■はじめに
イエスのたとえ話に「放蕩息子(ルカ15:11-32)」というものがあります。裕福な家の次男が父から遺産を分けてもらって、それをあっという間に使い果たし、飢え死に直面します。ここで彼は罪を悔い改め、子供という立場ではなく雇人として父に頼ろうと決心して家に帰ります。次男が帰ってきたとき、父は彼をかわいそうに思い、大きな喜びと共に迎え入れました。この話で興味深いのは、父が帰ってきた息子を責めたり怒ったりせず喜んでいることです。つまり、「人が神のもとに帰って来るのを神は喜ぶ」という神のみこころをイエスはこの話で表しています。今日は、神が私たちに何を望んでいるのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.ヨエルは主のあわれみを確信しているから、イスラエルの民に心からの悔い改めを命じる(2:12-17)
神はイスラエルの民に「主の日」という恐ろしいわざわいを下そうとします。なぜなら彼らが神に背き続けたからです。決して彼らを滅ぼしたいという欲求からではなく、あくまでも背きという罪への罰としてです。ここで神はご自身のみこころを語ります。
神はイスラエルの民に「神との断絶を嘆きながら、わたしのもとに帰れ」と命じます(12節)。神はイスラエルが神に向き直って神に従うことを望んでいます。しかも「今でも」とあるように、神は帰ってくることを常に変わらず望んでいるのです。神は背き続けているイスラエルを見捨てるのではなく、神に従って生きることを求めるのです。ただし、「心のすべてをもって」とあるように、神は完全な悔い改めを必要としています。
それでヨエルは神のみこころをわかったので人々にこう命じます(13-14節)。「主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」はエジプトを脱出したのち、神がモーセに告げたことがらです。「今でも」と語られたように、ヨエルはモーセに示された神のあわれみが今でも変わらずに注がれているから、人々に「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。」と命じるのです。
先ほど神が「心のすべてをもって」と語ったように、「衣ではなく、心を引き裂く」とは表面的、形式的な悔い改めではありません。神以外に頼ってきたこれまでの心を引き裂いて使えなくし、神のみに頼り従うという新たな心にするのです。違う言い方をするならば、罪に従ってきた生き方ときっぱり手を切って、神に従って生きるのです。
ここで大事なのは「もしかすると、主が思い直してあわれみ... (14節)」という神へのへりくだりです。「立ち返ったら必ず祝福をくださるから主に立ち返ろう」という自己中心の悔い改めではありません。「もしかすると」というのは、「私は主のあわれみにすがるしかない」といった神にすべてを委ねる姿勢を表しているのです。
さてヨエルはまことの悔い改めを示したのち、具体的に何をすべきかを命じます(15-16節)。ヨエルはシオンすなわちエルサレムから悔い改めの集会を発信するように命じます(15節)。ここで、「老人」「幼子と乳飲み子」はイスラエル民族に属する者すべてを強め言い方です。また、「花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から」は結婚式直後の新郎新婦を指していますから、人生で最大の喜びの時よりも悔い改めの集会の方が重要なのです。つまり、何はさておき、一人も残らず悔い改めをしなければならないほどの事態は切迫しているのです。
同時にヨエルは神と民との間をとりなす祭司たちも命じます(17節)。「神殿の玄関と祭壇の間で」は、至聖所すなわち顔と顔を合わせるように主に対して悔い改めをすることです。そして祭司たちが訴えることばを簡単に言うとこうなります。「神という地名や名前がついているにも関わらず、お前たちは神から見捨てられた、と異邦人から笑われたままでいいのですか。」
この当時、諸民族は自分たちの神が繁栄や平和をもたらすと信じていました。ですから、いなごに襲われているイスラエルを異邦人が見て、イスラエルの神の無能や無責任を笑うのです。それで祭司たちは「笑われたままでいいのですか。」と神の権威に訴えるのです。この訴え方は現代の私たちからすれば「逆切れ」のような感じを抱きます。けれども、これは「あなたはあわれみの神ではないのですか」という、神のあわれみにすがる心から出ているのです。
神は背きを罰せずにはおきません。しかし、最終的な滅びである主の日まで猶予を与えて、ご自身に帰ってくることを望んでいます。ただし、表面的な悲しみや悔い改めを求めてはいません。私たちは苦難を嘆きつつも、苦難を受ける人間となったこと、すなわち罪を嘆くことが肝心です。それは、罪に従った心を引き裂くように、これまで神以外に頼ってきた生き方を嘆くのです。その上で、「頼るべきは神のあわれみしかありません。」という心で生きることが、神の求めているまことの悔い改めなのです。
Ⅱ.主はご自身のもとに帰った者に「神との関係回復」を約束する(2:18-20)
神はイスラエルのまことの悔い改めにこう応じます(18節)。「ねたみ」と「あわれみ」は相反しているように見えますが、両方ともに相手を深く大切にしていることを意味しています。神はイスラエル民族を何よりも大切にしてきました。しかし彼らは他の神々に惹かれて崇めました。それで「なぜ、わたしよりもあの神の方に惹かれるのか」という憎しみを持つ、これがねたみです。もし、神にとってイスラエルがどうでもいいのであれば、ねたみは起きません。神はイスラエルを大事にしているからこそねたみが生まれるのです。
それゆえ神は悔い改めたイスラエルをこのようにします(19-20節)。ヨエルは「もしかすると、主が思い直してあわれみ」と語り、思い直すかどうかは神の側にあるというへりくだりを表しました。その態度と悔い改めに神はわざわいを思い直しました。しかも、「穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る(19節)」とあるように、大地の実りを回復します。農産物の収穫はイスラエルにとって大きな喜びですが、何よりも喜びとなるのは、穀物と注ぎのささげ物を神にささげることです(1:9)。つまり、神がご自身とイスラエル民族との関係を回復してくださったのです。ささげることができるというのは回復の証拠なのです。だから、「お前たちの神はどこに行った」と異邦人から笑われることはもうありません。
神は大地の実りを回復するためにいなごを去らせます(20節)。神は北からきたいなごの大群を「荒廃した砂漠→南の砂漠」「東の海→死海」「西の海→地中海」に吹き飛ばします。海に飛ばされた群れは塊となって岸に打ち上げられて腐り、激しい悪臭を放ちます。「主が大いなることを行ったからだ。」とあるように、神はいなごの大群を一掃しただけでなく、いなごによって荒らされた不毛の地を再びエデンの園のように「乳と蜜の流れる地」にしてくださるのです。これこそが悔い改めた者への大きな祝福です。
神は「わたしのもとに帰ってきた者」へのわざわいを思い直し、罰を止めます。つまりは罪の赦しです。それだけでなく、その者にすばらしい恵みを与えてくださいます。神はそれほどまでに人をあわれんでいます。だから、ご自身のもとに帰ってくるのを待っておられるのです。
■おわりに
神は罪ある者を放っておきません。必ず罪に対する罰を与えます。キリストの時代においては、その罰とは「主の日」すなわち最後の審判で下される永遠の滅びです。けれども神は人が滅びへ向かうのをかわいそうに思い、人が受けるべき罰を我が子キリストに負わせて人の罪を赦します。永遠の滅びを思い直すのです。だから、「わたしのもとに帰れ。」つまり自分の罪を認めてキリストによる救いの道に入って欲しいのです。キリストの一番弟子であるペテロはそのことをこう語っています。
「しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3:8-9)」
私たちはキリストを救い主と信じることで永遠の滅びを免れました。その上、天の御国というすばらしい恵みを受けています。これらはすべて「わたしのもとに帰れ。」という神のあわれみであり、私たちはそれにすがるしかないのです。
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