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木村太

10月10日「わたしが去った後のこと」(ヨハネの福音書16章16-33節

■はじめに

 私たちは将来を知ることができません。法則性のある現象であれば予測できますが、それ以外は次の瞬間に何が起きるのか分かりません。だから困ったことが起きないように注意したり(事故など)、あるいはそれが起きたとしても困らないように備えます(自然災害など)。もし何があっても守ってくれたり、解決してくれる物とか手段を持っていたとしたら、将来のことを気にしないで済むでしょう。今日は、私たちはイエスによって安心があることを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.イエスは死んでよみがえった後、天の御国で父とともにおられるから、私たちはイエスを通して神に直接願うことができる(16:16-24)

 イエスは弟子たちに聖霊の助けについて語り、彼らがご自身に代わって罪・義・さばきを世の中に明らかにすると伝えました。そしてここからは弟子たちの人生について語ります(16-17節)。


 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」は十字架での死と埋葬のことであり、「またしばらくすると、わたしを見ます。」はよみがえりと再会のことを言っています。イエスは出来事そのものよりも弟子たちがどうなるのかに焦点を当てています。一方弟子たちは、「どういうことなのだろうか。」とあるように出来事そのものを知りたがっています。つまり、イエスにとっては「何が起きるのか」よりも「起きた時にどうなるのか/どうするのか」が大事なのです。


 イエスは弟子たちの様子を見てこう言います(20-21節)。ここでもイエスは出来事ではなくて弟子たちがどうなるのかを語っています。福音書をご存じの方はおわかりだと思いますが、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。」はイエスの十字架刑であり、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」はイエスのよみがえりと弟子たちとの再会の様子です。


 ここでイエスは、その喜びがどれほど大きいのかを出産にたとえました。「出産の陣痛は激しいけれども、それを脇におけるほど生まれた喜びは大きい」そのように、十字架の嘆きを忘れるほどよみがえったイエスとの再会はうれしいのです。陣痛が喜びのためにあるように、十字架はよみがえりと再会の喜びのためにあるのです。十字架の悲しみは悲しみで終わりません。しかも、22節「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」とあるように、イエスは人とは異なるからだでよみがえったから、だれも滅ぼすことはできません。「わたしはよみがえりです。いのちです。(ヨハネ11:25)」と語ったように、イエスは永遠に生きるお方だから喜びは永遠に続くのです。


 そしてよみがえったイエスとの再会は喜びだけにとどまりません(23-24節)。よみがえったイエスは「もう人ではなくて人の姿を取った神である」ことを世の中に明らかにしています。つまり、人と神とが直接関われることを証明しているのです。これはユダヤ人にとってあり得ない思想です。彼らは神との関係はあくまでも神から人への一方通行と信じていましたから、双方向のやりとりなどあり得ません。ですからイエスを神と信じる者はイエスを介して神と直接対話できる人に変えられたのです。だからどんなことでも自分たちの祈り願いはイエスを仲介して神に届き、神がお聞きになっているという確信を持てます。


 イエスは「何が起きるか」ではなく「それによってあなたはどうなるのか」に焦点を当てます。イエスの十字架は私たちの罪の事実と悲惨さ、さらにイエスの苦しみへの思いを心に湧き上がらせます。でもそれは、よみがえりによって「イエスは今も生きていて共にいてくださるという喜び」、「私たちは死の先に永遠のいのちがあるという喜び」に変えられるのです。と同時に、よみがえったイエスを通して、神は私たちの祈りを聞いていてくださるという安心が与えられます。私たちにとって大事なのは「何が起きるのか」ではなく「何が起きても私と神との関係はイエスによって動かない」ここから目を離さないことです。


Ⅱ.すべてに勝利したイエスがいてくださるから、私たちはどんな苦難にも平安でいられる(16:25-33)

 さて、イエスはこれからのことを続けます(25節)。これまでイエスは弟子たちが理解しやすいように真理をたとえで語りました。けれども、よみがえったイエスと再会し、彼らはイエスが神であるのを確信するから、罪について、救いについて、イエスについて、神についてなどの真理を解説しなくて良いのです。もちろん聖霊も弟子たちにたとえで助言しません。いわば解説なしで神からのことばを理解できるようになるのです。


 だから、26節「あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」とあるように、イエスが弟子たちを見て彼らの必要を神に求める時期は終わりました。弟子の自立と言えます。


 なぜ弟子たちが直接神に願うことができるのか、その理由をイエスはこう説明しています(27節)。よみがえったイエスはご自身を見捨てた弟子たちの前に自ら現れました。それで彼らは神もイエスも自分たちを愛していることを分かり、彼ら自身も神とイエスを愛するのです。これこそが人本来の姿です。罪が入る前、人と神は互いに愛し信頼し合う関係でした。神と人との間に何の障壁もありませんでした。しかし、人に罪が入った結果、人は神に背を向け、神から怒りを受ける者となりました。そこにイエスが遣わされ、人の代わりに神の怒りを受けたのです。このイエスが仲立ちとなって神と人との関係が元通りになるのです。イエスを愛し信じた人は人本来の生き方に変えられてゆきます。そのためにイエスはこの地上に来られ、そして戻りました(28節)。


 イエスのことばを聞いて今度は弟子たちが語ります(29-30節)。「だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。」とは、誰かが願い事を口にしなくてもイエスはご存じである、すなわちイエスはすべてを知っているという彼らの告白です。弟子たちはイエスが今たとえを用いないで語っているので、イエスのことばをそのまま信じたのです。ただし、「イエスは神から遣わされた神の子」と彼らが完全に信じたようではありません。


 イエスは弟子たちが信じているというのを不完全と見ています(31-32節)。なぜなら、「それぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」とあるように、イエスが逮捕された時、全員がイエスを見捨てて逃げるからです。もし、イエスが十字架にかかって死ぬことが神のみこころだと悟っているならば、十字架での死を悲しみつつもその出来事から逃げ出さず受け入れて神を崇めるでしょう。彼らは「イエスは神である」という確信が不完全なので、自分に災難が来るのを恐れて逃げたのです。


 そんな不完全な弟子たちだからイエスはこう勧めます(33節)。以前申しましたように、弟子たちはこれからイエスを信じた故の苦難に合います。それは不安や恐れや気落ちをもたらすのです。けれども聖霊を通してイエスが一緒におられることになるから平安があります。なぜならイエスは世に勝ったからです。この世において人が絶対にくつがえせないこと、それは死です。ところがイエスは確かに死んで確かに葬られた後に、確かによみがえりました。だから世に勝ったのです。人が絶対に変えられない死を支配したから世に勝ちました。


 このお方がともにいるから何事にも恐れず平安を保ち勇気を持てるのです。弟子たちがイエスと共に生活していた時、何があってもイエスがいるから安心となりました。それと同じ人生をよみがえりのイエスによって送れるのです。32節「父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」とイエスが言うように、何があったとしても、すべてに勝利したよみがえりのイエスがいてくださいます。イエスが一緒にいるという事実と信頼が平安をもたらすのです。


■おわりに

 弟子たちはこれから何が起きるのかが気になり心配しています。特にイエスが去って行くことにたいへん悲しんでいます。現代の私たちもこの弟子たちと同じです。例えば、新型コロナウィルス感染の第5波は収まりつつありますが「第6波は来るのか/ワクチンの効果はいつまでか/以前のような生活に戻れるのか」という心配は尽きません。


 私たちはこれから何が起きるのかを予測し、それに対処するという知恵を神から与えられています。ですから平安と喜びのためにその知恵を用いる必要があります。ただ、「これから何が起きるのか」あるいは「今の状況」だけに目を留めていると恐れと不安に包まれます。


 私たちは、よみがえりのイエスが天の父とともにおられる時代に生きています。だから、永遠のいのちという喜びは奪われず、イエスを通して父なる神が私たちの願いを確実に聞いていて、イエスから平安が与えられます。人にとって最も大事なのは、すべてに勝利したイエスがともにいて助けてくださる、この確信を持ち続けることです。

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