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木村太

8月20日「神への信頼から人への愛が生まれる」(ヘブル人への手紙13章1-6節)

■はじめに

 私たちは自分の必要が満たされないとイライラしたり、そのことばかり気になるものです。時には、確かな証拠もないのに「社会のせいとか周りの人のせい」と思ってしまい、怒りをぶつけることもあります。そんな時に、他の人の必要に気がついたり、何とかしようと思うでしょうか。「自分の満たしを求め、他者のことに無関心」な風潮では、互いに支え合うといった関係は生まれず、平和や平安とは程遠い世界になります。そこで今日は、この世を生きるに当たって平和と聖さを実現することをみことばに聞きましょう。


■本論

Ⅰ.自分の利益を後回しにして他者を助けることが平和を生む(13:1-4)

 この手紙の著者は「迫害の中で信仰を貫くとは平和と聖さを追い求めること」と語りました(12:14)。それで著者は手紙の最後で、平和と聖さを実現するためにはどうすればよいのかを、事例を挙げて説明します。今日扱う箇所では5つの事例があり、そのうち最初の4つは相手がいて成り立つことがら、最後の一つは単独でのことがらです。注解書によれば、これらはキリスト教会の初期より信仰の本質に属するものでした。それで著者はこの5つを扱ったと思われます。


(1)兄弟愛(1節)

 兄弟愛とはクリスチャン同志の愛であり、家族が互いに大事にしあう様を言います。ただし「いつも持っていなさい。」とあるように、気が合うとか心地よい間柄だから大事にするのではありません。たとえ「意見が合わない/指導に従わない/罪を犯している」といった者でも大事にするのです。なぜなら、神が罪を赦した者を自分の好き嫌いで愛さないのは、神よりも自分を上にしていることになるからです。神は神の民を見放さず、見捨てないと約束しているのですから、私たちが見放し見捨ててはいけません。何よりも迫害を生きるためには互いの結束が大事です。キリスト故の苦しみを分かち合えるのは兄弟姉妹だけだからです。


(2)旅人をもてなす(2節)

 兄弟愛よりもさらに大事にする範囲を広げています。注解書によればこのような背景がありました。「当時の宿屋はあまりにもいかがわしいものだったので、不品行を避けるために、同じ信仰の兄弟の家に宿泊することは彼らにとって必要であった。ところがキリスト者になりすまして無料の食事と宿泊にありつこうとする非良心的な人間がいたため、だまされた経験者はどうしても慎重になり、もてなしの精神が委縮しがちになった。」つまり、「自分の益か損か」を考えたため、何らかの必要がある者を見捨ててしまったのです。それで必要としている人には十分に応じなさいと命じているのです。しかも、「ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」とアブラハムやロトのように、そういったもてなしは客を通して神に対して奉仕しているのです。なぜなら神が人の必要に応じているからです。主の祈りで「私たちの日用の糧を今日も与えたまえ」がその証拠です。神が人の求めに応じているから、私たちも自分の損益で判断してはいけないのです。


(3)迫害に合っている者を思いやる(3節)

 「牢につながれている人々/虐げられている人々」は信仰ゆえの迫害を受けている者を指しています。その者たちについて「自分も牢にいる気持ちで/自分も肉体を虐げられている気持ちで」思いやりなさい、と命じています。つまり彼らの痛み、苦しみ、辛さを自分のこととするのです。なぜなら、もし自分も彼らと同じ場所や時代に生きていたとしたら迫害を免れないからです。言い換えれば、自分の代わりに傷んでいるから、いつも心にかけるのです。


(4)結婚を大事にする(4節)

結婚は自分にとって最も大事な関係です。ですから「寝床が汚される」すなわち姦淫を代表とする性的な不品行をしてはなりません。なぜなら、「神は... さばかれるからです。」とあるように、結婚は神が直接定めているからです。イエスは結婚についてこう言っています。「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。(マルコ10:9)」結婚は神が男と女を一体に結び合わせたのですから、それを壊すのは神をないがしろにしているのと同じなのです。


 最初に申しましたようにこの4つの事例はいずれも他者や伴侶が支えを必要としている間柄です。その一方、助けたり関わることで自分の身に苦難や負担が及ぶものです。自分で自由にしたい時間や金銭や持ち物を他者に割くことになるからです。簡単に言えば「面倒くさい/面倒くさいことになる」という思いが真っ先に出る事例と言えます。ですので、自分の利益や欲望を最優先にすると、これら4つのことがらを守ることはできません。さらにはこれらを守らなければ平和を壊すことになります。


 神はそうではありません。神は、救いを必要としている人をご覧になり、ご自分の子イエスを犠牲にしました。本来、神は助けを求める人であっても、神に背いているのですから放っておいてもいいのです。でも神にとって人は特別な存在だからかわいそうに思い、イエスの死とよみがえりによって滅びから救ってくださいました。私たちはこのことに目を止めていれば、他者を大事にする気持ちを保てるのです。


Ⅱ.神への信頼が欲望を退け、聖さを生む(13:5-6)

 今扱った4つのことは他者があって成り立ちます。一方、5つ目は当人のみに関わる内容です。5節「金銭を愛する」とは金銭欲とか貪欲を意味し、金銭でしか心が満たされない有様を言います。金の亡者とかお金の奴隷といったところでしょうか。ここで注意したいのは、大金を手にしたり、貯蓄を増やすことなど経済的な余裕を望むのは禁じていません。あくまでも、「心を満たすのは金銭だけ」という生き方を禁じています。


 聖書では金銭への愛着と性的不品行を欲望の代表と見ています。例えば、パウロは金銭についてこう語っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。(Ⅰテモテ6:10)」欲望の中でも金銭欲が最も表に出やすく、不安や恐れ高慢、妬みといった聖さを損なう原因になります。例えば福音書を見ると、裕福な青年が永遠のいのちについてイエスに尋ねたら、イエスは「持っているものをすべて売り払って貧しい人に与えなさい」と答えました。その答えを聞いてこの青年は悲しみながら立ち去りました。彼にとっては永遠のいのちよりも財産の方が大事なのです。金銭への執着がキリストや人よりも金銭を第一にさせるのです。


 それで著者は、金銭を愛する生活をしない秘訣について「今持っているもので満足しなさい。(5節)」と命じます。なぜなら「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない(5節)」とあるように、神が必要なものを与えてくださるからです。主の祈りで「私たちの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っているように、「神が与えてくださるから」という安心が、「今持っているもので十分だ」という安心を生み出すのです。


 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」この神の約束は「神が必要なものを与えてくださる」という金銭的あるいは物質的な安心に留まりません。人生のあらゆる面に及びます。これまで申しましたように、人は損得勘定で人を助けたり見捨てたり、知らないふりをします。だから「人が私に何ができるだろうか。(いや、ない)(6節)」となるのです。


けれども神は自らの損得で助けたり見放したりはしません。神にとって人は見放し見捨ててもよい存在なのに、我が子キリストを犠牲にしました。それほどまでに神は人を大事にしているから、私たちは神が助けてくださるという確信を持ち、その確信から「今持っているもので大丈夫だ」という安心に至るのです(6節)。


■おわりに

 この世界には金銭や物質に加えて医療や教育など様々な支援を求めている人や集団が無数といっていいほど存在します。そして私たちは必要の訴えを聞いて「支援しよう」と考えます。ただしその時、「必要に応じられるか/自分たちに災難が降りかかったらどうしよう/今の自分たちには何ができるのか」といった不安や恐れを抱くことがあります。


 しかし、神は「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束しています。これを信頼することで、「神がおられるから必要は満たされる」という安心が生まれ、その安心が私たちを支援に動かします。神への信頼が他者を大事にする思いを生むのです.。

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