top of page

9月29日 召天者記念礼拝「悲しみに沈みこむことはありません」(Ⅰテサロニケ4:13-18)

  • 木村太
  • 2019年9月29日
  • 読了時間: 6分

  私がこの働きに就いてから親しかった牧師・宣教師7名が天に召されました。どの先生も尊敬し敬愛する教職者です。もうこの地上で話をしたり、会うことはできません。死はこの地上世界での交わりを完全に絶つから、深く長い悲しみをもたらします。しかし私たちは、死はすべての終わりではなく、復活と天での再会につながっていることを知っているから、死に対して絶望を抱きません。そこで今日は、クリスチャンの死について聖書に聞きます。


Ⅰ.キリストのことばどおり、神はキリストを死からよみがえらせて天に迎えたように、再臨前に死んだクリスチャンもそのようになる(4:13-15)

  本論に入る前に、パウロがこの内容を書いた背景を説明します。パウロはテサロニケのクリスチャンにキリストの再臨について語ってきました(2:19,3:13など)。しかし、パウロがテサロニケを去った後、キリストの再臨より前に死んだ仲間はいったいどうなるのか、という疑問が起こり、教会に混乱と不安が広がりました。2:19によれば、キリストが再び来たとき、生きているクリスチャンは誉れを受けます。けれども、先に死んだ者たちもはたして受けるのだろうか、もしそうでないとしたら、自分も死んだらどうなるのだろうか、という疑問と不安です。そこでパウロは手紙で答えました。

  13節「眠っている人々」の「眠る」は人の死を遠回しに言うことばで、残された方々に配慮した言い方です。日本でも死を「永眠/とわの眠り」と言いますね。パウロが「眠っている人々」を「イエスにあって眠った人たち(14節)/キリストにある死者(16節)」と呼んでいるように、「眠っている人々」はキリストを救い主と信じ、キリストに結ばれたクリスチャンを指しています。ただし、パウロはクリスチャンの死を永眠ではなく、あたかも睡眠のようだと理解しているので「眠っている」を用いています。なぜなら、たとえ肉体は朽ち果てたとしても、ちょうど眠っている人が起きあがるように必ずよみがえるからです。

  それでパウロは、「眠っている人々」すなわちクリスチャンの死について正しく理解しなさい、と語るのです。その理由は、死を正しく理解していない人たちのように、死が絶望をもたらして、心が痛み苦しむほどに悲しまないためです。確かに、死はこの地上でのあらゆる関係を断絶するから、すべての人は長い間深く悲しみます。けれども、クリスチャンはそこに留まらずに希望を持つことができる、とパウロは言いたいのです。

  そこでパウロはクリスチャンの死をこう言います(14節)。キリストは十字架での死を前にして、自分が宗教指導者に逮捕され、死刑にされ、3日後によみがえると弟子たちに語りました。そして、そのことばどおりになりました。それゆえ、キリストのことばどおりに神はクリスチャンを死からよみがえらせて、天に迎え入れるのです。なぜならキリストはこう語っているからです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)。」つまり、すべてはキリストのことばどおりになるから、たとえキリストの再臨前に死んだとしても、その人々は必ずキリストと同じようによみがえって、天の御国に入るのです。

  キリストのことばに誤りは全くありません。だから、キリストを信じる者全員がよみがえって天の御国に入り、永遠の安らぎと喜びを受け取ります。ここに、私たちの安心があるから、私たちは死を深く悲しむけれども絶望とはならないのです。


Ⅱ.キリストに結ばれた死者は再臨においてよみがえり、永遠にキリストと一緒になる(4:16-18)

  続けてパウロは、キリストが再び来られた時に、クリスチャンがどのようによみがえるのかを語ります(15-17節)。真実なキリストのことばにもとづくなら、キリストの再臨において先に死んだ方々は後回しになりません。ただし、「そしてまず/それから」とあるように、よみがえりには順番があります。

  聖書の中で「ラッパの響き」は神の働きが始まる合図です。神の国の到来は「号令/御使いのかしらの声/神のラッパ」という合図から始まり、直ちに主キリストが天から下って来ます。これが再臨です。次に、キリストにある死者すなわち再臨前に死んだ方々がキリストのよみがえりと同じように、地上の肉体とは全く異なる朽ちないからだでよみがえります。それに続いて、再臨の時に生きているクリスチャンが、彼らと一緒に天に向かって運ばれて、神のおられる雲の中で、キリストを出迎えます。このときすでに、地上で生きていた者たちも朽ちないからだとなっています。

  17節「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあるように、キリストとともに生きることはクリスチャンにとって最も大きな喜びです。これまでは目に見えない存在として、あるいは聖書のことばとしてキリストは私たちとともにいました。しかし、天の御国においては、目に見え、触ることができ、声を直に耳で聞くのです。だからパウロはこう語りました。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)」パウロをはじめ、クリスチャンは父なる神と救い主キリストにお会いできるのを待ち望んでいます。そしてそのことは必ず実現します。やがて神とキリストそしてすでに召された方々と一緒に永遠に生きられるから、私たちは人生の終わりにおいても希望があるのです。

  ところで、再臨前に眠った者たちはどこにいるのでしょうか。このことは聖書には明確に記されていません。ただし、キリストは次のように手がかりを与えています。キリストと一緒に十字架につけられた犯罪人は神を恐れ、キリストを信じました。その彼に向かってキリストは「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)」と語りました。パラダイスとは、天地創造におけるエデンの園のように平安と喜びに満ちた場所です。ですから、キリストの再臨前に死んだ方々は完全な平安と喜びと満たしの中におり、その後、よみがえって、キリストとともに生きるのです。だから「天国に行くまでどうなるのか。」という不安はありません。

  

  パウロは悲しみに沈みこまないために、眠った人々について語りました。同時にパウロは「これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(18節)」と勧めます。私たち一人一人はキリストのことばによって励まされ、慰められます。でもそれ以上に必要なのは、キリストのことば、すなわち聖書のことばに基づいた互いの慰めと励ましなのです。もちろん、むやみに聖書を持ち出すのではなく、「泣く者と一緒に泣きなさい(ローマ12:15)」とあるように、悲しむ者の心に寄り添うことが大前提です。教会で催される葬儀や記念会においても、互いに慰め合うことが中心となります。死に直面しても私たちは一人ではありません。キリストがともにいてくださり、そして互いに慰め合う神の家族がいます。そして天の御国での再会という希望があります。これが悲しみに沈み込んだ心に立ち上がる力となるのです。

最新記事

すべて表示
4月13日受難礼拝「しもべは私たちの罪を担った」(イザヤ書53章1-12節)

■はじめに  ユダヤ人イエスは私たちと同じように人間の女性であるマリアから産まれました。ただし、受胎は私たちとまったく違い、聖霊によって受胎しました。これが、「イエスが神の子であり、まったく罪がない人」の根拠です。けれどもイエスは重罪人として十字架刑で死にました。神は「従え...

 
 
3月30日「新しい人を着る」(コロサイ人への手紙3章12-17節)

■はじめに  イエス・キリストは宗教指導者ニコデモに「神の国に入るためには新生(新しく生まれること)が必要だ」と教えました。それは、キリストを救い主と信じた者がキリストと結びついて、内面がまったく新しくなることを言います。具体的に言うなら、罪に囚われていた歩みから神に囚われ...

 
 
3月16日「へりくだって神とともに歩む」(ミカ書6章1-8節)

■はじめに  キリストを救い主と信じて永遠の滅びから永遠の命に救われた者は全員、神のために生きています。神のためとは「神の存在と神の恵みを世の中に知らせる」あるいは「神の喜びとなるように」といったことです。ところが一生懸命のあまり、私たちは神のためと言いながら、自分のために...

 
 

Comments


bottom of page