■はじめに
教会では定期的に集まって祈る機会を設けています。多くの教会では週の半ばに開いていますが、人数の多い教会では月に一度の開催もあります。あるいは、いくつかのグループに分かれてグループごとに祈り会を開く教会もあります。また、祈り会とは別に、礼拝のあとに自発的に集まって祈ることもあります。人命にかかわるような大きな苦難の時には、緊急に集まって祈ることもあるでしょう。集まって祈るのは、クリスチャンとして当たり前のように思えるかもしれません。けれども、なぜ私たちは一緒になって祈るのでしょうか。今日は「ともに祈る」ことを使徒たちの姿から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.イエスの昇天後、弟子たちは心を合わせてひたすら祈りながら、聖霊が下るのを待った(使徒1:14)
まず、集まって祈った弟子たちの姿を見てみましょう。キリストを信じた者たちが集まって一緒に祈る、いわゆる祈祷会の原型が使徒の働き1章にあります。彼らが集まった経緯(いきさつ)を短くお話しします。
イエスはよみがえりから40日間、弟子たちの前に現れて、ご自身が本当に死からよみがえったことを明らかにし、天に昇りました。さらに、よみがえりから50日後、聖霊が弟子たちの上に臨み、彼らは力を得てイエスの死と復活を語り始めました。この出来事がペンテコステであり、世界宣教と教会の始まりです。
イエスが天に昇った後、彼らは聖霊が下るのをエルサレムで待っていました。なぜなら、弟子たちと一緒にいるときイエスがこう命じたからです。「使徒の働き1章4-5節」を読みます。
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。
しかし、彼らはただ待っていたのではありません。「使徒の働き1章14節」を読みます。
1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
彼らは、イエスの墓を見に行った女性やイエスの家族とともに一つの所に集まり、いつも心を一つにして祈りながら聖霊を待っていました。この「いつも心を一つにして祈っていた。」ここに、集まって祈るための心得が示されています。「心を一つにして」は「いっせいに/一団となって」を意味しますから、全員がある物事に対して同じ考えや望みを持っていることを表しています。また「いつも~祈っていた」は「飽きずに/いやにならずに祈り続ける」という意味がありますから、こちらは全員が同じ熱心さがあることを表しています。つまり、「いつも心を一つにして祈る」は、思いの向きと強さが同じでなければできないのです。
イエスの弟子たちは、イエスの指示通りエルサレムで聖霊が下るのを待っていました。彼らは、「聖霊が下る」という約束を全員が信じ、そして「下って欲しい」という情熱も同じでした。だから、いつ聖霊が来るのかわからない中であっても、誰一人欠けることなく、皆が心を合わせてひたすら祈り続けることができたのです。私たちも、教会が大きな問題に直面したり、危機的状況に陥ったりしたときに集まって祈ります。そのとき、「神から助けがあり、解決すること」を全員が疑わずに、かつ「必ず」という強さを全員が持つことが大事です。
Ⅱ.イエスは複数での祈り方を弟子たちに教えた(マタイ18:19-20)
ところで、イエスは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と命じただけなのに、弟子たちは一つの所に集まってひたすら祈りました。なぜ彼らは自主的にそうしたのでしょうか。それは彼らが、かつてイエスが語ったことばを実行したからです。そのことばがマタイの福音書18章19-20節です。「マタイの福音書18章19-20節」を読みます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
「あなたがたのうちの二人が」とあるように、19-20節は複数で祈るときの祈り方を教えています。ここから今回は2つのポイントを挙げます。
まず一つ目は「全員が一致して乞い求める」ということです。
19節「心を一つにして祈るなら~かなえてくださいます。」となっているように、ここには祈りの条件が示されています。さらに「心を一つにして祈るなら」は「もし、心を一つにするなら」と「もし、乞い求めるなら」の2つの条件が含まれています。それぞれ解説します。
①もし、心を一つにするなら:これは、二人の思いがぴったりと重なるなら、と言う意味ですから、願う内容が一致しています。
②もし、乞い求めるなら:これは、二人とも「そうなって欲しい」と強く願うなら、と言う意味ですから、願う強さが一致しています。
つまり、複数の者が祈るときには「一人一人の祈りの内容が一致していること」と同時に「願う強さも同じであること」をイエスは教えているのです。一緒に祈っているのに祈りの内容が違っていたり、ある人は「絶対に叶えてください」だけれども、ある人は「どちらでもいいです」では、集まって祈る意味がありません。もし互いにバラバラな祈りだったら、キリストにあって一つではないことを神に証ししているようなものです。これは、キリストの教えからはずれています。ですから私たちも何人かで祈るときには、祈りの内容を文字にするなど工夫して、集まった人すべてが一致して乞い願うことができるようにするのです。先ほど申しましたように、弟子たちはみな心を合わせ、祈りに専念していました。これはまさに、イエスの教えを忠実に守っているのです。
二つ目は、「集まった人々の真ん中にイエスがいることを確信して祈る」ということです。
イエスは、祈りが天の父に必ず届いている理由を20節のように言います。「イエスの名において集まる」というのはイエスを信じる者がイエスのために集まる、という意味です。ですから礼拝をはじめ、祈り会、家庭集会など、教会が主体となっている集まりはすべて、「イエスの名のもとに集められた」と言えます。
そして、「わたしもその中にいる」は「集まった人々の真ん中にいる」という意味です。「人々の真ん中」とは全員との距離が同じであり、誰かが近くて誰かが遠いということはありません。すなわち、「わたしもその中にいる」は、すべての人の祈りを初めから最後までしっかりと聞いていることを強調しているのです。さらに言うなら、イエスが地上の人と天の父とをとりなしてくださるから、心を一つにした祈りは父に届くのです。
ここから祈りに向かう姿勢が導かれます。それは、集まっているところにイエスがおられるのを確信して祈る、ということです。イエスが聞いておられるから、私たちは父に届いていることを確信して祈れます。届いているかどうかの不安はありません。また、イエスが聞いておられるから、神の名を汚したり、イエスが不名誉になるような祈りはできません。だから、神のみこころに目を止めることができるのです。そして、イエスがおられるから、悪霊の働きから守られ聖霊に耳を傾けることができるのです。「この集まりの真ん中に今イエスがおられる」これこそ私たちの大きな安心です。きっと弟子たちも目には見えないけれども、イエスが一緒にいることを心に感じて、ひたすら祈っていたことでしょう。
■おわりに
今日の内容を現代の私たちに適用します。人生には辛(つら)いこと、悲しいこと、目の前に立ちはだかる問題などがたくさんあります。しかし、イエスは平安を私たちに約束しました。また、神は耐えられない試練はないとも約束しました。私たちは一人でこの約束を疑わずに信じて待つことが必要ですが、同時に祈ってもらい人に支えてもらうことも大切です。幸いにも私たちには共に祈ってくださる神の家族ががいます。決して一人ではないのです。心が弱くなったり、折れそうになったり、生きる目標を見失ったり、そんなときこそ、自分一人で解決するのではなく、教会に来て、心を一つにして祈ってもらいましょう。そして、回復したら今度は自分が誰かのために、一緒に祈りましょう。
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