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木村太

10月1日「いなごによる災害」(ヨエル書1章1-12節)

■はじめに

 神は様々な出来事を通して、ご自身の存在と力、わざを私たちに明らかにしています。たとえば、宇宙や人の誕生の神秘、圧倒的な自然の力と美しさ、人体の精密で機能的な構造などに、多くの人が神の存在を感じています。本来、人はあらゆることがらから神を知る存在でした。しかし、今や人は神を知るどころか意識もしなくなりました。善悪の知識の実を食べた結果、神よりも人間の知識や知恵を優先するようになったからです。一方、神はご自身のことだけを伝えてはいません。聖書を見れば明らかなように、人が滅びに向かわないための警告も与えています。ですから、神を知らないというのは人にとって大変な問題なのです。今日から始まるヨエル書の宣教を通して、神はどのような方法で何を私たちに語っているのかを見てゆきましょう。


■本論

Ⅰ.神はいなごの襲来について代々にわたって伝えるように命じた(1:1-4)

 今日は「ヨエル書」の初回なので、この書の概要を短く説明します。1章1節から、この書は【主】すなわち創造主なるイスラエルの神のことばであり、ヨエルはそのことばを託された預言者であることがわかります。ただし、ヨエルについては「主は神である」という名前のみで人物像は不明です。また、他の預言書のようにことばが与えられた時代や場所も記されていません。これも内容から推定すると、バビロン捕囚前のユダ王国でヨアシュ王時代(BC830年頃)という解釈が有力です。


 ヨエル書の中心主題は「主の日」です。ヨエルは、主の日が近いこと、それがたいへんな速さで近付きつつあることを預言しました。ヨエルにとって主の日は神のさばきと救い(回復)の日であるため、ヨエルはいなごの災害によってさばきがすぐそばに来ていることを伝え、民に悔い改めを迫りました。現代の私たちにも最後の審判が刻一刻と迫っています。それゆえ、この書を私たちに適用できるのです。


 本論に入ります。まず神は今何が起きているのかをイスラエルの民に語ります。2節「聞け/耳を傾けよ」とあるように神はこれから語ることを完全に聞いて従うように命じています。同時に、長老といった指導的立場の年長者だけでなく、住人全員に命じていますから、すべての人にとって重大なことがらなのです。なぜなら「このようなことが...あっただろうか」とあるように、遠い昔の父祖たちの時代からこんにちに至るまで、このような災害がなかったからです。しかも、子どもから孫へ、孫から後の世代へと確実に伝えるように命じていますから、代々にわたって決して忘れてはならないことだからです(3節)。


 神はこれまでも、出エジプトを記念する過越しの祭りをはじめとして、代々にわたって守るべきことがらを命じています。その際、守るべき内容は祝福やわざわいのように、すべて神ご自身と関わることがらです。ですから、これから語られる「いなごの襲来」も神ご自身と深く関わっているから「聞け/耳を傾けよ/後の世代に伝えよ」と命じるのです。


 神は2節「このようなこと」をこう言います。4節「噛みいなご」「いなご」「バッタ」「若虫(発育中のいなご)」は4種類のいなごと思われます。ここで注目すべきはいなごの種類ではなく、次々とやってきて何も残らないまでに食い尽くすという様子です。いなごの群れは一本の草もないほどすべての植物を食い尽くしました。農家からすれば壊滅的ではなく壊滅です。出エジプト記でも神は8番目のわざわいとして、いなごを襲来させましたが、それよりもはるかに深刻な事態です。イスラエルの長い歴史の中でこれほどまでの災害はなかったから、神は「聞いて、後々までに伝えるように」命じるのです。


 神が自然現象について語る時、それは神のみこころによって起きていることを意味しています。例えば、ノアの洪水やヨセフ時代の大豊作と大飢饉、エリヤの時の干ばつはその典型です。加えて「後の世代に伝えよ」というのは「律法を後の世代に伝えよ」という命令と同じです。この二つのことより、いなごの襲来は自然現象に過ぎないのではなく、神の何らかの意図が込められているのは明らかです。現代は科学万能主義によって何事も目に見えることがらで説明しようとします。しかし、現代においてもあらゆる出来事の背後に神がおられることを忘れてはなりません。


Ⅱ.神はいなごの災害を嘆くように命じ、ご自身の祝福が去ったことを示した(1:5-12)

 続けて主はいなごの災害をどう受け止めるのかを3つのテーマで語ります。


(1)神からの平安、繁栄がなくなる(5-7節)

 人は何らかの危機が迫っているときは、即座に対処しなければならないので泥酔しません。それゆえ「酔いどれ(5節)」からは安心しきっている様子がわかります。けれども主は「目を覚ませ/泣け/泣き叫べ」と命じます。イスラエルの民はいなごの襲来を受けて気楽にしているけれども、神からすれば恐怖と絶望に陥るべき状況なのです。


 なぜなら、喜びと楽しみの象徴であるぶどう酒が一切なくなるからです。その理由が6-7節です。いなごの群れは、あたかも一国の軍隊のように圧倒的な力と無数の量、そして獅子のようなどう猛さで大地を攻撃してきます。そのため、いちじくやぶどうの木はかみ砕かれた上に、樹皮が食いちぎられ丸裸になります。実が食い尽くされるだけではなく、木そのものがだめになり、最初から木を育てなければなりません。つまり、ぶどう酒を飲めるような平安は過ぎ去り、豊かな実りという繁栄が終わるのです。ユダヤ人にとっては平安も繁栄も神がもたらすものですから、いなごの襲来は神が平安と繁栄を終わらせることを意味しているのです。


(2)神との関係が断たれる(8-10節)

 「粗布をまとったおとめが...するように(8節)」とは、若い時代のいいなずけに先立たれた女性が悲しむ姿です。この時代、婚約式の前に婚約者に先立たれるのは若い女性にとって最大の悲しみでした。夫と結ばれるはずが断絶し、結婚という祝福が断たれるからです。それゆえ、ここでは「断たれる」ことを嘆き悲しめと主は命じているのです。


 何と断たれるのかが9-10節にあります。いなごによって穀物も新しいぶどう酒もオリーブ油もなくなります。しかもこれらは日々の生活に用いられるだけでなく、穀物と注ぎのささげ物すなわち神への供え物として重要な品でした。それで、神にささげる物が断たれたから、祭司たちは神の前に出ることができず、何もできないでただ泣くだけなのです。このことをティンデル聖書注解では次のように説明しています。「イスラエルにとって、日ごとのいけにえの停止にまさる大きなわざわいはないのである。なぜなら、これは契約関係の事実上の停止、すなわち神がご自身の民を拒絶したしるしにほかならないからである。」つまり、いなごの災害は農作物や畑が荒らされるだけではなく、神との関りが断たれるのです。イスラエルの民にとって絶望をもたらすものなのです。


(3)神からの恵みがなくなる(11-12節)

 11節「恥を見よ」は「青ざめる/呆然とする」という意味がありますから、いなごの災害を前に農夫たちは青くなり、ただ立ち尽くし、泣きわめくしかありません。せっかく実った小麦や大麦に加えて、ぶどう・いちじく・ざくろといった果実のすべてが収穫できないからです。しかも、収穫できないだけでなく畑そのものがダメになるのです。


 イスラエルの民にとって農作物の収穫は何よりの喜びと楽しみでした(12節)。というのも、作物の実りは神の恵みと彼らは信じていたからです。例えば、五旬節や仮庵の祭りは収穫を神に感謝する祭りでしたし、作物に必要な雨(春の雨、秋の雨)も神の恵みと受け止めていました。つまり、大地の実りがなくなるというのは、神からの恵みがなくなることを表しているのです。


 いなごの襲来によって農作物は徹底的に荒らされ回復の見通しも立ちません。豊かな収穫によって支えられてきた喜びと楽しみはなくなり、国家の平安と繁栄が失われます。それに加えて、彼らの心の拠り所である神との関りも断絶します。


 神は「泣け/泣き叫べ/悼み悲しめ/恥を見よ」と命じます。これは単に収穫できなくなり畑がだめになったからではありません。神からの恵みが失われたのは、彼らが神からの祝福を受けられる状態にないからです。神が「嘆け」というのは目に見えることに対してではなく、神に背を向けて祝福を受けられないことを意味しているのです。イスラエル民族はすべてのものごとを神のわざと結び付けて見る性質がああります。けれども、いなごの襲来に対して嘆きもせず安心しきっているのは、それほど彼らの信仰が麻痺しているからなのです。これが後の預言者エレミヤ時代に、どんなにわざわいがあっても「平安だ。平安だ。(エレミヤ6:13)」という有様につながってゆくのです。


■おわりに

 現代もいなごの災害、台風、干ばつと豪雨、地震、火山の噴火といった自然災害が世界各地で起きています。ヨエル書のように国家規模の危機には至らないにしても、一地域の生活が台無しになることがほとんどです。その時、私たちは苦しんでいる方々の心に寄り添い、支えることが大事です。それと同時に、はじめは良いものとして造られた人間がなぜこうも苦しむのか、そこに目を向けて神のみこころに思いを向けることが大切です。

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