■はじめに
イエスは十字架の死からよみがえって弟子たちに現れ、そのあと天に戻って地上を去りました。人というかたちで弟子たちと一緒に生活することはありません。そのため、彼らに前もって「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)」と語り、さらに「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14:16)」と励ましました。イエスは聖霊という助け主を与えて、「目には見えないけれどもイエスがともにいること」を実感できるように配慮するのです。ここから分かるのは、たとえキリストを信じていてもこの世を生きるには神の助けが必要だ、ということです。今日は、私たちの信仰と神の働きについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.著者は、キリストを信じる者が神によって整えられるように祈る(13:18-21)
手紙の著者は読者に必要なことを語ったので、いよいよ手紙を終えます。ここまで著者は読者について語ってきましたが、最後に自分たちのために祈るように、読者に求めます(18-19節)。「私があなたがたのもとに早く戻れるように(19節)」とあるように、著者は読者が集う教会の有力な指導者と思われます。著者たちは「正しい良心」すなわち神の前に少しもやましいところがないと確信しています。これは決して傲慢ではなく、信仰の偉人たちと比較したり、あるいは客観的に見てもそうなのでしょう。
その上で、彼らは何事についても神の目にかなったことをしたいので、それができるように祈りを要請しています。指導者といえども罪ある人間だから、祈りという助けが必要なのです。別な見方をすれば、指導者であっても同じ神の家族なのですから信徒は「兄弟愛をいつも持っていなさい。(13:1)」を実践すべきなのです。
一方、著者は何らかの事情で教会から遠く離れていると思われます。現地で彼は「キリストに失望してキリストから離れる」といった教会の危機的状況を知ったので、一刻も早く戻りたいのです。ただ、すぐには戻れないので、取り急ぎ必要なことがらを書いてこの手紙を教会に送ったのです。ここに混乱の中にある信徒たちを気遣う著者の兄弟愛が表されています。
さて、手紙の著者は手紙本文の締めくくりとして祈りを神にささげます。20-21節は「大牧者の祈り」とも呼ばれ、礼拝の祝祷として用いられています。著者はまず、神とイエスが何をなしたのかを告白し(20節)、次いでその神になして欲しいことを祈っています(21節)。
➀神についての告白
神は「血」すなわち十字架の死にまで従ったイエスを死者の中からよみがえらせました。神は完全に正しいイエスを死で終わらせず、新しいからでよみがえらせ、天に引き上げました。そして「羊の大牧者」に定めて、地上を生きる羊であるクリスチャンを養います。これは神の右の座に就くという意味と同じです。神はイエスを用いて滅びからの救いと、人生における助けをなしてくださいます。
②イエスについての告白
イエスは「永遠の契約の血」すなわち「イエスのいのちによって罪を赦すという契約」のために十字架にかかりました。人に生まれて人と同じ苦しみを受け、人のために十字架の苦しみを受けました。そのイエスを神は死から導き出して羊の大牧者にしました。よみがえりのイエスはご自身を信じる者を養い、神のみこころの方向へ導いています。人のことをすべてわかっているから牧者の働きができるのです。
この2つの告白から分かるのは、滅びからの救いと地上における信仰の保持は神とイエスの共同作業であり、聖霊を通して人に介入するということです。それで、著者はこの神に対して2つの祈りをするのです。
➀祈り1:あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。
「あらゆる良いもの」とは「神がなすあらゆる手段」を指します。例えば、奇跡的な出来事や神のご計画に沿った方向への導きなどを通して私たちは神の介入を知り、ふさわしい者へと変えられてゆきます。これが神による信仰の成長であり、神のみこころを行うイエスに似た者となってゆくのです。
②祈り2:御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。
これも最初の祈りと同じで、神のみわざだと確信できることがらをイエスを通してなしてください、という祈りです。神の介入がクリスチャンの信仰を増し加えたり、あるいは軌道修正をもたらすのです。
地上における私たちクリスチャンの最大の関心事はイエスに倣い、イエスに似た者となることです。なぜなら、それが私たちに平和と平安をもたらし、同時に神の喜びになるからです。ただし、そうなるためには私たちの意志だけではできません。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)」パウロがこう語るように、私たちが神のことばに従いキリストに近づくためには、人の行為と神の行為との結合が何よりも大事です。それゆえ、神の家族は互いに祈り合い、神の介入を願うのです。
Ⅱ.著者は、読者がどのような中でもキリストに留まることを願っている(13:22-25)
著者は語るべきことを語ったので、手紙の形式に則って締めくくります。22節はこの手紙についての説明、23節は報告、24節はあいさつのことば、25節は短い祝祷となっています。4つの節から伝わってくるのは、著者が読者であるユダヤ人クリスチャンすべてを大事に思っている、ということです。そのことを各節ごとに見てゆきましょう。
➀手紙についての説明(22節)
著者からすれば読者の信仰は立派でもなく幼いものです(5:12)。けれども「兄弟たちよ」と呼び掛けているところに兄弟愛を感じます。「私は手短に書いたのです。」とあるように、迫害を受けている教会は、急を要するほど危険な状況だったの要点だけを書き送りました。ただし、「まだ教えてもらわなければならない幼子(5:12-13)」「血を流すまで抵抗したことがない(12:4)」のように彼らの弱い信仰を指摘しました。あるいは、迫害にあっても「平和と聖さを求めなさい」のようなチャレンジを命じました。それで、読者にすれば耳に痛い内容を含んでいるので、「勧めのことばを耐え忍んでください。」と心を配っているのです。信仰に対する厳しさの中にも優しさがあります。
②報告(23節)
ここに登場するテモテはパウロの弟子であるテモテだと思われます。著者は釈放そして彼と共に戻ってくるという朗報をもって彼らを励ましています。
③あいさつ(24節)
著者はまず、危機的状況の中で奮闘している指導者たちをねぎらっています。本来であれば自分が担うべき働きを、残った指導者たちが引き継いでいるのでしょう。その上で「すべての聖徒たちによろしく。」と書いています。教会の信徒の中には迫害を恐れてキリストから離れてしまう者もいます。けれども、その者もキリストによって救われた者だから大切にするのです。
④祝祷(25節)
これは形式的な短い祝祷であり、パウロも書いています(Ⅰ・Ⅱテモテ、テトスなど)。ここにも「あなたがたすべてとともに」とあるように、一人一人の信仰がどうであろうとも全員に恵みがあるように願っています。
この説教で繰り返し触れているように、読者であるユダヤ人クリスチャンは最初のうちは迫害を受けてもそれと戦っていましたが、やがて耐えられなくなり、キリスト教信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいました。彼らはキリストに疑いや失望を感じていました。それで著者はこの手紙を書きました。ただし、彼は「神が何とかする」という気休めや根拠のない希望を語りません。また「迫害者に立ち上がれ」といった戦いも命じていません。あくまでも信仰に留まるのが著者の願いなのです。それが彼らにとって最も必要な平安をもたらすからです。それで著者は、目の前の状況ではなくて、キリストによってどのような状況にあるのか、いわば信仰における状況を明らかにして彼らを励まし、そこからどうすべきかを語るのです。だから、この日本で信仰に生きるのに困難を覚えている私たちにも適用できるのです。
■おわりに
「へブル人への手紙」の説教を終えるに当たり、信仰を保つために4つの「忘れないこと」を勧めます。
➀大祭司であるキリスト、いけにえであるキリストによって、私たちは天の御国というゴールがすでに約束されていて、その約束は決して変わらない
②困難の中でも信仰を貫いたお手本となる方たちがいて、彼らが私たちを励ましている
③聖書の人物も含めて、私たちの信仰をふさわしく整える指導者がいる
④私たちがキリストに倣い、キリストに似る者となるためには、自分の意志だけでなく、三位一体の神の働きが必要である。だからそれを願って互いに祈り合う。
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