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木村太

10月18日「五千人を満腹にする」(ヨハネの福音書6章1-15節) 

・はじめに

 コシェルジュという仕事があります。元々は門番を意味しますが、一般的にはホテルで観光の案内やチケットなどを手配する総合接客係を言います。最近ではホテル以外にも、病院、駅、高級マンションでもコシェルジュが常駐しています。この方々は困った時に必要な情報を与え、さらには必要な取り次ぎもするので、施設の利用者にとってはたいへん助かります。イエスも「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださる(14:16)」と語るように、私たちのために父に取り次ぎ助けてくださいます。今日は、五千人を満腹にする奇蹟を通して、取りなしというイエスの役割を見てゆきましょう。

Ⅰ.ピリポをはじめ弟子たちは、イエスが神の権威を持っていることを確信していなかった(6:1-9)

 イエスはエルサレムのベテスダでのいやし、その後のユダヤ人との問答を終えてガリラヤ地方に行きます(1-2節)。他の福音書によれば、イエスと弟子たちは、テベリヤ湖とも呼ばれているガリラヤ湖北西の岸から舟で対岸に行きました。派遣から戻ってきた弟子たちを休ませるために、群衆を避けたのでしょう。しかし、大勢の群衆は湖畔沿いを歩いてイエスたちについてゆきました。彼らは不治の病を治したり、悪霊を追い出すといった人知を越えた奇蹟を見て、自分にもしてもらいたくてイエスの後を追いました。「イエスにできないことなはい」という思いが彼らを動かしているのです。

 イエスと弟子たちは小高い丘に登りました(3節)。人々に教えを語るためかもしれないし、すでに不思議なわざを考えていたのかもしれません。ここでヨハネは4節のように「過越しの祭り」に触れています。おそらく過越の食事とイエスがパンを分け与える姿を重ねて、イエスがいのちのパンであることを読者に暗示したいのでしょう。

 山に登ったイエスは、湖畔を歩いて山にまで来た大勢の群衆に目を留めました(5節)。彼らは食べるのも忘れてひたすらイエスの後を追い続けました。必死になってご自身を求める人々をイエスはご覧になったのです。ただ、すでに日が傾き、夕方になっていました。それでイエスはピリポに夕食のことを指示しました(5節)。

 ここでイエスは「どこからパンを買って来て」と言っています。単に「買って来なさい」ではありません。しかも人数は男性だけで5千人ですから、女性や子どもを含めると少なくても一万人以上はいます(三笠市の人口よりも多い)。つまり、6節「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり」とあるように、ものすごい人数を前にしてピリポがどうやって調達するのかをイエスは探っているのです。見方を変えるならば、ピリポがイエスをどう捉えているかを試しているのです。「神の権威を持っているのだから大丈夫」となるのか、それとも「いくらイエスでもこれは無理」となるのかということです。ただし、「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」とあるように、イエスご自身は「奇蹟を見たい」という群衆の期待に応じる考えをすでに持っていました。

 イエスの指示にピリポが答えます(7節)。200デナリは約200日分の給料で、こんにちでは100万円ほどになります。けれども、めいめいがちょっとずつ取ってもそれでは足りません。人里離れた場所で無数といえるほどのパンが必要なのです。だからピリポのことばには「無理です」という思いが現れています。同じように、アンデレも少年が弁当として大麦のパン5個と保存食の魚2匹を持っているのを見つけましたが、「これでは何も意味がない」とあきらめています(8-9節)。つまり、ピリポもアンデレも「どこから買って来ますか」という問いに対して、「この状況では自分たちの力ではどうにもならないばかりかイエスでも無理」と認めているのです。他の弟子たちも「イエスがいるから大丈夫」と言っていないので、この二人と同じです。彼らはこれまでたくさんの奇蹟を見てきましたが、まだ自分の知識の中にイエスを閉じこめているのです。

 実は彼らの父祖であるイスラエルの民も同じでした。出エジプト記を見ると「海を前にしてエジプト軍が迫ってきたとき/荒野で水がないとき/カナン偵察で強大な現地人を知ったとき」彼らはあきらめて嘆き、モーセに文句を言いました。「神にとって不可能はない」という真実を侮っているのです。このことは私たちにも言えます。「どこからパンを買って来ますか」と言われてピリポのようになってしまうのです。すぐに問題は解決しないかもしれないし、そのままかもしれないし、かえって悪くなるかもしれません。けれども、イエスがいるから大丈夫、という信頼に立つことが大事です。

Ⅱ.イエスは神に祈ってから分け与えることで、ご自身を通して神の恵みが下ることを明らかにした(6:10-15)

 ピリポやアンデレの姿を見てイエスが動きます(10-11節)。「座らせなさい」の「座る」は腰掛けるのではなく、横になって食事をする動作を言います。つまりイエスは「全員に食事させます」と弟子たちに指示しているのです。弟子たちはどうやって食べさせるのだろうかと思ったことでしょう。

 イエスは少年の持っていた5つのパンを手にし、神に感謝の祈りをささげた後、人々に分け与えました。2匹の魚も同じようにしました。「神に感謝の祈りをささげてからパンを分け与える」というのは、夕食で家長である父が行う所作です。これは父が神に願い、父を通して神の恵みが家族に分け与えられることを意味しています。つまりイエスは、膨大な人数が足りなくなるのを恐れずに食事できることを神に求めたのです。そして神がイエスを通して5つのパンと2匹の魚を用い、すべての人が食べたいだけ食べられるようにしたのです。イエスは感謝の祈りをささげてから分け与えることで、「神が人知を越えた働き、すなわちしるしをなすこと」、同時に「ご自身が神に取りなす者」であることを人々に示したのです。

 男だけで5千人の群衆は5つのパンと2匹の魚で満腹になりました(12節)。しかも、パンの余りを集めると12のかごが一杯になりました(13節)。このかごは人が背負う大きさですから相当な量が余りました。振り返ってみると、イエスはご自身を求めて群衆が必死になってついて来たのを見ました。そのような彼らにイエスは食事をさせました。群衆のすべてを大切にするイエスの思いが現れています。それゆえ、神はイエスを通して有り余るほどの恵みをくださるのです。だから、「一つも無駄にならないように」とあるように、あわれみによる恵みを捨てたり無視してはならないのです。

 さて、想像もつかないイエスの奇蹟に群衆はこのような反応をしました(14-15節)。預言者は神のことばを人に伝えると同時に、不思議なわざをなしました。例えばモーセは天からマナを与えましたし(出エジプト16章)、エリシャはわずかなパンで100人を満腹にしました(Ⅱ列王記4:42-44)。それで人々はイエスを来るべき預言者だと捉えたのです。

 さらに彼らは、イエスを約束されたメシア、すなわちユダヤ人の王にしようとしました。人知を越えた能力を持つイエスが王になれば、ローマ帝国から開放され、神の国イスラエル王国を再び樹立できると期待しているのです。15節「連れて行く」は「力ずくで/無理矢理に」の意味がありますから、彼らがどれほど強く期待しているのかがわかります。

 しかしイエスは彼らの動きを察して、人々から去りました。なぜならイエスは特定の国の王となるためにこの世に来たのではないからです。イエスは神に感謝してからパンと魚を分け与えました。これはイエスが人と神とを取りなす者であり、イエスを通して恵みが与えられることを明らかにしています。

 後にイエスはこう言われます。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ6:35)」一見するとイエス一人ですべてが完結しているように思えますがそうではありません。イエスを通してイエスを信じる者に神から満たしが与えられるのです。そしてこのことは、イエスのいのちを通して罪が赦され、永遠のいのちが与えられることにつながっているのです。

・おわりに

 一万人以上の人を満腹にする「奇蹟」をはじめ、イエスはさまざまな「奇蹟」をなしました。それはこの時代でもこんにちでも人知が及びません。ただし、イエスはご自身に神の力があるのを見せるために奇蹟をなしているのではありません。イエスを信頼してイエスのところに行けば、イエスが何とかしてくださることを私たちに明らかにするためです。

 そして、あたかもイエスが直接わざをなしているように見えますが、真実はイエスが父なる神に取りなしてくださり、神がイエスを通して不思議なわざをなしています。それゆえ私たちは2つのことを確信できるのです。

・イエスを救い主と信じる者はイエスを通して罪が赦され永遠のいのちが与えられる

・この地上ではイエスが私たちの願いを聞いて父にとりなして下さっている

 奇蹟はこれを証明するためのしるしなのです。人生において、どうしてもしなければならない困難な状況にぶつかった時、私たちはピリポやアンデレのように「これは無理/これしかないからだめでしょ」となってしまうことがあります。でも忘れてはいけません。「どこから買って来ますか」の問いに「あなたがいるから安心です」、そのように私たちはすでに変えられているのです。

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