■はじめに
人は自然の美しさや人を圧倒的な力を見て、神の存在と創造に気づくことがあります。あるいは、人を含む生き物の構造や性質が理にかなっているのを知って「まさに神が造ったとしか言いようがない」と語ることもあります。けれども、「イエスはすばらしい/イエスは偉大だ」と口にするのはキリスト教という宗教の中でのみです。クリスマスシーズンではあちこちでイエスとクリスマスの関係が語られますが、「イエス様ありがとう/キリストは偉大だ」とは言われません。この世では、驚いたり感謝したりするのにおいては、神とイエスではっきり違っています。今日は、どうしてイエスはほめたたえられるのか、についてみことばを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.イエスは「人が永遠のいのちを得ること」を通して、ご自身の栄光を現した(17:1-3)
ヨハネの福音書17章は「大祭司の祈り」とも呼ばれ、イエスが人と神との間をとりなす祈りが記されています。この福音書の大きな特徴です。
イエスは今、過越の祭りを目前に控えて11人の弟子たちと食事をしています。いわゆる最後の晩餐です。この食事でイエスは、ご自身が地上を去った後のために、弟子たちに必要なことがらを伝えました。しかも、言いっぱなしで十字架に向かうのではなく、弟子たちと彼らによって生まれるクリスチャンのために父なる神に祈りました。イエスの愛と慈しみがこの祈りに詰まっているのです。ただし、弟子たちがイエスによる永遠のいのちを証言し、それを聞いた人々がイエスを信じるために、イエスにはまだなすべき事が残っています。そこでイエスはご自身のことから祈りはじめました。
イエスは父なる神がおられる天に目を向けて、ご自身の栄光をこの世に現すように、父に祈ります(1節)。イエスの栄光をどんな風に、そしてどのタイミングで現すのかは神が定めたことですので、わざわざ祈る必要はないように思われます。しかし、神とイエスの栄光はご自身の十字架を通して世の中に現されるので、イエスの覚悟がそうさせたのでしょう。
ここでイエスは「栄光」ということばを何度も口にしています。「栄光」の元々の意味は「重い/価値がある/豪華」であり、ここから「卓越したすばらしさ/何にも代え難い存在/圧倒的な威厳・畏怖」を表す言葉になりました。ただし、栄光は何らかのふるまいがなければ現せません。イエスはご自身の栄光が父なる神の栄光になると言っています。ではイエスの栄光は何によって現されるのでしょうか。イエスはご自身の栄光についてこう言います(2節)。
神はイエスにすべての人を支配する権威を与えました。あたかも、王が意のままに国民を動かしたり、ある役職に任命・解任するような権威です。そのような権威によってイエスは神が定めた者に永遠のいのちを与えるのです。言い換えれば、イエスはある者を永遠のいのちに、ある者を死いわゆる永遠の滅びに判定するのです。永遠のいのちについてもイエスは説明しています(3節)。
「永遠のいのちとは~知ることです。」とあるように、このことばは永遠のいのちを得るための手段であり、イエスが判定する際の条件です。人は、イエスを地上に遣わしたお方だけが本当の神であること、そしてユダヤ人イエスがキリストすなわち滅びから救う救い主であること、この2つを知れば永遠のいのちをイエスから与えられます。ここで大事なのは「知る」ということです。「知る」は単に見聞きしたのではありません。「理解/悟り」のようにこの2つが真実だと信じることです。
ユダヤ人はこれまで戒律をきちんと守らなければ永遠のいのちを受けられないと信じてきました。また、受けられるのはアブラハムの子孫であるユダヤ民族限定と信じてきました。しかし、永遠のいのちは努力や功績と言った行いで与えられるものではなく、ユダヤ民族限定でもありません。永遠のいのちは「イエスを遣わしたお方が唯一本当の神/イエスが救い主」これを信じるだけでよいのです。もちろん、ここに記されてはいませんが、罪ゆえに人が受ける神の怒りをイエスが身代わりとなって受けたこと、すなわち十字架の死も救い主の中に含まれています。
「本来、永遠の滅びに行かなければならない人間が、信じるだけで滅びを免れ永遠のいのちを得ることができる」それゆえ人は「すばらしさ/何も代え難い存在/すべてに優る権威」をイエスに認めるからイエスに栄光を見るのです。「神とイエスは本当にすばらしい」となるのが栄光なのです。救いを受け取る人と救いへの感謝・喜び・畏敬があって初めて栄光が現されるのです。
Ⅱ.イエスは不思議なわざを伴ったことばを通して、さらに死・よみがえり・昇天を通して「ご自身が永遠のいのちを持ち、人に与えること」を現した(17:4-5)
さて、「永遠のいのちとは~知ることです。」と語られたように、イエスは人が悟るための材料を与えました。それが4節のことばです。
神は人々に語ることばとなすべきわざをイエスに与えました(ヨハネ14:10-11)。それでイエスは神にしかできないわざ、いわゆる奇蹟を行いながら真実を語りました。ヨハネの福音書では十字架の前までに7つの奇蹟を行い、それをもってご自身が神である証拠としました。「カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた(2:1-11)/役人の息子を治した(4:46-54)/ベテスダでのいやし(5:1-9)」これら3つはイエスのことばに従った者が奇蹟を体験しました。
さらに「5千人の食事(6:1-14)/水の上を歩く(6:15-21)/盲人の目を開ける(9:1-41)/ラザロのよみがえり(11:1-44)」これら4つはイエスが直接行動し、本人だけでなく見ている人々も奇蹟を分かりました。特にラザロのよみがえりでは、「父がご自身の願いをかなえてくださるように」と語ってから、この世では絶対にありえないことをなしました。つまり、父によってイエスがいのちを与えることができるのを証明したのです。
ただし、十字架の前までの活動だけでは「ご自身が父である神から遣わされたこと」そして「永遠のいのちを与える者であること」これらを証明するには不完全です。なぜなら神との関係を直にわかるできごと、さらにはご自身が永遠に生きることが明らかにされていないからです。だからこの食事の時点では、イエスが神から遣わされた神の子であり、イエスが永遠のいのちを与える者である、と完全に信じるのは難しいと言えます。実際弟子たちは「信じます」と言いながら、イエスが逮捕された時に散り散りに逃げました。イエスもそのことを前もって指摘しています(16:32)。それでイエスは再び父に願います(5節)。
「世界が始まる前に一緒に持っていた」これがイエスの永遠性、言い換えれば死なない者であることを示し、同時に、父とともにいたことを示しています。つまり、十字架で死んだイエスがよみがえって弟子たちの前に現れ、人々の見ている前で天におられる父すなわち神のところに昇っていった、これが永遠のいのちを持っている証拠であり、神と一緒にいた証拠になるのです。言うなれば、十字架の死とよみがえり、弟子たちに姿を見せること、天に戻ること、これによってイエスの栄光が完全に現され、さらにイエスを遣わした父なる神の栄光が現されるのです。だからイエスは十字架に向けて進む前に、このことをまず父に祈るのです。
■おわりに
神は我が子イエスを救い主(メシア、キリスト)としてこの世に遣わしました。イエスは地上での働き、十字架での死、よみがえり、弟子たちとの再会、天に戻ること、これらを通して、ご自身が永遠のいのちを持ち、人に永遠のいのちを与える権威があることを明らかにしました。一方、神とイエスの一切を通して、天地万物を造った神だけが唯一本当の神であり、ユダヤ人イエスが罪の滅びから自分を救う救い主と人は分かり、信じます。
ここに至ってはじめて「神はすばらしいお方/イエスは何にも代え難いお方」という栄光を人は認め、イエスは栄光に輝きます。それゆえ冒頭に申しましたように、イエスを救い主と信じた私たちが栄光を見るから、イエスをほめたたえ崇めるのです。さらに、十字架刑に向けて祈る姿に私たちへの愛を見出すのです。そしてイエスが地上から去った時代においてはイエスの栄光を知っている私たちが世の人々にイエスの栄光とご愛を明らかにするのです。
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