■はじめに
「苦しい時の神頼み」ということわざがあるように、日本人は無宗教と言いながらも結構信心深い性質があるようです。「○○の神様」といった神社やパワースポットにお参りする、元旦に初詣に行くなどはよくありますね。私たちも教会という場所に行き、そこで礼拝し祈りますから、やっていることだけを見ると神社詣でとあまり変わりません。ただし決定的に違うのは、私たちは祈りを向ける対象をはっきりとわかっていることです。私たちは祈りの最初で「主よ/父よ/天のお父様」のように、誰に祈っているのかを宣言しています。そして、その方がどんなお方であるのかを知っています。未知の何かに向かって祈ってはいません。そこで今日は、私たちと神との関係ついて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主の回復宣言を受けてヨエルは歓喜する(2:21-24)
主と呼ばれるイスラエルの神は、心のすべてをもって悔い改めたイスラエルの民に対して、いなごという罰を止め、さらには以前と同じように豊かな実りを約束しました。つまり、断絶していた関係を回復する約束をしたのです。これにヨエルが応じます。
ヨエルは、「大地が荒野から回復し牧草が生え果樹が実るから、大地も獣も大喜びしなさい」と喜びの声を上げます(21-22節)。食べ物が無くて飢えていた家畜ももう恐れなくていいのです。この喜びはイスラエルの民も同じです。
23節「シオンの子ら」は彼らが神の民であることを強める言い方です。ヨエルは地や獣と違ってここでは「【主】にあって、楽しみ喜べ。」と言います(23節)。大地や獣は、なぜいなごの大被害があったのか、なぜそれが去って土地が回復したのかを知りません。けれども、「主は、義のわざとして、初めの雨を与え」とあるように、イスラエルの民はいなごが罪ゆえの罰であること、そしていなごが消え去ったのは義すなわち「悔い改めによって正しい者と認められたから」ということをわかっています。簡単に言えば、主である神が罪を赦してくださったから「【主】にあって、楽しみ喜ぶ」のです。
農耕と牧畜のイスラエルにとって「初めの雨(秋の雨)と後の雨(春の雨)」は主からの祝福の象徴であり、その雨ゆえに麦やぶどうやオリーブが豊かに実ります。ですから、大豊作は単に「たくさん実ってうれしい」だけではありません。大豊作は「罪が赦され、義と認められたしるし」だから、イスラエルの民は主との関係が回復したことを大喜びするのです。
ユダヤ人は現代においても、あらゆるものごとが神と結びついています。それゆえ豊かな実りを主に感謝して喜びます。キリストを信じる私たちも、神がすべてをご支配しているのをわかっています。同時に私たちはすべてを科学的に説明する社会に生きています。ですから、豊作や凶作が気象条件で説明されたときに、その背後におられる神の働きを忘れがちです。神は私たちの生活に、人生に介入するお方ですから、何事も神に向けて語り、祈りましょう。
Ⅱ.主は「ご自身とこの世の関係」についてみこころを語る(2:25-32)
(1)イスラエルの民と本来の関係を取り戻す(2:25-27)
ここで主はいなごの災害を終わらせ、大地を回復した目的を語ります(25節)。主はいなごの被害を償うと約束します。本来、いなごは背きへの罰ですから、赦すのであればいなごを去らせるだけでいいはずです。けれども主は罰として与えた被害を弁償するというのですから、これはまさに神のあわれみです。それゆえ主は、イスラエルの民に生じることをこう言います(26-27節)。
主の償いを受けて、イスラエルは主の名をほめたたえ、自分たちの真ん中に主がいることを知り、主だけが神でありこの方以外に神はいないことを知ります。かつて主はイスラエルの民をエジプトから脱出させたとき、ご自身があわれみによって脱出させたゆえに「わたしの他に神々があってはならない/偶像を造ってはならない/御名をみだりに口にしてはなない」と命じました(出エジプト20:1-7)。
いなごの損害の償いはエジプト脱出と同じ主のあわれみだから、イスラエルは主だけをほめたたえ、主だけが神であり、主だけが頼れるお方とするのです。いわば出エジプト直後の神と神の民との関係に戻るのです。「わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」が2度繰り返されているように、主との関係回復はイスラエルにとって何ものにもかえがたい喜びであり、これ以上の安心はないのです。
(2)主の日において、主は御名を呼び求める者を救い、人との本来の関係を取り戻す(2:28-32)
続けて主はもう一つの約束をします。主はいなごの災害復興の後、ご自身の霊を注ぎます(28-29節)。霊を注がれた者は預言する、あるいは夢を見る、あるいは幻を見ます。旧約聖書においてこのように霊が注がれた出来事を見てみると、霊を注ぐとは「神のみこころを知らせる/神のみこころをなさせる力を与える」となります。そして、注がれた方法が明確な言葉であれば預言、寝ている中で与えられたのであれば夢、常識では理解できないことを見たのであれば幻になります。
ただし、旧約聖書では霊を注がれた者は預言者や王、民族のリーダーといった特定の人間だけです。けれどもここでは「すべての人」が注がれる対象です。さらに、息子と娘という性別、青年と老人という年齢、男奴隷と女奴隷という身分、これらは当時人を区別する典型ですが、こういったあらゆる区別はありません。つまり、生きている人間すべてに主の霊が注がれるのです。言葉を加えるならば、主の霊が注がれるのはユダヤ人だけでなく、全世界の人が対象となるのです。
なぜすべての人に主の霊が注がれるのか、その理由は主の日が来るからです(30-31節)。主の日のしるし、すなわち前兆として天と地にこれまで経験したことのない出来事が生じます。「血と火と煙の柱」が具体的に何を指しているのか不明ですが、イエスが「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり(マタイ24:7)」と語っていますので、地上ではおそらく世界的な大戦争が起きるのでしょう。また天では「太陽は闇に、月は血に変わる。」とあるように、天体の異常現象が起きます。これもイエスは「ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。(マタイ24:29)」と語っています。すべての人に主の日が来るから、イスラエル民族だけでなく、すべての人に主の霊が注がれるのです。
ただし主は「主の日」というこの世の終わり、永遠の滅びを免れる方法も教えています。ちょうど、イスラエルの民に、わざわいが来るから主に立ち返れ、と命じているようにです。32節「逃れの者/生き残った者」が主の日のわざわいを免れた者であり、この者が救われた者です。そして救われる条件が「【主】の御名を呼び求める者」です。「【主】の御名を呼び求める者」とは、先ほどのイスラエルの告白と同じように、「主なる神をほめたたえ、このお方が唯一まことの神であり、自分の神である」ことを信じ、宣言する者です。違う言い方をするならば「主がすべてを支配することを知っており、この主のみに頼って従う者」となります。
しかも「生き残った者たちのうちに、【主】が呼び出す者がいる。」と主は語ります。2017版では「生き残った者たちのうちに」とありますが、「主が呼び出した者は生き残った者」と解釈するのがふさわしいです。また、「主が呼び出す」とはイエスが弟子に声をかけて招いたように、主が声をかけることであり、これが「主の霊を注ぐ」なのです。つまり、主が呼び出す者が「救われる者=逃れる者=生き残った者」であり、主の御名を呼び求めた者になるのです。それで、この者には主の霊が注がれているのです。使徒ペテロはペンテコステの日に、キリストを救い主と信じる者たちに聖霊が下った時、この箇所を引用して語りました(使徒2:17-21)。聖書のことばは真実なのです。
主はイスラエルと契約を結び、「従えば祝福、背けばわざわい」をなしました。ただし、背きから悔い改めたらわざわいを止めるだけでなく、わざわいによって被った損害を償いました。イスラエルは経験によって「主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」を確信したのです。それゆえ、彼らからこの方以外に神はないこと、この方以外に救いはないことが全世界に発信されたのです。このことはパウロも認めています(ローマ3:2)。その上で、主は主の日について、そしてすべての人が主の日から救われる方法を明らかにしました。主はすべての人が救われるために、私たちには想像もつかないご計画をなしているのです。本来滅ぶべき人を救いたい主のあわれみがここにあります。
■おわりに
現代の私たちも「キリストは救い主」と公に告白し、神と人の前で唯一まことの主だけに従うことを宣誓し、洗礼を受けました。ですから私たちも、主の御名を呼び求めたから救われているのです。同時にそれは私たちに主の霊が注がれていることも明らかにしています。パウロはこのことをこう言っています。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」
ただし、忘れてはいけません。「主が呼び出した」とあるように、救いは神の働きです。しかも、罪を赦すために自分の子キリストを犠牲にしています。私たちが主の日すなわち永遠の滅びから救われたのはただ神のあわれみしかないのです。だから、私たちは創造主なる神、イスラエルが主と呼ぶ神、そしてキリストの父なる神、このお方だけを神と崇めてほめたたえ、このお方だけを心の拠り所とするのです。
Σχόλια