■はじめに
皆さんは立て続けに3回同じことを言われたらどんな気持ちになりますか。ほめる言葉であれば、照れながらも受け止めることができると思います。ただ、人によってはいやみを感じるかもしれません。それとは反対に、叱責や注意あるいは命令の場合には、3回目となると「もう勘弁してください/もう十分聞いた」となって素直に聞くのが難しくなりがちです。繰り返し聞かせるというのは、その人の素直さを試すことにもなるのです。今日は、イエスがペテロに「ご自身への愛を」3度続けて尋ねる出来事を通して、イエスへの愛と従順について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスは「わたしを愛していますか」と3度繰り返してペテロに問うことで、ご自身への愛を確かめ、ご自身の働きを彼に委ねた(21:15-19)
イエスの弟子7名はティベリア湖での漁と朝食を通して、よみがえったイエスの人格がかつて一緒にいたときと何一つ変わっていないことを知りました。ここで、イエスはペテロに語りかけます。
イエスは今回も含めて3度「ヨハネの子シモン」と呼んでいます(15節)。イエスはペテロにとって重大なことを言い渡すときにこの呼び方を使います(ヨハネ1:42,マタイ16:17)。加えて、食事を終えてから話し始めますから、これから語ることが軽々しい内容ではないと分かります。
まず、イエスは「わたしを愛していますか。」の前に「あなたは、この人たちが愛する以上に」と言います。ペテロはかつてイエスが十字架での死を予告したときに「たとえ皆(弟子たち)がつまずいても、私はつまずかない。」と断言しました(マルコ14:29)。間違いなくイエスはこれを意識しています。それでイエスは何があっても愛しているか、と問うているのです。
この問いにペテロは「はい」と答え、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言いました。少し細かな話になりますが、イエスとペテロでは「愛する」の単語が違っています。脚注付きの聖書ではイエスは「アガパオー」、ペテロは「フィレオー」となっています。「アガパオー」は神が持つ愛すなわち無償の愛であり、相手に対して敵意や怒りがあっても持てるものです。一方、「フィレオー」は友人や家族など親しい間柄に持つもので、敵には持ちません。日本的な言い方をするなら「アガパオー」は「大切にする」、「フィレオー」は「慕っている」となるでしょう。それゆえペテロにとっては「フィレオー」の方がしっくりくるのです。ただし、これまでのペテロであれば「何があっても大切にします。」と主張するところですが、そうしないで「あなたがご存じです。」とイエスにゆだねているのは、「イエスを大切にできなかった」弱さを認めているからなのです。
ペテロの答えにイエスは「わたしの子羊を飼いなさい。」と命じます。言い方は違いますが、後の2回も同じ内容です。羊を飼うとは、イエスがご自身を良い牧者と呼んでいるように、イエスを信じる者の信仰を養い、守り、指導する働きを言います。ですからイエスはペテロの悔いた心を見抜いて、ご自身の働きを彼に委ねたのです。いわば、イエスの代理を任せることなので、この話は重大事項なのです。
イエスは同じことを再び尋ね、ペテロも同じ答えをしました(16節)。そしてイエスは三度目にこう言いました(17節)。ペテロはイエスの問いに悲しみ心を痛めました。なぜなら、「愛しているか。」を三度繰り返されることで、イエスとの関係を三度否定し、イエスを大切にできなかった弱さを突きつけられているからです。さらに三度目の問いでイエスは「フィレオー」を使いました。ペテロは「私があなたを慕っているのはあなたがよく分かっています。」と繰り返したのに、イエスは「あなたはわたしを慕っていますか。」と尋ねるのです。つまり、「本当にあなたは何があってもわたしを大切にできるのか。」とペテロは真剣さを問われているからです。
それでペテロは「主よ、あなたはすべてをご存じです。」と答えました。ペテロは「私はつまずかない」と口では強気でしたが、心の奥底には「自分を守りたい。」という思いがあり、それによってイエスを見捨て自分を大切にしてしまいました。それゆえこのことばには「何一つ隠せない」という明け渡しと「だからあなたを信頼します。」という従順が込められているのです。イエスが三度「愛していますか。」を繰り返したのは、イエスを何よりも大切にしなければ、イエスを信じる者の牧者になれないからなのです。
ここでイエスはさらなる重大事項をペテロに伝えます(18節)。「ペテロは牧者として若いときは自由に活動できるが、晩年は両手に帯を巻かれて連れて行かれる、すなわち逮捕連行される。」とイエスはペテロの将来を伝えます。この人生はまさにイエスの人生そのものです。それでヨハネは「神の栄光のために死ぬ。(19節)」と言うのです。
イエスのこのことばはペテロにある事柄を思い出させます。それは、「あなたのためならいのちも捨てる。」と断言したのに、イエスは「三度わたしを否定する。」と告げ、その通りになった事実です(ヨハネ13:37-38)。今、ペテロは心を痛めながらイエスを大切にすると答えました。それに対してイエスはこう言うのです。「イエスの代理としての働きは、神の栄光のために本当にいのちを捨てることになる。」イエスを愛する使徒としての覚悟を問うているのです。ただしイエスは、ペテロの反応を伺わずに「わたしに従いなさい。」と命じています(19節)。つまり、イエスはペテロの弱さを知りながらも、彼がご自身を信頼し従順でいられると確信しているのです。
神はご自分の子イエスを犠牲にして、イエスを信じる者の罪を赦し、滅びを免せて天の御国に入らせます。イエスは人が受けるべき罰を十字架刑で引き受けました。これが人を大切にするという神の愛です。私たちはこの愛に包まれています。しかしイエスを大切にしているでしょうか。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)」とイエスは言います。ペテロが自分を顧みて心を痛めたように、私たちも「あなたはわたしを愛していますか」の問いかけに対して、イエスのことばに従っているのか振り返りましょう。この振り返りが私たちに神の愛を確かめさせ、イエスへの信頼と従順に私たちを至らせます。
Ⅱ.イエスは他者を気にするペテロをいさめ、自分の使命を果たすように命じた(21:20-25)
ペテロはイエスによって自分の弱さを認めました。しかし、ここでまた彼の性格が出てしまいます(20-21節)。イエスはペテロに大事なことを話すために二人になったと思います。そこに、イエスが愛された弟子と呼ばれるヨハネがついて来ました。そのヨハネを見てペテロは「主よ、この人はどうなのですか」とヨハネの人生についてイエスに聞きました。かつてイエスが十字架での死を予告したとき、ペテロは「そんなことはない(マルコ8:32)」と神のみこころを否定しました。それと同じように、彼は神よりも人の思いに目を向ける癖があります。それで今回も、イエスと自分との関係に焦点を当てるべきなのに、ヨハネという他者を気にします。
そんなペテロにイエスは「ヨハネとわたしとの関係にあなたは何の関わりもない。」と言います(22節)。ペテロはイエスに従ったゆえに逮捕連行され死にます。もし、イエスがご自身の再臨までヨハネを生きながらえさせたとしても、すなわちペテロと正反対の人生になったとしても、ペテロと関係ありません。なぜなら、イエスが一人一人に果たすべきことを委ねているからです。つまり、他者と比べず自分のすべきことをしなさい、とイエスはペテロをいさめるのです。「あなたは、わたしに従いなさい。」と命じるように、イエスにとって大切なのは誰かと比べて序列をつけることではなく、ただ神の栄光を世に示すことだからです。
さて、ヨハネの福音書を締めくくる最後の2節は、直前の内容とまったく関連がないことから、多くの論議を生みました。けれどもここにはこの福音書について重要なことがらが2つ記されています。
①この書が事実を記していて、うそ偽りがない(24節)
②イエスは無数と言えるほどのわざをなしたけれども、イエスを証言するにはこの書だけで十分である(25節)
私たちもそれぞれにふさわしい働きを神から与えられています。ですから「どっちが優れている/どっちがかっこいい/どっちがやりがいがある」など比較できないのです。ただただ神の栄光、すなわち「イエスは神の子救い主/イエスを信じれば永遠のいのちを得る」これを私たちを通して世の中に証言することが大切です。そのために福音書があり、そして聖霊を通して今もイエスが働いておられるのです。
■おわりに
イエスは見なければ信じないトマスに、そして三度ご自身を否定したペテロに語り、ご自身を信じ従う道に導きます。3年間の活動を見ても集団を相手に病を治したり、悪霊を追い出したりしていません。いつも一人一人と向き合っています。イエスは一人一人を重んじるのです。そのイエスが私たちに「あなたはわたしを愛していますか。わたしに従いなさい。」と語っておられます。この問いかけに対して私たちができることはただ一つです。それがこのみことばを世の人々に伝えることです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」
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