■はじめに
私たちは見る、聞くをはじめとして体験した出来事を憶えています。ただし、憶えているのはその出来事だけではありません。その時の気持ちや体の状態、その日の天気など、出来事を取り囲んでいる物事も憶えています。例えば、旅行の写真を見た時に、行った所や食べたものを思い出すのに加えて、「あの頃は忙しかった/あの年は暑かった」というのも思い出します。それとは逆に暑さから「あの年、旅行に行ったよね」と思い出すこともあります。死からよみがえったイエスも、かつて弟子たちが経験した出来事と同じ状況で姿を現します。今日はティベリア湖畔での出来事を通して、イエスは何を弟子たちに伝えたかったのかを見てゆきます。
■本論
Ⅰ.弟子たちは漁を通してイエスの存在に気づいた(21:1-7)
伝統的な解釈によれば、ヨハネは福音書の目的を書いて(20:30-31)この書を閉じようとしました。しかし、まだ書くべきことがあったため21章を書いたとされています。
ガリラヤ湖とも呼ばれるティベリア湖はガリラヤ地方にありました。よみがえったイエスは、「ガリラヤ地方で再会する」という弟子への伝言を女性たちに託しました。それで弟子たちはエルサレムからここに来ていて、11人のうち7名の弟子が一つの場所にいました(1-2節)。おそらく湖に近い場所だと思われます。
ここでペテロが「私は漁に行く」と仲間に告げました(3節)。ペテロはイエスの弟子になる前はティベリア湖での漁師でしたので、当分の食糧を確保するために漁に出ようとしました。元漁師でリーダー格のペテロが申し出たので、他の弟子たちも一緒に漁に行きました。家の中にこもらず外に出たのは、ここがエルサレムから遠く離れているので、少しは安心したからでしょう。
7人の中にはペテロ以外にもゼベタイの子ヤコブとヨハネが漁師でしたし、しかも勝手知ったるティベリア湖なので簡単に捕れるはずでした。けれども、大漁を見込める夜に網を入れても一匹も網に入りませんでした。夜通しの疲れとガッカリ感が目に見えるようです。そこにイエスが現れました(4節)。
イエスは湖の岸辺にいましたが、夜明けで薄暗く、岸から舟まで90mほど離れていたので、弟子たちはイエスだと分かりませんでした。ここでイエスは「子どもたちよ」と愛情を込めて呼びかけ、「食べる魚がありませんね。」と気遣います(5節)。イエスは自分に気づかない弟子たちを責めるのではなくて、彼らの状況を知って思いやるのです。ただし、イエスは前の時のように、自分がイエスであることを明らかにしません。イエスには何らかの目的があるのです。
イエスの問いかけに弟子たちは即座に「ありません」と何も捕れなかったことを伝えます(5節)。それでイエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と指示しました(6節)。驚くことに弟子たちはこのことばにすぐに従いました。プロの漁師たちが見ず知らずの人の言うことを聞くのですから、よほど疲れて途方に暮れていたのでしょう。
ティベリア湖での元漁師たちが漁に最適な夜に一晩中網を入れてもゼロだったのに、イエスのことばどおり網を入れたら、引き上げられないほどの魚が入っていました(6節)。この光景を目にしてヨハネは思い出します。かつてイエスがペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子に招いた時、これと全く同じことが起きました(ルカ5:1-11)。それでヨハネは湖畔に立っている人がイエスだと気づき、ペテロに「主だ」と告げたのです(7節)。イエスが最初に「私だ。」と正体を教えなかったのは、弟子たちに気づかせるためでした。
ヨハネのことばを聞いてペテロはすぐさま上着を着て湖に飛び込みました(7節)。裸に近い格好でしたので上着を着れば良いだけなのに、彼は湖に飛び込んでしまいます。ペテロには「主に顔を合わせられない」という、主を裏切った後ろめたさがあったのでしょう。けれどもイエスは、漁を言い出して何も捕れずに途方に暮れているペテロを放っておかず、大漁という恵みを与えます。イエスが逮捕された後、ペテロは3度否んだことを悔いて激しく泣きました。それを見てイエスはペテロを赦したのです。
収穫ゼロから大漁という出来事を通して、弟子たちはかつて一緒にいたイエスが今も一緒にいることに気づきます。「3年間寝食を共にした時、主は私たちのことをすべて知っていて、私たちを困難から助けてくださった。死からよみがえってもこのお方が私たちと共にいてくださる。」この気づきが弟子たちにとっての平安になるのです。そして、弟子たちの体験を知ることで、現代の私たちも「あのイエスが今も共にいてくださる。」という安心になるのです。
Ⅱ.イエスは漁と食事を通して、ご自身の性質が変わっていないことを弟子たちに示した(21:8-14)
さて、漁を終えてもイエスはその場に留まります。弟子たちは魚でいっぱいの網を舟に上げることができなかったので、そのまま岸辺まで引いて戻って来ました(8節)。着いてみると、食事ができるようにパンとおかずの魚が用意されていました(9節)。ただしイエスは「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と指示します(10節)。これはイエスが少なく用意してしまったのではなく、11節にあるように、イエスの指示によってどれほどたくさん捕れたのかを弟子たちが知るためでした。言い換えれば、このことによってよみがえったイエスも全知全能であることを、弟子たちは分かるのです。
食事の用意ができたので、イエスは弟子たちに言います(12節)。漁の出来事から弟子たちは、3年間一緒だったイエスがここにいると確信しました。けれどもイエスは、彼らの知っているご自身の姿をさらに見せます。イエスはパンを手にとって弟子たちに分け与えました。そして魚も同じようにしました(13節)。この所作は5つのパンと二匹の魚で5000人以上を満腹にした時と同じです。それだけではありません。「食べるものが一つもない上、確保しようとしても全然ダメだった。しかし、イエスによって今は豊かな食事ができる。」これは5000人の食事とまったく同じ光景です。つまり、このイエスのふるまいと先程の漁の出来事から、弟子たちはよみがえったイエスも以前と同じご性質を持っていると分かるのです。
この福音書においてヨハネは、イエスが弟子の前に3度現れた様子を記しました。いずれもイエスには目的がありました。一度目は傷跡を見せて、かつて話していたように3日目によみがえったことを弟子たちに示しました。その上で、聖霊を通してイエスの権威を弟子たちに与え、使徒に任命しました。二度目はトマスが信じる者となるために現れました。また、2回とも戸に鍵がかかっているのに彼らの真ん中に現れましたから、人とは異なる存在であることも明らかにしました。三度目は漁や食事のふるまいを通して、3年間一緒だった時の人格と今の人格が同一であることを弟子たちに示しました。全知全能、弟子たちを助ける優しさといったご性質はよみがえっても変わらない、ということです。一言で言うならば、三度目は外見だけなく中身も変わっていないことを弟子たちに知らせ、彼ら自身がそのことに気づいたのです。「あの主が。どこにでもおられる。」これこそ弟子たちにとって何よりの安心となります。
■おわりに
ティベリア湖での漁そしてパンと魚の食事を通して、弟子たちは十字架前のイエスとよみがえって今目にしているイエスが全く同じであると確信します。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル13:8)」とヘブル人への手紙にあるように、彼らは体験を通してイエスのご性質が決して変わらないことを知りました。だからかつて一緒だったときの安心が、今にもたらされるのです。同時にイエスの全てが真実という確信を持てるのです。しかも、イエスは人とは異なる死なない体になっていますから、イエスによる安心はこれから先もあり続けるのです。弟子たちはこれから使徒として、イエスによる滅びからの救いを世の中に語ってゆきます。その中では、徒労に終わったり、辛い出来事にも遭うでしょう。しかし彼らは「目には見えないけれども、あの主が共にいてくださる。」という安心を持てるのです。
私たちも弟子たちと同じように、主の栄光のためにと思い一生懸命にやっても結果が全然でないときがあります。慣れているから大丈夫と思っても、全然うまくゆかないときがあります。徒労に終わった疲れとむなしさ、あるいは悔しさに包まれるときがあります。そんなときに、ティベリア湖畔での出来事を思い出すのです。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」と優しく声をかけてくださったイエスは今も変わらず私たちとともにおられます。目には見えなくてもイエスが私たちを心配し、最善を用意してくださっています。これが私たちの安心です。
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