■はじめに
学問、芸術、スポーツなど知識や技術を究めるには専門の指導者が必要です。独学でもある程度のレベルにはなりますが限界があります。というのも、自分一人では自分の様子を客観的に見れないし、お手上げになってしまったらなす術がありません。解決策を見つけるどころか、解決策があるかどうかもわからないのです。ですから高みへ導くための教官とかコーチ、師匠といった指導者が必要なのです。私たちの信仰もそれと同じです。そこで今日は、信仰の指導者たちに倣うということを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.キリストは不変だから、私たちはキリストに従った指導者たちの信仰を見倣い、間違った教えについて行かない(13:7-11)
手紙の著者は読者たちにクリスチャンとしての生き方を手紙の終わりで指示しました。ただし、読者はそれを具体的にどうやるのかわからない状態です。それで、著者はお手本があることを教えます。著者の配慮が伺えます。
この手紙は紀元60年頃と見られていますから、この指導者たちはキリストによる救いを人々に伝えて、最初の教会を立て上げた者たちです(7節)。中にはすでに召された方もいるでしょう。この当時はキリスト教はいわば新興宗教ですから、指導者たちはキリストを信じるという信仰にしっかりと立たなければ、キリストを伝えながら生きてゆくことはできません。それで、迫害の中にある読者に「よく見て、その信仰に倣いなさい」と命じるのです。
倣うには、「生き方から生まれたもの(7節)」とあるように、信仰に基づいたふるまいとその結果をじっくり見ることが何よりも大切です。「パウロやペテロのように様々な困難に遭いながらも、なぜ信仰を貫けたのか/信仰によって彼ら自身や共同体に何が起きたのか/困難をどうやって乗り越えたのか」といった具体的なことがらを知って、それを自分に適用することで、指導者たちと同じ生き方になって行きます。それゆえ「よく見て」と命じられているように、十分に観察する必要があるのです。現代の私たちがモーセやパウロの生き様を聖書から学ぶのもそれと同じです。
ここで著者は唐突にキリストについて語ります。聖さ、正しさ、従順といったキリストの性質、突き詰めて言えばキリストによる救いは決して変わりません(8節)。だから、お手本とする指導者の信仰は揺るがず、かつどの指導者も信仰に根差した点では同じです。さらに言うなら、人によっても時代によっても地域によっても「キリストによる救い」は変わらないから、この時代から約2000年後の日本にいる私たちも読者と同じ指導者を見倣えるのです。
その一方、著者はキリスト以外の教えに倣わないよう命じています。ここで言う「様々な異なった教え(9節)」とは、「食物の規定」に代表されるように、「行いによって滅びからの救いや、この世での利益がある」という教えです。人は誰でも期待が長引けば心は萎えてきます。反対にすぐに結果が出れば安心します。だから、誰でもこういった結果が目に見える教えに魅力を感じるのです。
けれども「恵みによって心を強くするのは良いことです。(9節)」とあるように、心が動揺せず、平安をもたらすのは「救い」という恵みです。異なった教えは一時的であり、またどんな場合でもとはなりません。「キリストは変わらない」この事実がいつでもどんな場合でも心を強くするのです。
著者はさらに「食物の規定」では益にならないことを解説します。10節でいう「祭壇」は罪を赦してもらうための手段を指し、そして10-11節は大祭司が年に一度至聖所に入って礼拝する「大贖罪日」を扱っています。明らかなように、「大贖罪日」は動物の血による罪の赦しだけを定めていて、他の礼拝のように祭司の食べ物は定めていません。つまり、「キリストの血」だけがクリスチャンの益である「救い」という恵みを与えるのであり、それ以外のどんな教えもなしえないのです。
人はやることが細かく決められていた方が行動しやすいです。なぜなら、自分で考える必要がないし、責任を取らなくていいからです。また、人はすぐに結果が見えるものに飛びつきやすいです。なぜなら、すぐに安心を得るからです。一方、指導者を見倣うのは自分で見て考えなければなりません。加えて、天の御国は目に見えないし、来る期日も明らかではありません。ですので、天の御国を目指しながら指導者たちを見倣って生きるというのは簡単ではありません。だからこそ私たちは「この地上の何物にも代え難い天の御国での永遠のいのちは、キリストのみ」という不変の事実にしっかりと根差さなければなりません。信仰の指導者たちはそれを私たちに見せています。
Ⅱ.天の御国の約束は不変だから、私たちはキリストを見倣い、賛美と慈善によって神への感謝を表す(13:12-16)
ここで著者は大贖罪日のことをキリストに適用します(11-12節)。先ほど申しましたように、この日、大祭司はイスラエルの民全員の罪を赦してもらうために、いけにえの血を携えて至聖所に入り神にささげます。それと同じように、キリストも人の罪を赦すために大祭司としてご自身の血を神にささげました。さらに、大贖罪日では血以外のすべては宿営すなわちイスラエル人居住地の外で焼却されます。それと同じように、イエスの肉体はエルサレムの門の外であるゴルゴタで十字架にかけられました。いけにえが焼かれたように、イエスも十字架刑だけでなく、ゴルゴタへ行く道でも非常な苦しみを受けました。
それで著者はこう勧めます(13節)。イエスは宿営の外で辱めを受けました。むち打ち、十字架刑という肉体的辱め、悪口や侮辱といった精神的辱めです。クリスチャンも宿営すなわちクリスチャンの共同体である教会から一歩外に出たら辱めを受けます。キリスト教を認めない国や社会であれば迫害や弾圧、差別などがあります。そこまでではないものの、キリスト教に基づく価値観や倫理観、時にはキリスト教の教えそのものがからかわれたり、拒否されたりします。
私たちはこういった辱めをできれば避けたいと思いますが、実は信仰による辱めはイエスに倣いイエスと一体になっているのです。イエスの苦しみを現代の私たちが担い、イエスが現代の私たちの苦しみを担っているからです。読者は迫害という辱めに直面しているから、キリストではない異なった教えに向かいそうになったり、すでに出て行った者もいます。だから著者は迫害はイエスに倣い、イエスに近づき、イエスと一体となっているという励ましをしているのです。簡単に言えば、この世における信仰ゆえの苦しみはイエスのお役に立っているのです。
そしてこれをなさせるための力、動機が14節です。「キリストはとこしえに変わらない」から「来たるべき都」すなわち「天の御国にある都エルサレム」という約束も変わりません。つまり、私たちは「天の都エルサレム」に入るのを求めてこの地上を生きているのです。それゆえ、ゴールが決まっているから何があっても希望を失わずに宿営の外で生きてゆけるのです。
著者は「来るべき都」が確定していることから読者にこれらを勧めます(15-16節)。著者は神への賛美と人への慈善・分かち合いを勧めます。これらは「天の都」が確定していることに対する神への感謝の現れと言えます。「唇の果実である賛美を絶えずささげる」のも「善を行うことと、分かち合うことを忘れない」のも「天の御国というゴールがどれほどすばらしいか」を実感していなければ心に湧いて来ません。本来、見捨てられてもいいはずの私たちが、キリストといういけにえによって神の怒りを免れ、永遠の平安である天の御国に入れるのは、どれほどすばらしいことでしょうか。しかも、キリストによる救いは決して変わりませんから、間違いなく入れます。これが私たちがクリスチャンとして生きる土台です。
■おわりに
さて今回は17節をもって宣教のまとめとします。17節で言う指導者は、いまこの地上で働いている教会の指導者を指しています。彼らは「天の御国」という変わらない約束にしっかりと根差して、どのような苦難でも信仰を貫きました。だから私たちは彼らを見倣ってこの地上を生きています。ただし、見倣っていますからお手本と合っているかどうかは他者のチェックが必要です。それで、私たちは教会の指導者を信頼して、指導者のことばを素直に聞いて従うのです。というのも「この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」からです。
指導者は信徒のたましい、すなわち信仰の状態にいつも注意を払っています。そして一人一人について神に報告・相談します。もし、お手本に沿っているならば喜びと共に神に報告します。お手本とずれているならばどうすればよいのかを祈り求め、その人に伝えます。従わない人たちについては「ため息をつきながら」報告し祈ります。「そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」とあるように、こういった状況が長引いたり、深かったりすると指導者の心がなえてゆきます。そうなると指導者の働きが弱くなくなり、ひいては信徒も適切な指導を受けられません。
繰り返しになりますが、「イエス・キリストは決して変わらない。だから天の都に必ず入れる。」ここに根差すことが、キリストと一体になり、信仰の偉人を見倣い、教会の指導者に従うことに至るのです。そして、そのような生き様がイエス・キリスト、信仰の偉人たち、教会の指導者の喜びとなるのです。
Comments