
Ⅱ.神はご自身に背く者であっても滅ぶのを喜ばず、神に従って生きることを喜ぶ(エゼキエル18:23)
神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言いました。しかし、罪を犯したままでいい、とは言っていません。預言者を遣わして繰り返し警告しているように、人本来の姿に戻って欲しいのです。それがこのことばに現れています。
エゼキエル書18章23節
わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。
「悪しき者」とは神を認めない者、神を信じない者を指しています。「神に従えば祝福、背けばのろい」という約束に基づけば、悪しき者が死んで永遠の滅びに行くのは当然です。しかし、神は「死を喜ぶだろうか」と言います。へブル文学の表現において「~だろうか」は「いえ、そうではない」を強める言い方です。ですから神は、悪しき者が死ぬのを決して喜んではいないのです。もっと言うならば、神に背く者が苦しんで死に、永遠に滅ぶことを楽しみにしていないのです。
では神は何を喜ぶのでしょうか。それが後半の部分です。ここにも「生きることを喜ばないだろうか。」とあります。これも「いや、生きることを喜ぶ」を強調しています。神はたとえ悪しき者であっても生きることを喜ぶのです。ただし、それには条件があります。「彼がその生き方から立ち返って」とあるように、これまで神に背いてきた生き方から神に向きを変えて生きるのを神は喜ぶのです。リビングバイブルではこう訳されています。「わたしは、彼が悪の道から足を洗い、まともに生きるようになることしか願っていない。」神は完全に正しいお方ですから、悪しき者をそのままにして罪を見逃したり、赦すことは決してありません。けれども、たとえ悪しき者でも死ぬのを喜びません。神にとっては悪しき者でも「高価で尊い」のです。だから死ではなく、神に向きを変えて生きることを求め、そうなるのを喜ぶのです。人本来のあり方に戻ることを神は喜ぶのです。そしてそれが、人の安心になるからです。
神は背き続けたイスラエルの民に、国の滅亡とバビロンへの捕囚という罰を与えました。しかし、神は彼らがアブラハムやモーセ、ダビデのように神に従って生きることを望んでいます。決して死ぬのを望んではいません。それゆえ、神は神に背いている私たちが永遠の滅びに行くのを決して喜んではいません。そうではなくて、罪から神に向きを変えて、神に従った祝福の道を歩むのを望んでいます。そのように生きる姿を神は喜ぶのです。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル18:32)」これが神のみこころです。
■おわりに
神は悪しき者でも立ち返って生きることを喜びます。ただし、犯した罪をそのままにはできません。もしそうしたら神は正しいお方ではなくなってしまいます。罪に対しては罰があり、罰を免れるためには何らかの赦しの手段が必要なのです。それで、神は一人一人が犯した数えきれない罪を赦すために、我が子イエスをいけにえとして捧げました。それが十字架刑での死です。
しかし、考えてみてください。神は罪ある者を「高価で尊い」と言います。であれば、罪のない御子イエスはどれほど高価で尊いのでしょうか。また神は、罪ある者が死ぬのを喜ばず、立ち返って生きるのを喜びます。であれば罪のない御子イエスが生きているのはどれほど喜びになるでしょうか。
けれども神はそのイエスを私たちを滅びから救うために死なせました。神は悪者でさえも死ぬのを喜ばないのですから、イエスをいけにえとして犠牲にするのはどれほどの苦しみなのか私たちには思いも及びません。これが私たちを「高価で尊い」と見てくださる神の愛なのです。イエスの十字架こそが私たちを愛している証拠なのです。この愛を使徒ヨハネは語っています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」
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