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木村太

10月23日 「こんなにすばらしい救い」(ヘブル人への手紙2章1-9節)

■はじめに

 イエスは母マリアから人として生まれ、人として育ち、人として十字架で死んで、人として墓に葬られました。一方、弟子たちとの活動では不治の病を治したり、死人をよみがえらせたりのように、およそ人にはできないことをなしました。ただし、これだけを見てもイエスが救い主とは断言できません。なぜなら、使徒ペテロやパウロも不思議なわざを行い、しかも死人をよみがえらせているからです(使徒9章,20章)。今日はなぜイエスを救い主と言えるのかを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.御使いを通して語られた神のことばによる処罰よりも、救いをないがしろにした方が重く恐ろしい(2:1-4)

 この手紙が書かれた時代、世間には御使い礼拝がたくさん見られ、御子イエスも最高位の御使いと見られそうになっていました。それで著者は手紙の冒頭から御使いよりも御子の方がはるかに優れていることを様々な角度から語りました。さらに著者は救いという面から、御使いと御子との決定的な違いを明らかにしてゆきます。


 1節「こういうわけで」とあるように、権威や性質、働きの点において御子は御使いよりもはるかにすぐれています。けれども、この世で生きているクリスチャンは御使い礼拝を初めとする世の中の価値観や風習に流されがちです。特に、御子を信じていても迫害が収まるばかりか激しくなるのであればなおさらです。だから「聞いたことを、ますますしっかりと心に留め(1節)」と著者が勧めているように、意図的に御子に注意を払い、御子への信頼と従順から逸れないように命じたのです。


 というのも、世間に身を任せて流される方が結末はひどいからです。イスラエルの歴史を振り返ると、神は御使いあるいは預言者を通してイスラエルの民が正しい方向に進むよう警告しました。しかし、イスラエルの民は何度も神のことばに違反し不従順ゆえの処罰を受けてきました。その最たるものがアッシリアによる北王国イスラエルの滅亡であり、バビロニアによる南王国ユダの滅亡です。


 ユダヤ人クリスチャンは父祖たちの背信と処罰の歴史をよくわかっています(2節)。だから著者は、神のことばによる契約いわゆる旧約よりも、御子による救いの契約いわゆる新約の方がはるかにすばらしいから、それを無視したら父祖たちよりももっと恐ろしい罰になる、と警告するのです(3節)。「あなたがたは父祖たちの罰をよく知っているでしょう。であれば、御子による救いをないがしろにしたら、なおさらひどい罰を免れないのをわかるでしょう。」という警告です。


 ここで著者は御子による救いについて語ります。御子イエスがこの世に来る前は、神は御使いや預言者を通してご自身のことばをイスラエルの民に伝えました。これに対し、御子による救いは主すなわち御子自身が直接人に語り、そして主のことばの確かさを弟子たちが明らかにしました(3節)。使徒の働きにあるように、御子イエスが予告していた「十字架での死とよみがえり」がその通りとなった事実から、使徒たちはイエスの語ったことばは真実だ、と伝え続けました。それに加えて、神も使徒たちを通して不思議なわざをなし、彼らのことばに信用を与えました(4節)。また、「聖霊が分け与えてくださる賜物によって」とあるように、聖霊が彼らを助け、進むべき道に導きました。ペテロが牢獄から解放される時には御使いが助け、パウロは聖霊の導きによって伝道しています。


 つまり、手紙の著者はこう言いたいのです。「あなたがたは父祖たちの歴史も知っているし、使徒たちによって確かにされた御子のことばも知っている。だからよりすばらしい御子による救いに留まりなさい。」私たちも「イエスの救いがどれほどすばらしいのか」「イエスがともにいることがどれほど心強いか」を知っています。その上、この時代にはなかった新約聖書を通して、イエスの事実や使徒たちの事実をこの時代よりもより広く、より正確に知っています。それゆえ、御子イエスのことばを信頼してイエスに従うから、イエスではないものに魅力を感じたとしても、それに流されないのです。


Ⅱ.神である御子が人となって十字架で死んだから、御子による救いがすばらしいと言える(2:5-9)

 ここで著者は、御使いたちによって語られたことばよりも御子による救いの方がすばらしいことを確認します。


 5節「私たちが語っている来たるべき世」とは、手紙の最初で語っていた「終わりの時代」すなわち御子が再び来るのを待っている今の時代を言います。別な言い方をすれば御子による救いの時代となります。この時代「神は御使いたちに従わせたのではないからです。」とあるように、「人を罪の滅びから救う」ことの中心は御使いではなく御子イエスです。このことを著者はすでに「御子は罪のきよめを成し遂げ(1:3)」ということばで証明していますが、ここではさらに詳しく語っています。それが6-8節前半です。


 著者は詩篇8篇4-6節を引用しました。「人とは何ものなのでしょう。...人の子とはいったい何ものなのでしょう。」とあるように、この歌を詠んだダビデは人をご自身と似たものとしてお造りになった神をほめたたえています。ただし「これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。」とあるように、この詩篇における人は罪が入る前の人を指しているのは明らかです。なぜなら罪ある人は神から栄誉を受けられないからです。


 ところが手紙の著者はこの詩篇を御子に適用しました。というのも「人の子」がメシアを指し示すことばであり、さらにこの内容が御子を完全に説明しているからです。ここには御子について3つの事実が記されています。


①7節「人を御使いよりもわずかの間低いものとし」:「わずかの間」は「少しばかり/わずか」とも訳せます。ですから、イエスが人として生きた期間(33年)あるいは人が御使いよりも機能的に劣っていること、とも受け取れます。いずれにしても神は御子を人の肉体を持たせてこの世に遣わしました。福音書は御子が人として生きた事実を表しています。


②7節「これに栄光と誉れの冠をかぶらせ」:神は十字架での死からイエスをよみがえらせました。イエスは人が受けるべき罰を十字架で受け、救いを成し遂げただけではありません。人とは違うからだでよみがえることで、死に勝利し永遠に生きるからだとなりました。これが神からの誉れであり、同時に神のすばらしさを表しています。


③8節「万物を彼の足の下に置かれました」:御子はよみがえった後、天に上り神の代理人席である神の右の座に着きました。つまり、神と共にこのよを世を治めておられます。


 まさにこの詩篇は「人として生まれ、十字架で死に、よみがえって天に上り、神の右に座している御子イエス」を指し示しています。ただし、人の目にはすでに完了したこともあれば、まだ現在も続いていることがあります。それを著者はこう言います(8節後半-9節)。


 この時代も現代もすべての人が御子を救い主と信じていません。御子イエスを無視したり、知っていても抗う人がいます。御子によって万物が支配されているのは事実ですが、さばきによって白黒つけるというのはまだ先なのです。


 一方、「イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。」とあるように、十字架の死とよみがえりという「人を罪の滅びから救うための働き」はすでに完了しました。このことは弟子たちをはじめ彼らと同時代の人々が現実に見ています。まったく罪のない神である御子が、受ける必要のまったくない十字架刑を受けたことで、人は身代わりとなった御子のあわれみ、御子を差し出した神のあわれみを知るのです。そして、御子の死によって自分の罪が赦されたのは、自分の功績ではなく完全に神の恵みであるとわかるのです。だから、御子による救いを「こんなにすばらしい救い」と呼べるのです。


■おわりに

 「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。(1:14)」御使いは人に仕えて助けますが、置かれている地位から離れません。一方、御子は神の相続者であり、神と同じ性質、権威を持っていて、神の右に座すべきお方です。その御子が天にある神の座から離れてこの地上に遣わされ、傷つき弱く朽ちてゆく肉体となりました。また、天では味わうことのない地上での営みとなりました。私たちが経験する喜怒哀楽をまさに身を持って経験するのです。


 そして完全に父なる神に従ったのに、私たちが受けるべき罰を身代わりとなってお受けになりました。それが十字架での死です。見捨ててもよいはずの人を神は見捨てず、見捨てる必要のまったくない御子を神は一度見捨てました。御子は人が味わうべき滅びの苦しみを、人に代わって味わいました。それほどまでに神は人を大切にしているのです。「こんなにすばらしい救い」を私たちは受け取っているのですから、イエス以外の魅力に誘惑されても、イエスに留まれるのです。


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