■はじめに
ルカの福音書に金持ちと貧しい人ラザロのたとえばなしがあります(ルカ16:19-31)。金持ちは毎日ぜいたくに暮らしていましたが、ラザロは体のできもので働けなく、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思うほどの貧しさでした。しばらくして両者とも死んだとき、ラザロは天の御国でアブラハムの懐に抱かれ、金持ちはよみで永遠に炎で焼かれます。つまり、金持ちは神から富というあわれみを受けていたにもかかわらず、貧しい者にあわれみをかけなかったから、それ相応の報いを受けるのです。今日は、神に背いた者に下される最終的な報いについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主の日において、主はイスラエルを回復するとともに、イスラエルに悪をなした者にさばきを下す(3:1-3)
イスラエルの神である主は「天地が滅ぶ」主の日というわざわいと、そのわざわいから救われる方法を語りました。そして、このことに加えてイスラエルに悪をなした者へのさばきを語ります(1-2節)。
2:27「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、【主】であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」と主は語りました。ですから、主の日は「『ユダとエルサレム』で表されている主の民」と主との関係が回復するときです(1節)。主の民はみじめさや苦難から解放されて、繁栄・平安といった本来の姿になります。その一方、主はイスラエルを苦しめた者たちにさばき、すなわち罰を下します(2節)。
主はイスラエルの民とユダの土地について「わたしの民、わたしのゆずりイスラエル/わたしの民を国々の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分配したのだ。(2節)」と言います。主はイスラエルの民と土地を「わたしの○○」と語り、それらは自分の所有であることを明らかにしています。つまり、彼らを苦しめたのは主ご自身に悪をなしたことと同じなのです(例:車を傷つけたらそれの所有者に悪をなしたことになる)。それゆえ、主はイスラエルを苦しめたすべての国や民族をさばきます。2節「ヨシャファテ」は「主はさばく」を意味しますから、この場所で罰するというよりも、主は悪を行った者を間違いなく罰する、そのことを明らかにしています。
ここで主は、さばかれる者たちが何をしたのかを明らかにしています。彼らはイスラエルの民と土地とを意のままに扱いました(2節)。特に人については、あたかも戦利品を分け合うかのように、くじ引きで分け合いました(3節)。「少年を渡して、遊女を得、少女を売って、酒を得て飲んだ。」とあるように、自分たちの快楽のためにイスラエルの少年や少女を物として扱ったのです。
主はイスラエルの土地や民族をご自身の所有としています。ですから、彼らを苦しめるのは主に対して悪をなしていることと同じだから、主はわざわいを下すのです。「異邦人はイスラエルの有様を見て、神の存在とその力を悟り、イスラエルの神を信じるようになる。」これが神のみこころです。異邦人はいなごの大群でイスラエルが苦しんでいるときに、神の無能さや無関心をあざ笑いました(2:17)。けれども、イスラエルが回復したときは神の力を認めて信じるべきでした。しかし、彼らはそうぜす、かえって神の民イスラエルを苦しめました。しかも自分たちの快楽のために少年や少女を物のように扱いました、だから神は彼らの行いに応じて罰を与えるのです。
私たちも神の子であるクリスチャンを大事にするのはもちろんのこと、神がお造りになったすべてを大切にしなければなりません。神の所有物を台無しにするのは神をないがしろにしているのと同然だからです。
Ⅱ.主はツロ、シドン、ペリシテを代表例として、さばきの内容を明らかにする(3:4-8)
ここで主は、イスラエルに悪をなした特定の民族を取り上げます。ツロとシドンが属するフェニキア人、そしてペリシテ人は伝統的にイスラエルと敵対していました(4節)。また、地中海沿岸地域のため交易が盛んで、先ほど扱ったように奴隷売買に深く関わっていました。奴隷売買は他の国もやっていたので、二つの地域は悪をなしている国々の代表として取り上げられたと思われます。
「おまえたちは、わたしにとって何なのか。わたしに報復しようとするのか。」とあるように、主は彼らのイスラエルに対する悪をご自身への報復とみなしています。というのも、ヨシュアをリーダーとしてイスラエル民族がこの地を自分たちの土地としたからです。フェニキアはアシェル部族、ペリシテはユダ部族の土地になりました。
それで主は、報復とみなした行為を明らかにします。彼らはエルサレム神殿の財宝を略奪し、自分たちの神殿に運び入れました(5節)。本来、主のために用いるべき物を異教の神々のために使ったのです。さらに、フェニキヤは古くからギリシアと交易があり、そこでは人身売買が行われていました。ですから、2-3節のとおり、イスラエルの人々は遠く離れたギリシアに売られていったのです(6節)。ツロ、シドン、ペリシテは自分たちの欲望のために、神の所有である品物や人を好き勝手に扱いました。彼らは意識していないかもしれませんが、主にとってはこれらの行為すべてがご自身をないがしろにしているのであり、まさに報復と受け取っているのです。
それゆえ、主の日に主は彼らにさばきを下します。主はまず、遠い所に売られたイスラエルの人々を引き戻します(7節)。その上で「おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返し、おまえたちの息子、娘たちをユダの人々に売り渡す。(8節)」とあるように、彼らがなしたことをそっくりそのまま返します。
ここに登場するシェバ人とは南アラビア地方(紅海を挟んでエチオピアの対岸)の民族であり、彼らに売られた奴隷は最終的にインド洋からアフリカの東海岸に売りさばかれたと思われます。つまり、海に馴染みのないイスラエルの民が海に面したギリシアに売られたから、海岸沿いに住むフィニキア人やペリシテ人は砂漠に住むシドン人に売られるのです。「目には目を歯には歯を」のとおり、主は悪行に応じてさばきを下すのです。
「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。(2:13)」ヨエルは悔い改めた者に対する主のあわれみをこう言いました。ヨシュア記のラハブはまさにこれを経験しました。一方、悔い改めない者は悪に応じた報いを受けます。それゆえパウロはローマ人への手紙で次のように教えています。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)」主は悪を怒るお方ですから、主の日では悪への報いが必ずあります。だからこそ人にとってキリストによる救いが必要なのです。
■おわりに
ヨエル書3章は、主の日におけるイスラエルの回復とイスラエルに悪をなした国々へのさばきが記されています。ただし、「すべての人に主の霊が注がれて、主の御名を呼び求める者は救われる」という約束から、3章の内容は人の救いと滅びを現わしているとも解釈できます。すなわち、キリストを信じた者は、まことのイスラエルである神の国に入り、まことのエルサレムである天の都に永遠に住みます。神と人との関係が完全に回復するのです。一方、クリスチャンを迫害する者を含めて神に敵対する者は、報いとして永遠の滅びに行きます。
ただしここで忘れてはならないことがあります。私たちはキリストを信じて罪が赦されていますが、犯した罪を主が見逃したわけではありません。もし見落としたり、見逃したりすれば、主は聖であり、正しいお方とはならないからです。神のご性質に基づけば、人は罪に対する罰を免れることは決してないのです。
主の日に私たちが罰という報いを受けないのは、キリストが私たちの受けるべき罰を受けてくださったからです。それが十字架刑での死です。主は「おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す」と言われましたが、あわれみのゆえにキリストの頭上に返しました。ですから、私たちは「主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。(2:13)」と告白し、主のために生きるのです。
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