■はじめに
人は誰でも自分の思い通りに生きてゆきたいと願っています。それと同時に、できることなら苦しみを味わいたくないものです。ただし、苦しみを肯定的に受け止めることもあります。例えば、スポーツ選手のトレーニングは苦しく辛いものですが、それが勝利につながると信じているから厳しい鍛錬も忍耐できます。あるいは、スランプや失敗といった苦しみがあったから成長できたという人もいます。クリスチャン作家のフィリップ・ヤンシーは「人は目的がはっきりしている苦しみには耐えることができる」と語り、こういった苦しみを「生産的な苦しみ」と呼んでいます。では私たちは信仰ゆえの苦難をどのように受け止めればよいのでしょうか。今日は「私たちにとって苦難はどんな意味があるのか」このことを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.パウロはテサロニケの信者が迫害の中でも信仰を増し加えていることを神に感謝した(1:1-4)
パウロは最初の手紙(第一の手紙)から間もなくこの手紙を書きました。どれほど間を置いたのか具体的にはわかりませんが、数か月あるいは半年以内と見られています。パウロは手紙を書いたのち、次のようなテサロニケの様子を聞いて、この手紙を書く必要を覚えました。ただし、テサロニケを再び訪問しようとしていたので、その前に届いていなければならなかったため、間を置かずに書いたと思われます。
①テサロニケ教会の信仰と愛はますます増していた(1:3)
②迫害が依然として続いていた(1:4)
③最初の手紙で書いた「主の日」についての教えを誤解する者が出てきた(2:2)
④この世の終わりが近いと考え、働くことをやめ、落ち着かない生活を送っていた(3:6,11)
本論に入ります。パウロは他の手紙と同じように、差出人と受取人そして挨拶から手紙を書き出します。1-2節は第一の手紙1:1とほぼ同じ内容ですが若干の違いがあります。一つ目は「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」に「私たちの」を付け加えて、パウロたちと同じ神の家族であることを伝えています。二つ目は「恵みと平安」に「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」を加えて、祝福の源がどこにあるのかをはっきりさせています。パウロは「遠く離れていても自分たちと一緒だ。その上、神とイエスがいつもともにいる。」このことを強調して、いまだ苦難にあるテサロニケの信者を励まし安心させたいのです。
続いてパウロは彼らの信仰について語ります。今申しましたように、テサロニケの信者はキリストを否定するユダヤ人から激しい迫害を受けています。テサロニケの信者を取り巻く状況は、およそ信仰を保てる状況ではありません。しかし、信仰から引き離そうとする強い力の中にあっても彼らは信仰を捨てずに忍耐し、イエスへの信頼を失っていないのです(3節)。その姿から、パウロは彼らの信仰が成長し、互いに愛し支え合う力が増し加わっていると認めたのです(4節)。平穏な状況ではなく、精神的・肉体的な苦難にあいながらも彼らの信仰が強まっているから、パウロは彼らを誇りに思い、そして強めてくださった神に感謝するのです。
パウロは第一の手紙で、キリスト教会やクリスチャンは苦難にあうように定められている、と語りました。迫害、おどし、あざけり、冷やかしといった苦難はいつの時代もどこの国でもあります。現代の私たちも信仰ゆえの苦難に直面します。ただし、苦難が激しかったり長く続くと、神への信頼が揺らぎ、忍耐の限界を迎えて信仰から離れてしまうこともあります。「何があっても私は大丈夫だ」と言えるほど私たちは強くありません。だから「一人ひとりの互いに対する愛が増し加わって」とあるように、教会に集うすべての人が互いに支え合い、父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安によって信仰に留まる力を求めるのです。
Ⅱ.苦難が天の御国に入れる証拠となっているから、私たちは苦難を忍耐できる(1:5-7)
ここでパウロは、テサロニケの信者が長く迫害を受けているので苦難について語ります。パウロは第一の手紙ですでに苦難を扱っていて、そこでは苦難が信仰にどんな影響を及ぼすのかを教えました。一方、この手紙では「苦難に何の意味があるのか」という受け止め方を教えます。フィリップ・ヤンシーの言う「生産的な苦しみ」なのか、それとも単なる苦しみなのかといったようなことがらです。
パウロは「苦難に耐えながら忍耐と信仰を保つこと」は、神の正しいさばきがあることの証拠だ、と言います(5節)。「神のさばき」とは「神に従えば祝福、背けばのろい(罰)」という約束を果たすことであり、神はすでにこのようにユダヤ人に告げています。
「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従った場合であり、のろいとは、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。(申命記11:26-28)」
ただし今はイエスによる救いの時代なので神のさばきはこのようになります。「神のことばに聞き従いイエスを救い主と信じた者は祝福すなわち神の国に入り、神のことばに聞き従わずイエスではないものを信じた者はのろいすなわち永遠の滅びに入る」そして神はこのさばきをその通り実行するので、パウロは神の正しいさばきと呼ぶのです。
さらに「神の正しいさばきがあることの証拠」とは「苦難の中で信仰を保つこと」が「神のさばきが将来必ずある」ことの前触れとかしるしを意味しています。北海道では「雪虫が飛んだら近いうちに初雪が降る」と言われていますが、雪虫が初雪の前触れ、しるしです。それと同じように、「苦難の中で信仰を保つこと」が神の正しいさばき、すなわち将来神の国にふさわしいものと認められることのしるしになっているのです。つまり、苦難に耐えながらイエスを信じ続けること自体が、将来天の御国に入れることを明らかにしているのです。
それゆえパウロは「あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」と言うのです。ユダヤ人からすれば、神のことばを信じイエスを信じたのに苦難を受けるのは、「神に従えば祝福、背けばのろい」というさばきが正しく行われていないと思えるでしょう。けれども真実は違います。人にとってのまことの祝福は神の国で永遠に生きることです。だから、苦難はのろいではなく、「神の国に入る」という祝福に直結しているのです。
ここでパウロは、神の正しいさばきと彼らが今受けているユダヤ人からの迫害の関係について語ります。「主イエスが、燃える炎の中に... (7節)」とあるように、イエスが天から再び現れるとき、いわば来臨のときに「燃える炎の中」で象徴される神のさばきがなされます。さばきでは、テサロニケの信者を苦しめる者、すなわち神に従わず自分の考えを優先する者に苦しみが与えられます(6節)。その苦しみが永遠の滅びです。一方、イエスを信じるがゆえに苦しめられている者は安息、すなわち神の国で一切の苦難から永遠に解放され、永遠に安らぎます(7節)。
神は「従えば祝福、背けばのろい」という約束を必ず実行します。今は、信じている者が苦しみ、信じていない者が思い通りに生きていて、神の約束が果たされていないように思えます。しかし、イエスが再びこの地上に来られるとき、この約束がなされます。しかも、イエス再臨におけるさばきこそが人にとって永遠を定めるものであり、人にとって最も大事なのです。信仰ゆえの苦難があるというのは、イエスを信じて生きている証拠であり、神の国に入れる条件を満たしている証拠なのです。だから、私たちは「あらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保てる」のです。
■おわりに
現代の日本人はどんな宗教観を持っているでしょうか。「宗教とか神は喜びや楽しみのためであり、願いをかなえてくれるもの。悪いものから守るもの。困難を解決し、苦痛から解放するもの。」仏教にしても神道にしてもキリスト教にしても、そんなように見ていると思います。それゆえ、信仰ゆえの苦難に会うと「神は間違っている/宗教は役に立たない」と言われたり、あるいは「自分の信仰が間違っているのではないか/信仰が薄いからだ」となるのも不思議ではありません。
しかし、パウロは2つの意味でこの世の宗教観を否定します。一つは、キリスト教の信仰は思い通りになること、いわゆるご利益を保証するのではなく、天の御国を保証していることです。もう一つは、信仰ゆえの苦難は、自分の信仰あるいは神が間違っているのではなく、信仰を貫いている証拠であり、神の国にふさわしい者である証拠だということです。繰り返しになりますが、人にとって最も大事なのは永遠の滅びを免れて神の国に入ることです。フィリップ・ヤンシー的に言うならば、私たちは神の国という目的がはっきりしている苦しみだから苦難を耐えることができるのです。
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