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木村太

10月24日「父への祈り~弟子たちのために~」(ヨハネの福音書17章6-19節)

■はじめに

 モーセはイスラエルの民が約束の地カナンに入るに当たりヨシュアをリーダーにしました。その際モーセは民とヨシュア両方に「彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31章)」と語りましました。今、モーセと同じように、イエスは弟子たちをこの世に残して父の所へ行こうとしておられます。イエスも必要なことがらを弟子たちに伝えました。ただモーセには神が定めたヨシュアというリーダーがいますが、イエスにはご自身と同じ働きをするリーダーがいません。そこで今日はイエスがこの世を離れるに際して、父なる神に何を願ったのかを見てゆきます。


■本論

Ⅰ.イエスが父から与えられた弟子たちを保護したように、イエスは彼らの信仰が守られるように父に祈った(17:6-12)

 イエスはご自身の栄光を父に祈ったのち、弟子たちのために祈ります。なぜなら、イエスがこの世を去った後は彼らがイエスを伝えイエスの栄光を知らせる役割を担うからです。


 イエスは初めに2つの事実を明らかにしています(6-8節)。

①神は弟子たちを選んでご自身の所有とし、彼らをイエスに委ねた

②イエスはことばやわざなど神から与えられたすべてを弟子たちに示した


 つまり、イエスは神から弟子たちを委ねられたから彼らの信仰を養い、イエスを伝える者として訓練したのです。ですから、すべての根源は神にあるのです。それでイエスは天の父のところに戻った後は彼らだけがこの世にいることになるので、神に願うのです。


 9節「世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」とあるように、イエスは世すなわちすべての人間のためではなく、弟子限定で願っています。なぜなら、イエスに養われた11弟子が「イエスが救い主である」これを確信して、イエスの栄光を世に明らかにするからです(10節)。だから世ではなくて弟子たちのために、彼らを選んだ神に願うのです。見方を変えれば、弟子たちはイエスの手から神に戻されるのです。ここでイエスは神に求めます(11-12節)。


 イエスが弟子たちと一緒だったとき、イエスはあたかもボディガードのように彼らを保護しました。保護するのは彼らの命も含まれますが、中心はイエスにとどまるというイエスを信じる信仰です。ただイスカリオテ・ユダはイエスを裏切りますが、これは前もって記されていた神のことばが実現するためでした。残りの11人は一時的にはイエスを捨てますが、よみがえりのイエスと再会してイエスにとどまっています。


 ここで「わたしはもう世にいなくなります。わたしはあなたのもとに参ります。」と弟子たちを残すことを強調しているように、弟子たちはイエスという直接の保護を失います。彼らは宗教指導者といったイエスを憎む権威者の攻撃にさらされます。弟子たちは「イエスを捨てたい」と思うほどの苦難に遭うのです。


 それでイエスはこう訴えるのです。「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あなたの御名すなわち聖なる神の権威によって彼らをイエスにとどまらせるように、イエスは父に求めています。ここで大事なのは「一つになるため」です。信仰者が一致して互いに支え合い、苦しみを互いに担わなければ迫害や差別などの苦難を乗り越えられません。他の翻訳で「この人たちが一人も脱落しないように守ってください。」とあるように、世の中の攻撃や誘惑によって弟子たちの輪から一人の脱落もないように、イエスは神に願うのです。


 「イエスを信じる者が一つになっている」これを目に見える形で実現しているのが教会です。ですから教会は一人一人がイエスにとどまるように整える役割、そして互いに愛し合い一致を保つという役割があります。弟子たちによってイエスの栄光は2000年後の私たちにももたらされ、それを受けてイエスを信じた私たちが今度はイエスの栄光を地域に知らせるのです。教会はその働きのための拠点であると同時に、信じる力を補給する場であり、弱くなった信仰を治す場なのです。そのために今もイエスは神にとりなし、神は働いておられます。


Ⅱ.イエスの十字架によって弟子たちは神のものとなり(聖別)、この世でイエスを証しする(17:13-19)

 イエスはまず弟子たちと父との関係から彼らの信仰が保護されるように願いました。次にイエスは弟子たちがこの世の中でどのような立場となるのかを語ります。


 13節「わたしの喜び」とあるように、イエスは弟子たちによって栄光を受けることを喜んでいます。それと同じように弟子たちも「イエスを信じる人によってイエスの栄光がますます現される」ことを喜びます。ただ弟子たちを待ち受ける現実はそう優しくはありません(14-15節)。


 以前申しましたように、弟子たちはイエスのことばを信じ、それを世の中に伝えていますから、イエスの仲間と見なされて憎まれます。この世の教えや思想ではなくイエスを支持していからそうなります。「イエスは神の子、救い主。イエスを信じた者は永遠のいのちが与えられる。」これを証言しても、それを聞いた全員がイエスを信じないのが現実です。「使徒の働き」で明らかなように、宗教指導者はイエスの支持者が増えれば自分たちの権威が脅かされるから、殺すほどに彼らを憎みます。あるいはギリシア人のように哲学的議論は好きだけれども宗教については無視しました。イエスが「悪い者」と言っているように、弟子たちをイエスから引き離す力が強くいつも働くから、彼らを守るように父に願っているのです。この願いに加えてイエスはこう祈ります(16-17節)。


 「この世のものではない」とは信頼や従順の相手が世の中ではなく、価値観とか倫理観といったものごとを測るものさしが世の中とは違う、ということです。例えば、「地元の神や迷信を信頼しない/地位や財産に絶対の安心を置かない」などです。そのような人間になるのが聖別です。


 聖別とは、この世にあるあらゆる物や人を世のものと神のもの、いわば神の所有に取り分けることを言います。神からすれば神の所有であり、人からすれば神の所属となります。ですから、信頼と従順の相手は神であり、神の観点からものごとを見て感じ判断します。もちろん聖は神のご性質ですから、聖別するお方は神であり、真理である神のことばに聖別の基準が明らかにされています。


 18節にあるように、神はご自身と同じ聖であるイエスをこの世に遣わしました。イエスは地上の活動において、何があっても神への信頼とみことばの従順にとどまりました。神から引き離す力に決して屈しないのです。同じようにイエスは弟子をこの世に派遣します。彼らが聖別すなわち神の所属に変えられたなら、何があってもイエスへの信頼とみことばの従順にとどまれます。つまりイエスを安心して伝えるためには聖別が必要不可欠なのです。それでイエスはこう語ります(19節)。


 人はそのままでは聖になれません。旧約聖書ではいけにえを伴った儀式によって人は聖と認められますが、人の心にある罪を消せません。それで、人が聖と定められるために、イエスがご自身を聖別しました。イエスは神と同じ聖ですから聖別の必要はありません。ここでの聖別とは、神の怒りをなだめるために最もすばらしいもの、すなわちすべてのものの中からご自身を取り分けて神にささげることを指しています。つまり、聖なるご自身を犠牲として神にささげることで、神の人への怒りがなだめられ、イエスを信じる者が聖と定められるのです。ですから、イエスを信じイエスのことばに従う者は聖別されていて、その者は神に信頼し、神のことばに従い、神に守りと平安を見いだせるのです。聖別は神からすれば、神から離れた人がイエスを信じることで神の元に戻ることであり、人からすれば神の所有に生まれ変わったことなのです。


 「自分は神の所有となっているから何があっても大丈夫だ」弟子たちはこの確信を持ったから、エルサレムで堂々とイエスを証言できたのです。イエスは一緒にいるときも彼らを守り、彼らを聖別するためにご自身を犠牲にし、地上を去った後のために神に祈り、聖霊を通して彼らを守ります。ここに「尽くす」というイエスの愛を見て取れます。


■おわりに

 現代の私たちは体を持ったイエスと生活していません。その点では弟子たちと違います。けれども弟子たちと同じように、私たちを聖とするために犠牲となったイエスを救い主と信じています。ですから私たちは聖別されてこの世のものではありません。ただし、弟子たちと同じようにイエスから引き離す力のただ中に生きています。ですから、弟子たちと同じようにイエスを信じた故の苦痛を受けます。また、イエス以外に安心や喜びを求めたい葛藤があります。でもイエスが「あの人を守ってください/あの人を悪から遠ざけてください」と神に祈っているのです。私たちはいついかなる時もイエスが見ていてくださり、神の保護の元にあるのです。

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