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木村太

10月11日召天者記念礼拝 「天での生活」(ヨハネの福音書14章1-3節,ヨハネの黙示録21章1-5節) 

・はじめに

 使徒パウロは手紙の中で、キリストを信じる人が天で受け取れるものを挙げています。例えば、朽ちない冠(Ⅰコリント9:25)、重い永遠の栄光(Ⅱコリント4:17)、ご自身の栄光に輝くからだ(ピリピ3:21)などです。そして、キリストを信じる者は地上のものを求めるのではなく、上すなわち天にあるものを求めなさい(コロサイ3:1)、と勧めています。

 地上の人生においても言葉に表せないほどうれしい出来事や物があります。けれども「この世で受け取る最高のものよりも、天でいただくものの方が比較にならないほどすばらしい」とパウロは言います。そこで今日は、キリストを信じる者に与えられる天の御国について聖書に聞きます。

Ⅰ.私たちは地上の人生が終わった後、神のおられる天の実家で生活する(ヨハネ14:2-3,ピリピ3:20,ヘブル11:16)

 キリストは地上で弟子たちと一緒にいる間、このように語りました。

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。(マタイ6:9)」

「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。(ヨハネ14:2)」

 「天にいます私たちの父」とあるように、キリストを救い主と信じる私たちの父は、天地万物を造られた唯一まことの神であり、キリストをこの世に送られた神であり、私たちに永遠のいのちを与えてくださった神です。そして、この神のおられるところが天です。神のおられる天は空や宇宙のように認識できる場所ではありません。なぜなら、空や宇宙も神が造られた被造物であって、時間的にも空間的にも限りあるところにに無限・永遠の神が住むことはできないからです。ソロモンが「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。(Ⅰ列王記8:27)」と語ったとおりです。

この天に「わたしの父の家」があります。「父の家」とは神を父とする家族の住むところです。当然、神の子キリストもそこに住みます。その「父の家」の中に「住む所」、すなわち私たちが住む場所が用意されています。それゆえ、父の家は無数と言ってよいほどの人が住みますから、天にある大邸宅といえるでしょう。イエス・キリストを救い主と信じた者は、父のおられる天(天の御国、神の国)に入ることを赦され、神の家に住む権利をこの地上ですでに持っています。

 ここで大切なのは、父である神の家すなわち天の御国が私たちの故郷、ホームだということです。そのことが聖書に記されています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)」

「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。(ヘブル11:16)」

 私たちは人から産まれて、肉体という形でこの世を生きています。しかし、肉体はやがて老いて滅びますから、地上の人生は一時的なのです。一方、天の故郷に帰ってからの人生は永遠です。しかも天での安らぎは完全です。

 私たちも仕事を終えて自宅に帰ったらほっとします。あるいは家以外でもそこに行けば喜んだり安らいだりできる場所があるでしょう。けれどもそれは一時的であり、そして常にではありません。家に帰ったらそこでトラブルが起きる時もあります。あるいは、病を抱えてる人は心が安らいでも肉体の辛さは残っています。

 一方、天の故郷での安らぎは完全であり、ほっとできたりできなかったりというのはありません。いつでも安らいでいるのです。言い換えれば、天の故郷では不安や恐れや不満は一切かつ永遠にありません。だからパウロは天で受けるものは地上のどんなものよりもすばらしいと言うのです。キリストを信じる者は人生という一時的な旅を終えた後、天の故郷で完全かつ永遠の安らぎを過ごすのです。

Ⅱ.天での生活では、神と私たちは完全な愛の関係にある(Ⅰコリント15:47-48,黙示録21:4)

 次に天での安らぎについて見てゆきましょう。聖書は、私たちが天でどのようになっているのかも明らかにしています。

「第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。(Ⅰコリント15: 47-48)」

 地上の人間は全て第一の人アダムと同じです。アダムは神と同じ正しさ・善・聖さを持っていましたが、善悪の知識の木から実を取って食べた結果、彼は神よりも自分の判断を優先してしまうようになりました。すなわち人から生まれた私たちは全員、神に従えないという罪を持つのです。そのため地上では、神の愛・いつくしみを素直に受け取れないときがあるのです。例えばこんな風にです。

 神:あなたを大切にしている→私:神がいても不安

 キリスト:わたしはあなたの側にいる→私:キリストは何もしてくれない、見放された

 ですからこの地上では、神と私たちとの関係は、私たちが罪ゆえに神を拒否すると言う意味で不完全なのです。一方、天では第二の人、すなわち天から出たキリストと同じく、罪を持ってはいません。キリストによって罪が赦され、罪がない者と定められたからです。それゆえ、神との関係において神の愛を妨げるものは一つもないのです。つまり、天では神と私たちとの関係は完全なのです。

 天では、神のお気持ちも、ことばも、わざも全てを疑いなく拒否することなく受け取り、信じ、従うことができるのです。いわば、地上での不完全な愛の関係は、天では完全な関係に刷新されるのです。それで、私たちはこのようになるのです。

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)」

 神に背かないから、死という罰はありません。神に信頼して従うから、絶望の悲しみや後悔の悲しみはありません。神のご判断を良しとするから、不満や怒りといった叫びはありません。神が与えたものですべての人が満たされているから苦労や悩みはありません。「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあるように、天では地上で受けるすべての辛さから解放されています。

 天において私たちは神とキリストとともに住み、神とキリストの愛を何の妨げもなく受けとり、それに素直に応える生活を送ります。天において私たちは完全な平安と喜びの人生を永遠に送ることができるのです。

・おわりに

 地上にいる私たちは天の御国を直接見ることはできません。科学がどんなに発達してもその実態を捉えることはできません。けれども天の御国はあるのです。なぜなら十字架で死んで3日目によみがえったキリストが天に戻ったからです。

 墓前礼拝プログラムには先に召された方々のお名前を載せています。この方々はすでに天の御国に

入って、父なる神と完全な愛の関係にあります。それゆえ私たちは「あの人は今どうしているのだろうか」という心配がないのです。そして「神とキリストとともに私を待っていてください」と祈ることができるのです。

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