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木村太

10月15日「主の日には何が起きるのか」(ヨエル書2章1-11節)

■はじめに

 今年は三笠市でもクマの目撃情報が相次いでいます。そのため、目撃した付近にはクマ注意の看板が立てられていて、ニッキとよく散歩する堤防のウォーキングコースにもあります。当然のことながら、立看で注意を促したり、あるいはそれを見て気をつけるのは、ヒグマの怖さを知っているからです。もし、ヒグマの怖さを知らなかったら、看板を見ても何も気にしないかもしれません。人が危険を回避するには怖さを知ることが大事なのです。今日は、主の日の恐ろしさについて聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.主の日には人だけでなく天地も滅び、誰一人生き残らない(2:1-3,10-11)

 ヨエルは神のことばを受けて「ああ、その日よ。主の日は近い。(1:15)」と嘆きました。ユダヤ人にとって主の日は、神の怒りによるわざわいが行われる日です。ヨエルはその日がどれほど恐ろしく、しかも間近に迫っているのをわかったから「ああ」と嘆いたのです。それでヨエルは、イスラエル全体が悔い改めの嘆きをするように祭司たちに命じました。と同時にヨエルは主の日の恐ろしさを人々に伝えます。


 1節で、「シオン/わたしの聖なる山」はエルサレムを指し、また「角笛/ときの声」は災害の危険を知らせるためのものです。つまり、エルサレムからイスラエル全体に主の日が来るという警報を出せ、とヨエルは命じるのです。「恐れおののけ。」とあるように、安心している場合ではないのです。そしてヨエルは、イスラエルの民が直面しているいなごの大襲来を用いて、主の日について伝えます。


 2節「暁とともに山々の上に進んで来る」とあるように、羽の煌めきで山肌をキラキラ輝かせながら、いなごが黒雲のようにやってきます。やがて地上は大群によって光が遮られ暗闇となり恐怖が人々を包みます。その様子は強力で無数の軍隊が近づいてくるようです(2節)。


 やってきたいなごの大群は、まるで炎が地面をなめるごとく、あらゆるものを食べ尽くしてゆきます(3節)。「彼らが来る前は、この地はエデンの園のよう。」とあるように、「乳と蜜の流れる」肥沃な土地が不毛はおろか、回復できないまでに荒らされるのです。イスラエル民族にとってこれまでも、これからも経験することのない恐ろしさがやって来るのです。


 先ほども申しましたようにヨエルはいなごの災害を用いて主の日の恐ろしさを伝えようとしています。ただし、主の日はそれよりもはるかにひどく、人知を超えたわざわいです。いなごの大災害でたとえきれません。それでヨエルはさらに語ります(10節)。


 天地はぐらぐらと安定せず、太陽や月といった天体は光を失います(10節)。これは天地創造の逆再生のようです。「はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)」の前に戻るから、人も含めて神がお造りになったものすべてが滅びます。つまり、主の日はこの世の滅びの日です。


 ここでヨエルは主の日と主との関りを明らかにします。11節「【主】はご自分の軍隊の先頭に立って声をあげられる。」とあるように、主の日すなわちすべての滅びは主のみこころによります。単なる自然災害ではないことをヨエルははっきりさせます。主は正しく聖なるお方ですから、罪ある者を見逃したり、見落とすことは決してありません。だから罪ある者にとって主の日は恐ろしいのです(11節)。


 「これから逃れるものは何もない。(3節)」「だれがこの日に耐えられるだろう。(11節)」とヨエルが言うように、創造主なる神に背く罰を誰も逃れられないし、誰も生き残れません。へブル書の著者も「逆らう者たちを焼き尽くす激しい火」と語っています。


 現代の私たちにとってヨエルの言う「主の日」とは、キリストが再びこの世にやってくる日、すなわち再臨の日です。この日、神による審判が行われ、罪ある世は消え去ります。しかし、キリストを信じる者はわざわいを免れて天の御国に入ります。主の日の恐ろしさを知れば知るほど、キリストによる救いがどれほどすばらしいのかがわかるのです。


Ⅱ.圧倒的な強さと数の軍隊が攻め込んで来るように、主の日は背く者をせん滅する(2:4-9)

 ヨエルはいなごの大群がどんな風に人を襲ってくるのかも語ります(4-5節)。いなごは軍馬のようにあっという間にやってきます。そして「音は戦車のきしり、山々の頂を飛び跳ねる」とあるように、大地を揺るがす音と振動とともに向かってきます。また、「刈り株を焼き尽くす火の炎」のごとく「ごうごう」と音を立てながら襲ってくるのです。解説書には「スーダンからの友人がいなごの大群はジェット機のエンジン音のようだ、と言っていた」とありました。すさまじい音と速さと振動を伴て強力で膨大な軍隊が攻めてくるように、いなごが襲ってきます。それで、すべての民は防ぐ手立てが全くないので、恐怖で青ざめ震えるしかないのです(6節)。


 いよいよいなごが町に入ってきます(7-8節)。いなごは大群ですが、一匹一匹は有能な兵士のように城壁を登り、しかも隊列を乱さず整然と進みます。まるでそれぞれが自分のミッションをきちんと果たすようなイメージです。その上、「投げ槍が降りかかっても、止まらない」とあるように、何ものも阻止できない勇敢な兵士のように攻めてきます。まさにいなごの大群は十分に訓練され、命を厭わない軍隊と言えます。


 いなごはついに家に入ってきます(9節)。いなごは外にいる者だけを襲うのではなく、城壁を乗り越え家に取り付き、窓から侵入します。町全体を覆いつつも、一人一人を狙って滅ぼすのです。旧約聖書で主が命じている聖絶と同じです。


 主の日のわざわいは、いなごの大群が大地を覆うようにやってきます。その一方、「盗人のように窓から入り込む。」とあるように、狙いは一人一人です。つまり、神は一人一人を吟味し、一人一人を確実に滅ぼします。ここに「背く者を誰一人赦さない」という神の怒りが現れています。ヨエルが絵画的に主の日を記したのは、それを聞いたイスラエルの人々が頭の中でイメージし、恐怖を覚えるためです。しかし、恐怖を覚えるからこそ、わざわいの源である神への背きを止めようとする意志が生まれるのです。


■おわりに

 冒頭のクマの話になりますが、市町村や道といった様々な組織がクマ注意を発信したり、クマの被害や生態を伝えています。なぜなら、そこに暮らす人々がクマの恐ろしさを知って、被害に合わないようにするためです。それと同じように、神が主の日の恐ろしさを人が理解できる形でヨエルに与えたのは、人が主の恐ろしさを知るためです。


 神からすれば人はご自身に背いているのですから「背いたら滅ぶ」ことだけを伝えればいいのです。けれども、このように主の日を絵画的に明らかにするのは、恐れから罪を悔い改めて生きて欲しいからです。滅びを免れて生きて欲しいから預言者を通して警告するのです。これが神のあわれみです。


 J.I.パッカーは滅びである地獄についてこう書いています。「聖書が地獄について教える目的は、私たちを地獄から救うキリストの恵みを私たちによく理解させ、感謝してそれを受け入れ、理性的にそれを選び取るようにさせることである。聖書の中で神が地獄についてこれほどはっきり語っていることは、本当に人類に対するあわれみである。」


 私たちも、「その方向へ進んだら必ず危ない目に遭う」ことを分かっていると、そちらに向かう人に「そっちは危ないから行ってはいけない」と警告します。なぜなら、その人を危険から守りたいからです。それと同じように「背いた人生の先には、いなごとは比べものにならないほど恐ろしい目に遭う」と神は警告します。神は私たちを主の日のわざわいから守るために警告するのです。しかも神は警告だけでなく、滅びを免れる手段をも用意してくださいました。それが我が子キリストを犠牲にする十字架とよみがえりです。私たちは幾重にも神のあわれみを受けているのです。

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