■はじめに
私たちは毎日、テレビや新聞、インターネットを通して世界中で何が起きているのかを見聞きし、それを実際のこととして信じています。でも、ほとんどのことがらを自分の目で確かめていません。なぜなら、伝える側が事実を伝えていると信頼しているからです。ですから確かめずに信じるというのは、語っている人や伝えている人を信頼するかどうかにかかっているのです。イエスのことばや約束を信じるのもそれと同じで、イエスそのものを信頼するかどうかにかかっています。今日は、イエスを見ないで信じることについてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスは弟子たちの前に現れて自分がイエスであることを示し、彼らに使徒としての権威を授けた(20:19-23)
前回申しましたように、イエスのよみがえりは4つの福音書すべてで扱われています。ただし、ヨハネだけがよみがえりのイエスの行動を詳しく記しています。内容から察するに、ヨハネはイエスの不思議な能力や罪を赦す権威、人とは異なる存在といった神性を強調したかったのでしょう。
イエスが逮捕され十字架で死んだ後、弟子たちはユダヤ人からの迫害を恐れて息をひそめていました(19節)。ここで、マグダラのマリアから知らせを聞いたペテロともう一人の弟子は、空の墓を確認し、戻ってきて仲間に伝えました。二人の報告を聞いた弟子たちがイエスのよみがえりを信じたかどうかここからは分かりません。ただ確かなのは、ペテロやもう一人の弟子も含めて空の墓は彼らにとって何の安心にもなっていないということです。言い換えれば、イエスのよみがえりをまったく想定していないのです。
そんな中、イエスは戸に鍵がかかっているのに彼らの真ん中に現れて「平安があなたがたにあるように。」と言い、傷跡を彼らに見せました(19-20節)。姿や形は人間のようですが、戸を開けずにいきなり現れたのですから、人間とは違う存在をイエスは明らかにしています。
ルカの福音書によれば、彼らは突然現れたイエスを幽霊だと見なしました(ルカ24:37)。それでイエスは平安を告げ、自分が十字架で死んだイエスである証拠を見せたのです。この時初めて弟子たちは目の前に現れたのがイエスだと分かり、喜びに湧きました(20節)。つまり、弟子たちも「殺されてから、三日後によみがえる。(マルコ10:33)」というイエスのことばを目で確かめるまで信じていなかったのです。ご自身のことばを信じてない弟子たちをイエスは叱らないばかりか、平安があるようにと語り、本人である証拠を見せます。ここにイエスの優しさが表れています。
イエスはことばを続けます。「父がわたしを遣わされたように」とあるように、父なる神は、人が罪の滅びを免れて永遠のいのちを受け取る方法をこの世に伝えるため、イエスを遣わしました(21節)。それと同じように、今度はイエスが弟子たちをこの世界に遣わします。イエスがご自身である証拠を見せたのは、彼らが安心するためだけではなく、「神の権威を持つイエスが派遣する」ということを明らかにするためでした。
ここでイエスはご自身の息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言います(22節)。「聖霊」は「聖い息」の意味でもありますから、まさにイエスの聖い息が弟子たちに吹きかけられたのです。ちょうど神が息を吹き込んで人を造ったように、この聖霊によって弟子たちは神の権威をイエスから授けられ使徒として任命されました。それゆえ23節にあるように、弟子たちはイエスと同じように罪を赦す権威を持っているのです。使徒の働きを見ると、彼らはイエスと同じように病をいやしたり、悪霊を追い出したり、死んだ者をよみがえらせています。これは彼らにイエスの権威が授けられているからなのです。ただし、実際の働きは、真理に目を開かせる聖霊が彼らに下ってからになります(ヨハネ16:13)。
最後の夕食においてイエスは弟子たちのためにこう祈りました。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネ17:18-19)」まさにイエスの祈りは、よみがえったイエスご自身によってその通りとなりました。イエスが天に上った後、この弟子たちがイエスに代わって救いを世の中に伝えてゆきます。イエスにとって彼らは特別な存在だから、まず彼らに姿を現しイエスが真実であることを確信させ、イエスを伝える使徒として送り出すのです。
Ⅱ.イエスはトマスを通して「見ないで信じる者の幸い」を告げ、そのために弟子たちをこの世に遣わす(20:24-31)
イエスが弟子たちによみがえりの姿を現した時、一人だけそこにいませんでした(24節)。それがトマスです。双子という意味のデドモと呼ばれるトマスは、10人の弟子たちが口を揃えて「死からよみがえった主を見た」と言っても、そのことばを信じませんでした(22節)。弟子たちを信用しないのではなく、この世ではあり得ないことだからです。トマスもまたマリアと同じように、イエスは人として死んだと信じているのです。それでトマスは、傷跡を見るだけではなく、釘で開いた穴には指を、槍の刺し傷には手を入れて、現れた人物が本当にイエスかどうか完全に確かめないと信じない、と言いました(25節)。これまでの言動を見ると、トマスは自分に正直であり(14:5)、現実に基づいて考えています(11:16)。ですから、彼は疑い深いというよりも確かな証拠によって判断・行動する人でした。直感的なペテロとは正反対の性格と言えます。
それから八日後、トマスを含めて弟子が全員いる中に、イエスは前回と同じ仕方で彼らに姿を現しました(26節)。そして、あいさつの後トマスにこう言いました(27節)。イエスはトマスが望んでいることをそのまま彼に言います。イエスはトマスがよみがえりを信じず、完全に確かめないと信じられないことを知っていたのです。それゆえ「自分で完全に確かめないと信じない者ではなく、確かめなくても私を信じる者になりなさい。」と言うのです。
このことばを聞いてトマスは「私の主、私の神よ。」とイエスに言います(28節)。トマスは傷跡を見るだけでなく指や手を入れないと信じない、と宣言していました。けれども彼は傷跡を見ただけで「私の主、私の神よ。」と言います。なぜならトマスは、「イエスは私のために来てくださった/イエスに何も言っていないばかりか会ってもいないのに私のすべてをご存じだ」このことをイエスのことばから分かったから「私の主、私の神よ。」と告白するのです。つまり、確かめなければ信じない者から確かめなくても信じる者になったのです。トマスはことばや約束やわざなどイエスそのものを完全に信じる者になりました。
そこでイエスはこう言います(29節)。トマスは自分なりに完全に確かめなくてもイエスのよみがえりを信じました。けれどもそれはよみがえりのイエスを見てことばをかけられたからです。これは他の弟子たちも同じです。ここでイエスは見て信じた弟子たちを叱っているのではありません。「見ないで信じる人たち」と言っているように、「イエスを見たり、声を聞いたり、触ったりできなくてもイエスを信じる者の幸い」を強めるために「見たから信じたのか」と言いました。
弟子たちの姿が示しているように、よみがえったイエスが本人である証拠を見て初めて、彼らは喜びと平安になりました。つまり、見て信じる者は自分で設定した条件をクリアしないと信じられないから、不安と恐れを繰り返すのです。一方、見ないで信じる者は自分の条件にこだわらず、そのままイエスを信じるから、イエスの約束によってどんな状況でも平安や喜び、希望があります。だから幸いなのです。何よりも、最後の審判、永遠の滅び、天の御国、永遠のいのちは将来のことであるとともに、この地上には存在しないので確かめようがありません。しかし、それらを見なくてもそれを語るイエスを信じる者は、天の御国での永遠のいのちを受け取っています。これこそが最高の幸いです。
■おわりに
ペテロやヨハネ、トマスをはじめイエスの弟子たちはイエスと3年間寝食を共にしました。彼らはイエスの逮捕、十字架での死と埋葬を見ました。そして3日目によみがえったイエスと再会し、イエスが天に上るのを見ました。その後、彼らに真理を悟らせる聖霊が下りました。これによって弟子たちは、旧約聖書に記されていることがらとイエスとがぴったりと一致し、イエスは神の子、救い主と確信し、喜びと希望を伴って全世界にイエスを伝えてゆきました。イエスを直接見て、聞いて、触れた彼らだから現実のこととして語ることができるのです。今度は彼らが「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」「見ないで信じる人たちは幸いです。」と語る側になるのです。さらにヨハネは語るだけではなくイエスの事実を書き残しました。30-31節にあるように、彼がこれを書いた目的は、イエスを見ることも聞くことも触れることもできない時代に、「見ないで信じる人たち」が生まれるためです。
そのため、こんにち私たちは聖書によってイエスを知り、「イエスを見たり、声を聞いたり、触ったりできなくても、聖霊によってイエスを信じない者からイエスを信じる者」になりました。だから「イエスは私のすべてを知っていて私を心配し、最も良いことをなしてくださる。その証拠が十字架である。」このことをわかっているから、イエスの姿を見なくても安心できるのです。そして今度は見ないで信じた私たちが、見えないイエスを私たちを通して知らせるのです。
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